ようやく夏休みモードに入る、と共に、既に夏バテ。夜、クーラーをつけると、てきめんお腹に負担が来る。小さい時から冷たいモノを飲んではお腹を壊していたが、その名残のようだ。
夏のお昼、と言えば素麺に限るのだが、でもそれも冷やっこい。付け合わせに何か腸を温かくするものを食べないと、と思って冷蔵庫を覗いてみたら、つるむらさき君がいる。そう言えば、台湾やバンコクで菜っ葉の炒め物なんて食べたよなぁ、と思いながら探索すると、山梨産の美味しいニンニクや干しエビを発見。オリーブ油でとんがらしとニンニクを炒めた後に、つるむらさき君とインゲン豆君も放り込んで、白ワインで少し蒸す。仕上げに干しエビを放り込んだが、後で考えたら最初に入れた方がよかったかも。まあ、何はともあれ、ピリリと辛みの効いた炒め物が、素麺をゆでている間に出来上がる。当然、うまい。腸が温かくなる食べ物だ。
で、一杯汗をかいた後、水浴びをして、そろそろ採点を…と思いながら、同僚の先生にお借りした「トゥーランドット」をDVDで流してみる。そういえば件のY先生は「イッヒッヒ、夏休みの仕事の邪魔を…」などと仰っておられ、何のことかよくわかっていなかったのだが、DVDが流れ始めるとよくわかった。確かに、ひとたび見始めたら、面白くて、仕事を忘れて見入っていたのだ。
このDVDをつけるまで、オペラなんぞ高尚なもので自分にはさっぱりご縁のないもの、と思い込んでいたが、さにあらず。中国北京を舞台にしたこのドラマ、途中で「ピン・ポン・パン」なんて3役が出てきたり、喜劇的側面も充分に取り入れた、西欧人からすると「異国情緒たっぷり」なストーリー。20世紀初頭の、まだテレビも衛星放送もなかった時代に、劇場にいながら異世界を垣間見るための仕掛けとお芝居、それらをまとめていく音楽的熱狂、という構成は、高尚でも何でもなく、ほんとにオモシロイ。講談師が「それからそれから…」なんてストーリーテリングする代わりに、なぜだかみんなが歌いながら話をつないでいく冒険活劇、そんな風にストンと落ちたあたりから、テレビに釘付けだった。久しぶりに二時間、テレビにかぶりつく。後二本も、こりゃ楽しみだ!
てなことを書くと、たまにこのブログを覗かれる友人の“チエちゃん“ならきっと、また師匠かぶれして、と揶揄するかもしれない。そう、私の師匠は、ジャーナリストよりイタリア料理のシェフかオペラ歌手の方に真剣になりたかった、という多趣味な方。私が料理に興味を持ったのも、クラシックの面白さに気づいたのも、多分に師匠を間近で見ていたからだ。そんな「まねし」を揶揄されるのもなぁ、と思っていたら、思わぬ援軍の文章に出会う。
「物書きは恋の達人だ。他の作家にすぐ恋してしまう。実はそれが書くことを学ぶ方法なのだ。物書きはある作家を気に入ると、その人の振る舞い方やものの見方が理解出来るようになるまで、全作品を何度も繰り返し読む。恋人になるとはそういうことだ。自分の中から抜け出し、誰かの皮膚の内側に入っていく。人の作品を愛する能力とは、そんな可能性を自分の中に目覚めさせることなのだ。それはあなた自身を大きく広げることはあっても、物真似屋にすることはけっしてない。人の作品の中で自然だと感じられるものは、やがてあなたの一部になり、書く時にその動作のいくつかが使えるようになる。」(ナタリー・ゴールドバーグ『魂の文章術』春秋社、p117)
僕は、師匠の「内弟子」のように、弟子入りをした。間近で弟子としていさせて頂いたのは、5年近くになるだろうか。師匠の近くで、その師匠の「振る舞い方やものの見方が理解出来るようにな」りたい、と切実に願った。自分「自身を大きく広げ」たいのだが、どうしていいのかわからなかった20代の僕にとって、師匠は憧れの存在だった。そんなに簡単に近づけない、遠い目標だった。だからこそ、まずは「振る舞い方」や口調を真似することから始めた。いや、意識して真似た、というより、その方の「振る舞い方」から、料理や音楽など、自分が経験したことのない世界の豊かさを気づかせて頂いた、というのが正しいのかもしれない。そうすると、師匠から勉強だけでない、人生の多くのことを学ばせて頂いてきたし、今も学ばせて頂いている途中である。
この、師を真似て学ぶ、という姿勢は、実は大学院時代が初めてではない。昔から、憧れを持つ対象に対しては、その対象と一体化することによって、何かを学び取ろう、というクセが気づいたら自分にはあった。中学時代に通った塾の塾長、予備校時代からお世話になった英語の先生、そして師匠、とその時代に憧れを持つ人は変わるが、その師匠を真似ることから学ぼうとする、その型は一貫していたと思う。だから、大学時代、昔通った塾で講師をしていた時には「塾長そっくり」と言われ、予備校で教えていた時には、「予備校の先生そっくり」、大学院では「師匠そっくり」と言われた。別に多重人格になったのではなく、自ずとその所作が頭の中に入っていたのだろう。師の「振る舞い方」から入ることによって、いつしかその方の「ものの見方」(の一部)を獲得出来るようになりたい、そんな欲求からスタートしたのだと思う。だから、型から入る武道や歌舞伎など、やってはいないけれど、何となく共感を覚えたりもする。
そして、今、書き手の端くれになり始めたが、折に触れ師匠の「全作品を何度も繰り返し読む」。代表作など、何度読み返したかわからないが、発見がある。ワンフレーズをふと読んでも、そういう切り口なんだ、と学び直せる。「自分の中から抜け出し、誰かの皮膚の内側に入っていく」ことで、自身の狭い世界観を乗り越えるチャンスを頂けるのだ。そういう経験を10代から20代にかけて、何人かの師の下で学ばせて頂いたこと、これほど文字通り「有り難い」経験だ。
その経験を糧として、「物真似屋」ではなく、何か書き始めてみたい。ナタリーさんの本を読んでいると、そんな内奥の「魂」の部分が揺さぶられるような気がする。