相手の内在的論理に精通する

昨日、ブログでつぶやいたことが、結構リツイートされているようだ。そのつぶやきは・・・
「本当に何かを変えたいのなら、自己主張する前に、まず相手の内在的論理にじっくり耳を傾ける必要がある。相手の論理構築の方法論をしっかり理解し、敬意を抱いた上で、こちらの論理との共通点を探る。本当に対話の出来る「大人」なら、声高・雄弁に語る前に、謙虚に聞く耳を持っている。」
このつぶやきが出てきた発端は、SYNODOSの『したたかな韓国』著者・浅羽祐樹氏へのインタビュー記事だった。その中で、大変興味深い発言があった。
「まずは、ゲームの構図がどうなっているか、そのルールはなにで、ジャッジは誰なのか、といった「大きな絵」を理解することが大切ですね。本書の副題は「朴槿恵時代の戦略を探る」ですが、もちろん、朴槿恵の戦略をそのまま受けいれるという意味ではけっしてなくて、相手やゲームの性格におうじた日本の戦略を探り、外交にのぞむためです。読者の方々には、ぜひとも優秀なクライアントになって、自分に不利なものも含めてそれぞれのシナリオごとに筋道を考え結論を導く<悪魔の代弁人>を立てて、さまざまな問題にアプローチしていってほしいと思っています。」
この浅羽さんの発言を読みながら、彼のこの骨法は国際関係だけでなく、何らかのコンフリクトに陥っている論点に対して使える、極めて普遍的な考え方だと感じていた。少しその点について掘り下げてみたい。
浅羽さんの発言の興味深い点は、日本と韓国の外交関係の論点を考える際、日本側の立場に立つだけでなく、韓国側に立つ重要性を<悪魔の代弁人>というスタンスで整理しているところである。自分とは意見の違う相手(=悪魔)がどのような根拠を持って自らの「正しさ」を主張しようとしているのか。自らが相手の主張の「代弁人」なら、どのように相手の内在的論理をくみ取り、相手側の正当性・正統性を主張するか。それをきちんと考えておかないと、相手の戦略に結果的に飲み込まれていく、という風に僕は受け止めた。
で、僕自身も含めて案外陥りがちな罠とは、「自分の正しさ」にこだわる・居着くと、「相手の正しさ」が見えなくなることである。
意見が異なる論点について、「僕は悪くない」「相手が問題だ」と、You are wrong! I am right!という善悪の二項対立図式にはまり込んでしまうと、この「思い込み」から安易に離れられない。
「何を言うのだ! 正しいことを正しいと述べて、何が問題なのだ」
そういう反論が聞こえてきそうだ。
ただ、何のために「正しさ」を述べるのか、という目的に応じて、適切な手段は分かれる。
①「私は正しい」と自己表現をする目的
②「私の正しさ」を相手も(部分的には)認めた上で、相手と一定の合意形成をする目的
①の場合は、自己表現をする事が目的なのだから、ひたすら「○○はオカシイ・間違いだ」「そう指摘する私は正しい」と主張していればよい。ただし、これはあくまでも自己表現であって、対話ではない。
もし、あなたが何か今の現状を本気で変えたい、と思うなら、①のアプローチは、方法論としては不適切である。なぜなら、①はあくまでも「自己表現」が最終目的である。価値前提が異なる・争点となる問題について、自己表現や説得では、物事は動かない。なぜなら、相手も「自己表現」モードであれば、異なる自己表現のどちらがすばらしいか、という審美主義的価値論争になり、簡単に言えば「好み」の問題になるので、永遠に決着はつかないからだ。
本気で何かを変えたければ、②のように、自分と相手の違いを見定め、お互いが納得できる価値前提にまで立ち返り、そこから共有できる部分を増やすしかない。①は自己表現だから、不勉強でも、思いつきでも、いつでもどこでも簡単にできる。でも、暗礁に乗り上げた問題とは、そもそも乗り上げるまでの様々な誤解や相違、価値前提の違いが積み重なった上での「結果論」なのである。異なる意見が構築されるプロセスにおける、相手の「正しさ」の内在的論理を徹底的に分析し、理解した上で、自らの内在的論理と共有できる部分、ズレが生じた部分はどこか、を見定める必要がある。そして、共通する価値前提の部分に基づき、相違する争点に関して、相手の内在的論理も添う形で、こちらの主張も盛り込んだ「代替案」を示し、それに対する理解や納得、一定の評価を得る。その中からしか、共有化できる論点は生まれない。そして、論点が共有化されないと、相手と私の間で、一定の合意形成は出来ない。
ものすごく、当たり前のことを書いているつもりである。でも、感情的な問題では、どうもこの当たり前の前提が無視されがちだ。
自分の意見が相手に伝わらないとき、つい次のような愚痴を言ってしまわないだろうか。
「理不尽だ」「許せない」「なんでこんな事もわからないんだ」「わからずや」「こいつは頭が悪い」
しかし、自分が言っていることが正しくて、相手の言っていることは頭が悪い、と最初から決めつけている論理は、だいたいにおいて、自己満足ではあっても、その知性は疑われる。僕はそういうときには、いつも内田先生の次の箴言を思い浮かべる。
「私たちは知性を計量するとき、その人の『真剣さ』や『情報量』や『現場経験』などというものを勘定には入れない。そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する。」(『ためらいの倫理学』内田樹著、角川文庫)
ここで大切なのは、自分がどれだけその問題について熱心か(=真剣さ)、どれだけネットや本などを読みあさったか(=情報量)、どれだけその現場に足を運んだか(=現場経験)を、知性の計量において、勘定には入れない、という点である。「その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか」というのは、簡単に言えば、「どれだけ自分の愚かさを勘定にいれているか」という事である。裏を返せば、「どれだけ自分の論理のおかしさを検証しているか、どれだけ相手の正しさの可能性を検討しているか」が、「知性の判断基準」である、と指摘しているのだ。
相手に「わからずや!」と暴言を吐くとき、論理よりも「私は正しい」という自己表現が先立つ。そして、残念ながら自己表現は、好みの問題でもあるので、特に大きく意見の異なる相手の「好み」と合う可能性は低く、相互理解や変容は導き出せない。
その時に大切なのは、「自分の正しさ」を捨てること、ではない。ただ、一度はその「自分の正しさ」から「自由」になる必要はある。一度自分の「好み」を横に置いておいて、相手がなぜ自分とは異なる考え方を「正しい」と「好む」ようになったのか、その好みの理由を徹底的に相手の立場にたって考えることである。その際、既に書かれている相手への悪口を判断材料にしたって、絶対にその内在的論理は理解できない。大切なのは、相手が正しいと考える根拠となる一次資料を丹念に読み解き、相手がどういう考え方の根拠で「その正しさ」を獲得するにいたったのか、相手の頭の論理構造をトレースすることだ。そして、厳しいことを言うと、その相手の内在的論理を分析する時間と手間を惜しむ人ほど、②のアプローチをとらず、①の自己表現に終始しているような気がする。それは、本当に「知性的」と言えるのだろうか。
・・・と書く僕も、決してこれがきちんと出来ている訳ではない。手痛い失敗がある。
昨年まで務めた国の障がい者制度改革の委員会では、厚生労働省の内在的論理に迫りきれなかったのが、その後の「失敗」に結びついた一因である、と感じている(事の顛末はシノドスにも書かせていただいた)。もちろん、この委員会では、これまで意見がまとまらなかった多様な障害関係者の意見をまとめた骨格提言を作り上げる事が出来た。だが、肝心の厚労省とは、残念ながら全面対決姿勢になってしまったので、歩み寄れなかった。その結果、骨格提言内容は見事に葬り去られた。
この際、「厚労省が悪い」というのは、①の自己表現になってしまう。確かに、厚労省の前例踏襲主義に対して「そりゃないよ!」と思うことは多々あった。だが、②を目指すなら、厚労省がなぜ障害程度区分にあれほどまでに拘るのか、なぜ国庫負担基準は絶対死守するのか、なぜ入所施設や精神科病院をあれほどまでに庇うのか、という内在的論理を、厚労省の<代理人>として分析する知性が、少なくとも僕には足りなかった。障害者福祉の国際的動向や、社会モデルの考え方、当事者主体などの理論を基に、「自分たちの考える正しさ」を全面に押し出してしまった。
自己表現なら、それでいいのかもしれない。とはいえ、別に厚労省におもねる必要もない。だが、本当に厚労省を変えようとするなら、厚労省が「正しい」と考えることの内在的論理を徹底的に分析し、その論理の「正しさ」の価値前提を理解した上で、双方の価値前提の共通点と相違点をきちんと踏まえ、その共有化した前提ポイントから相手を揺さぶるオルタナティブを提起すべきだった。だが、自分たちの「正しさ」の骨格提言をまとめるのに精一杯で、その「対話」の論理を徹底的に煮詰めきるには至らなかった。もちろん、向こうも最初から「対話」する気がなかった、という悲しい事情もあるが・・・。
言うは易く行うは難し
だが、この<悪魔の弁護人>の論理は、本当に社会を変えたければ、絶対に身につける必要がある。原発問題や憲法改正、米軍基地問題など、大きく意見が分かれる問題についても、自己表現ではなく、相手と納得できる共有点を探し、そこから相手の価値前提を動かしていく<悪魔の弁護人>のスタンスが必要とされている。
だからこそ、声高に叫ぶ前に、まず謙虚に、相手に敬意を持って、相手の論理をじっくり聞く必要があるのだ。なかなか自分がカッとなってしまうと、それが出来にくいのだけれど・・・。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。