連休最後の日の甲府は初夏の陽気。
連休中旬に出かけた小旅行の折、旅先で買った一冊が、この連休中の最大の収穫の1つだった。
「『可能性』という語は、二つの反対語に引き裂かれるようにしてしか使われない。不可能だという意味での『可能性』と、現実的だという意味での『可能性』である。そのどちらでもない、純粋な可能性というゾーンは、存在しないのだ。突然、記録を突破した者は、『可能性』という語に孕まれている二つの意味の間の越境を担ったのだと言ってよかろう。すなわち、彼(または彼女)は、空虚な可能性-可能性=不可能性-を、充実した可能性-可能性=現実性-へとカタストロフィックに反転させる触媒としての機能を果たしているのである。壁を突破した者を一人でも想定できるとき、可能性が、現実性としての様相を帯びる。だから、彼に引き続くアスリートたちは、触媒としての最初のアスリートを反復しているのだと言うことができる。最初のアスリートがなした、可能性を現実性へとつなぐ苦闘を、後続のアスリートたちも反復するのである。」(大澤真幸「逆説の民主主義」角川書店、p144)
世の中には「どうせ…」「しゃあない」という言葉であふれている。僕自身も、ダイエットだの、髪の毛が薄くなってしまうことだの、に「しゃあない」と何となくやり過ごしてしまいそうになる。そういう時の思考回路は、どうせ元には戻らないという不可逆的な何か、あるいは大澤氏の言葉で言えば「空虚な可能性」(=不可能性)で一杯になっている。
しかし、彼は記録を塗り替えたアスリートを例に出しながら、ブレイクスルーとは、「『可能性』という語に孕まれている二つの意味の間の越境を担った」と整理。なるほどね。出来た人もいるんだ、という「可能性が、現実性としての様相を帯びる」状態を前にすると、「どうせ…」「しゃあない」と言っていた自分は、言い訳を探しているだけ、ということになる。そこで、私たちに迫られるのは、「最初のアスリートがなした、可能性を現実性へとつなぐ苦闘を、後続のアスリートたちも反復する」のか、「あれは特殊な能力を持った人だから、自分には無理だよ」と決め込むか、のどちらかだ。
実は、これって福祉の世界でも全く同じ構造が当てはまる。それを具体的に書くために、著者の論考をもう少しだけ追ってみよう。
「さて、同じことは、知的探求に関しても言えるのではないか。一人の触媒を通して、突然、大記録への突破が可能になるように、真理の深みへと突破した他者-それがマルクスであり、フロイトである-の存在を、いっこの事実として想定しうるとき、われわれは、初めて、実際にも、真理へと到達出来るのではないか。われわれが、真理の深みに到達するためには、その深みへとすでに足を踏み入れているはずの他者の存在を想定し、その他者の、困難な抜き差しならぬ闘いを反復し、あらためて現実化しなくてはならないのだ。」(同上、p145)
「真理」とは、実際に到達していない段階では「不可能性」に他ならない。「そんなの無理に決まっている」と言えば、日本の福祉現場でも何度も耳にしたことのある話である。だが、その「不可能性」を超えて、「真理の深みへと突破した他者」がいると、その「真理」は「いっこの事実として想定しうる」。では、その状態になった際、「その他者の、困難な抜き差しならぬ闘いを反復し、あらためて現実化」する試みにこぎ出すかどうか、ここが大きな分かれ目である。この際によく聞くのが、「あれは北欧(福祉先進地、都会、Aさんの所、○○…)だから出来たのであって、うちでは・・・」「○○と違ってうちは人手不足だから…」という「空虚な可能性」(=不可能性)の宣言、である。
他人のブレークスルーを前にしても、「空虚な可能性」(=不可能性)の言い訳をしている方が、遙かに「楽」である。というのも、不可能を可能にするためには、後続する自分自身で、「困難な抜き差しならぬ闘いを反復し、あらためて現実化」しなければならないからだ。その際注意しなければならないのは、その現場を克服する主語は先達でもフロイトでもマルクスでもなく、他ならぬ自分自身なのである。自分自身が主体となって、先達の「闘い」を「反復」しながら「困難な抜き差しならぬ闘い」に自らが挑み、そのなかで「あらためて」自ら自身で「現実化」を勝ち取らなければならないのだ。ブレークスルーの後なので、可能性の光は見えている。だが、その光源に届くための現実的苦闘は、あくまでも自分自身が担わなければならない。決してマニュアルはない。その現場にあわせて「あらためて現実化」を一から模索しなければならない。これが大変だから、少なからぬ人が、件の「あれは○○だから…」という言い訳(=不可能性の宣言)にしがみついてしまうのだ。
これは脱施設化や退院促進といった実践レベルに限った話ではない。1950~60年代に、ベンクト・ニイリエやバンクミケルセンが全制的施設の批判を行った時も、彼らはまさに施設のアブノーマルな現実を前にして、何か変えないとだめだ、と模索し、その中から「ノーマライゼーション」思想という「真理の深みへと突破」したのであった。そして、「その深みへとすでに足を踏み入れているはずの他者の存在を想定し」えたからこそ、60年代以後の北欧・北米での急速な脱施設化が進んでいった、という事も出来る。こういうブレークスルーを目の当たりにしたからこそ、では我が国(地域、施設…)でも可能だ、と飛び火していったのだ。
ちょうど連休明けの授業では、ニイリエやバンクミケルセンを扱う。その際に、「その深みへとすでに足を踏み入れているはずの他者の存在を想定し、その他者の、困難な抜き差しならぬ闘いを反復し、あらためて現実化しなくてはならない」と改めて感じている。そうしないと、「われわれが、真理の深みに到達する」ことが出来ないのだ。逆に言えばば、自らが主体的に「反復」と「現実化」にコミットして初めて、その「真理の深み」を心から理解する、といえるのかもしれない。これは、もちろん講義や理論レベルだけではなく、実践でもその通り。タケバタの前にもいくつかの「困難な抜き差しならぬ闘い」があるが、しかし全く初めての闘い、ではなく、どこかの参照できる「真理の深み」がある。それらを「反復し」ながら、自分なりに「あらためて現実化」をどうすすめていくか。
普遍性の高い議論からは、数多くの「学恩」を授かってしまった。宝の持ち腐れになるかどうか、可能性という「二つの反対語」をどっちに転がすか? 己の力量次第である。