マッピングと批判的読書

 

年度初めは、色んな事がスタートするので、忙しい。それでも前回更新した第二週目あたりまでは、まだたまにじっくりお勉強する余裕もあった。だが・・・。今期、週に一日、二コマの非常勤をしている。そして、本務校の講義も、半分くらいその内容を変えた。ということは、2.5コマ分の講義を毎週新規構築することになる。これが、結構大変。

もちろん、講義のために内容を整理する中で、自分なりの発見もあり、それはそれで面白い。昔、お世話になったある先生に、「講義を通じて、この本を攻略してやろう、という気概を持つべし」という箴言を頂き、それ以来、教科書以外にも「今週のテーマに関する一冊」を設けてみた。それは第一回講義時にも配っている。そして、今年はその本(あるいはそれに類する本)の、次週に扱う部分を「予習ペーパー」として配ってみている。これは学生に好評で、「予習ペーパーと併せて理解できた」という反響も多い。それは嬉しいのだが、ということは、こちらも準備すべき内容が格段に増えていく。

特に今回「ノーマライゼーション論」という講義の代役(お世話になっている先生がサバティカルなので)を引き受けたので、改めて集中的に「ノーマライゼーション」の議論を読み進めている。1960年代に北米・北欧で沸き起こった理念創出時の議論が、どういう背景から生じているのか、を重ねてみるために、ラッセル・バートンの「施設精神病」やアーヴィング・ゴフマンの「アサイラム」という古典的名作も読み直している。改めて、全制的施設の「構造」を上記二冊で再確認出来ると共に、その全制的施設が「全盛」だったころに、その「構造」を読み解いた上で、アンチテーゼというか、その「構造」を超える理念を打ち立ててきた、創始者たちの理論はそれぞれに深みがある。

非常勤の大学では、学部1コマと大学院の演習を受け持っているので、学部ではその大枠を紹介し、大学院では枠となる文献を毎週何本かまとめて読んで議論している。そのために、改めてノーマライゼーションに関する文献を集めたり取り寄せたりして、時系列的に、そして、北欧と北米で別の議論に進化していくので、その二つに大別して、講義予定に組み込みながら並べていくと、ある理論がどのように受容され、かつ批判されていくのかのマッピングが出来てよい。

先週の大学院演習では、90年代初頭に執筆されたこの理論への批判的論文を「批判的に読む」ということを行った。博論を書いていた時にその論文を初めて読んだ際、何だか変だよなぁ、と感情的反発と不全感を抱いていたのだが、その理由を説明することが出来なかった。だが今回改めて落ち着いて読んでみて、全体的な流れ(マップ)上で眺めて直してみると、なるほどどういう文脈からの批判か、が時代背景と共にわかって面白い。私たちはある言説を、そのものだけで当否・善悪を判断するという間違いをしばしば犯すが、その言説の「文脈」を織り込まないと、「空を切る」かのような「空振り」となってしまう。

5,6年ほど前にその論文を最初読んだ際、そういうマップなく「これは変だ」と憤慨していたおり、その怒りは「何が変だ」という論理的根拠のない「空振り」だったので、説明力に乏しかった。だが、今この講義のためにノーマライゼーションに関する言説の流れを自分なりに再構築する中で読み返すと、その論文が鋭く指摘している問題の、正鵠を得ている部分と、解釈上の問題点と、がくっきり見えてくる。

つまり、以前は「変だ」というメガネで先に見てしまっていたので、そこから叡智を引き出せていなかったが、今回落ち着いて読んでみると、そう解釈するための論理的整理は実に鋭いことが見えてくる。すると、その議論の組み立て方、というか、話法の中からは、私たちが学べることは少なくないのだ。どこまでが説得力があって、どの部分に整合性が危うい部分があるか、を見極める、ということは、「空振り」をしないために、つまりは「的を射る」ためには欠かすことの出来ないことである。何であれ、全否定して「聞く耳持たず」ではなく、きちんと相手の論旨をじっくり聞き取り、その中から尊重できる部分は受け止めた上で、聞き取れない部分・聞き捨ておけない部分については、お尋ねしたり、場合によっては反論を用意する。そういう相手の言説をちゃんと「聴く力」が、改めて問われている、と再発見しつつある。

現場のリアティを知っている院生の方の中には、「何だかすっごく読みづらい」と仰る方もいたが、その生理的嫌悪レベルで止まるのではなく、そこからどのようなパスを受けられるか、それをマッピングしながら考えるのが大切だよ、と申し上げる。まるで数年前の自分に説得しているかのように。そう、これはダメ、あれは変、と切り捨てるのは、逆に言えば、良いと思われる、自分の納得できる議論の盲信と表裏一体の関係にある。評価できる論文にも、何らかの落ち度はつきものだし、評価できない論文でも、それが一定程度のクオリティのあるものであれば、そこから受け継げる学恩は、ある場合が多い。それを無視して、二項対立的な整理をしていたら、地図は描けず、自分自身のメガネの偏差が極端になるだけだ。批判的読書、とは、単にダメだを繰り返すのではなく、丁寧に読みながら、その議論に内包される順機能と逆機能部分を整理して解釈し、それを吸収すること。それを通じて、自分のメガネの偏差そのもの(何を盲信して、何を毛嫌いするのか、に関してのメタ知識)の内実を認識することにもつながる。

という内容の半分くらいは、前回のゼミ時でも気づいていたのだが、今書いていて、初めて色々わかってきた。いやはや、たまにブログは更新するものである。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。