「支配」と「抵抗」の自覚化

あけましておめでとうございます。

ずっと自宅で原稿を書く年末年始。その合間に読んでいた、読み応えのある一冊の本のご紹介から。
「沖縄の<抵抗(レジスタンス)>とは、日本(本土)という枠組みに囲い込まれることで米国の覇権主義という『秩序』に回収されてしまう構造的差別と政治的抑圧との闘いである。それはまた、構造化された『依存』との闘いでもある。」(奥田博子『沖縄の記憶-<支配>と<抵抗>の歴史』慶應義塾大学出版会、p363)
この本を読み通す中で、結論に書かれた一節を読んで、「これは障害者運動の歴史と通底する部分がある」と感じた。沖縄を障害者、米国の覇権主義を資本主義に置き換えてみると、共通要素があまりに多い。その事を説明する為に、「障害の社会モデル」を主張するイギリス人のオリバーの著作に寄り道する。
「資本主義社会において障害を定義するヘゲモニーは、個人主義の有機的イデオロギー、医学的介入を支える医療化の恣意的イデオロギー、社会政策を支える個人的悲劇理論から構成されている。ここには、正常さと心身ともに健康なことについての概念に関連するイデオロギーが組み入れられている。」(マイケル・オリバー『障害の政治-イギリス障害学の原点』明石書店、p88)
障害の社会モデルは、依存し無力な存在と見なされがちな障害者は、生得的に無力であるわけではない、と喝破する。個人主義=能力主義を称揚し、その「能力」がないとされる人には医学による管理・支配を正当化すると共に、「社会的弱者」とカテゴリーかされる人を社会構造の抑圧の問題とせず「個人の悲劇」と矮小化する。これらのパッケージを覇権=ヘゲモニーとして支配的枠組みにしてしまう。しかも、一旦それが支配的枠組みになると、それ以外の可能性が忘却されるドミナント・ストーリー。
この資本主義ヘゲモニーのドミナント・ストーリーの強化の事を、さらに寄り道になるが、マルクス-廣松渉は「物象化」と整理した。ちなみに物象化とは、本来動的なものであるはずの人と人との関係が、いつのまにか物と物のような固定的関係であり、それ以外の可能性はないと思い込むことである、と整理している。その上で物象化された諸個人について、次のように整理している。
「諸個人という”能動的な営為主体”は、その真実態においては『対自的かつ間人間的諸関係の結節的な一総体』として定住・相在するのであって、現実的には、既に物象化された一定の関係によって所謂”個性”や”性向”、”行動条件”や”行動様式”ばかりか、行動の”動機”や”目標すら規制されている。」(廣松渉『物象化論の構図』岩波現代文庫、p140-141)
難しい表現だが、かみ砕くと、自分自身は「自発的」「能動的」「自主的」に考えている、と思っていても、物象化、つまり支配的な枠組みの中で生きている個人の「個性」や「行動条件」、「動機」や「目的」は、その支配的枠組みが許す範囲内に規制されている、というのである。
この物象化がなぜ障害者や沖縄の問題につながるのか。
先に見たように、障害者は生得的に「無力な」「依存的な」「かわいそうな」人である訳ではない。その障害者が生きる資本主義社会が称揚する能力主義=個人主義=新自由主義的枠組みと適合的でないが故に、あるいは専門職支配の枠組みに適合的であるが故に、自らの意図せざるうちに、気付けばそのような「支配-被支配」の枠組みにおかれているのである。この支配的枠組み=ヘゲモニーについて、日常生活を送る障害者は、それが「当たり前の前提」である、と受け止める。つまり、その枠組みの正当性に疑いを持たない、それ以外の可能性を考えられない、という意味で、動的な関係性を導き出すことが出来ず、関係は固定化=物象化されているのである。
例えば、入所施設や精神病院に長期社会的入院をしている人に、「ここはどうですか?」「将来どうしたいですか?」と伺っても、「もう、ここでいいです」という答えが返ってくることがしばしばある。これを「自己選択に基づく自己決定」とすることは問題であることは、以前のブログにも拙著にも書いた。物象化論やヘゲモニーの論点を用いるなら、精神病院や入所施設でしか生きていけない、という「支配-被支配」の固定化された枠組み(=物象化)の中で暮らす人は、その生活の「目標」も、あるヘゲモニー枠内に規制している。その「支配-被支配」を内面化しているのである。それは、沖縄について語る奥田さんの言葉を借りるなら、「構造化された『依存』」なのである。この資本主義や米国覇権主義という物象化された「構造」=「秩序」と「闘う」こと、これが<抵抗(レジスタンス)>なのである。これは、青い芝の会や自立生活運動、ピープルファーストや精神病患者会運動など、我が国の障害者運動が「健常者社会」と闘い続けてきた、その<抵抗>と実に通底している。
そういう眼差しで、奥田さんの本を読み返すと、共通する要素が沢山出てくる。
「沖縄は『(日本)本土の縮図』ではなく、『NIMBY(Not In My Back Yard: 施設の必要性は認識するが自らの居住地には建設してほしくないと反対する姿勢)問題』の先行例である」(奥田、同上、p335)
精神病院や入所施設が人里離れた山奥に作られ続けたこと、そして90年代から住み慣れた地元で暮らしたいと願う障害者達のグループホーム建設に反対運動がおこること、なども、沖縄と同様のNIMBY問題である。障害者は自分たちの近所に住んで欲しくない、地価が下がる、という偏見と、米軍基地は迷惑だから沖縄に固定化してほしい、という論理の共通性がある。また、マジョリティの冷たい視線、も共有化出来そうな部分である。
「本土の主要メディアは、沖縄の<抵抗>を『県民感情』と言い換え、一過性のものにすぎないとする価値付け報道に終始していた」(p180)
自立支援法に対する反対運動、総合福祉部会の骨格提言を反故にした厚労省への抗議、などについてのマスコミ報道も、<抵抗>として、というより「障害者感情」という「一過性」のものとして、矮小化して報じていたように思える。だからこそ、年末のブログにも書いたが、「批判するだけでいいのか。障害者福祉の行方を大局観に立って考えてはどうだろう。」といったパターナリスティックな主張が可能になるのだ。
ただ、事の責任をマスコミだけに押しつける他責的な展開には出来ない。マスコミだけでなく、本土の人間も沖縄の人間も、そして健常者も障害者も、その大半が、物象化されたヘゲモニーを「疑う必要のない、当たり前の前提」として受け止めている。それが、絶対的真実、ではなく、他にもありうるストーリーの一つだけれども現時点ではドミナント・ストーリー、であることを意識することが出来るかどうか。この部分は拙著『枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会』の中でも中心的に論じてきたところだ。自分が当たり前だと思い込んでいる常識の眼鏡、その眼鏡自体がいかに構築されてきたか、そのなかでいかなる「規制」を受けてきたのか。そして、それ以外の可能性を考える事を制限してきたか。そのことに自覚的でないと、沖縄や障害者の問題は、マイノリティの「感情」問題に矮小化されてしまう。だが、実際には、私たち自身も「感情」問題に矮小化する枠組み=ヘゲモニー=物象化の<暴力>の圧制に<支配>されているのである。知らず知らずのうちに。
「<支配する視線>を介した関係性には、単に見る/見られるという関係にとどまらず、身体化される/するという体験にも注意を払う必要がある。本質的に規定されている身体のあり方は、どういう生得的な性質を備えているかという問題ではなく、その身体で何をして、何をされるのかという行為や実践を媒介として実体化される。つまり、体験にはそれにともなう行為や実践-<身体化される実践>がともなう。」(p355-356)
私たちは「支配-被支配」という物象化された関係性を「当たり前」だと思い込むことによって、沖縄や障害者が<抵抗>として示す<身体化される実践>を「感情問題に過ぎない」「依存的体質である」と切り捨てる。すると、その<身体化された実践>の意味を掴みかねる。単に相手の内在的論理を知る、だけでなく、相手と私、支配と被支配の関係性が、どのような前提=ドミナント・ストーリーの中で<身体化される実践>を行っているか、についての「枠組み」の自覚がないと、その本質に迫ることが出来ない。そして、その枠組みを書き換えることから、「支配」と「抵抗」以外の、新たな別の物語を構築する事が可能なのである。
「不正や不平等に気づいたとき、それを拒否し、声を上げ、真実を明らかにし、そして歴史に遺してゆくことが不可欠である。そのためには自らの考えを持ち、自らの行動に責任を持つ自立した個を確立してゆくことが不可欠である。個の確立が史実を見抜く知性と感性、そして良質のことばを持つことへとつながることを期待したい。」(p364)
奥田さんのこの本は、膨大な資料を丁寧にクールに参照しながら史実を捉え直す視点、なのだが、後半少しずつヒートアップし、最後の結論部分では、熱いハートを覗かせている。「沖縄の声」に基づく分析をしていれば、至極当然のことだと思う。ゆえに、上記の引用には、ストレートに同意するし、いま、日本の障害者支援の現場でも再び求められていることだと改めて感じる。「自らの考えを持つ」こと、に対して、この国の空気や同調圧力は非常に否定的だ。物象化の<暴力>とは、魂の植民地化のことでもある。マスコミや中央官僚の中にも、障害福祉の現場や沖縄にも、もちろん「自らの考えを持ち、自らの行動に責任を持つ自立した個」は沢山いる。だが、一方で、どの世界にも、「不正」や「不平等」に対して、「まあ、いいか」「どうせ、しかなない」「何をいまさら」「世の中そんなもんだろう」と、見て見ぬ振りをして、自らの魂をも毀損している人々も沢山いる。原発問題や福島の現状についても、同様な姿勢が数多くある。
僕たちに必要なのは、自らの眼鏡の歪みに気がつくこと、その上で歪みを「歪みだ!」と言葉に出来ること、そしてきちんと自分の頭で考え、その上で「良質のことば」を生み出し、「自らの行動に責任を持つ」、こと。それが、拙著でも描いた「個性化」の世界につながっていると感じた。つまり、「支配」と「抵抗」を乗り越える為には、まずはその構造を自覚することからしか始まらないのである。
苦しくても、面倒くさくても、恥じらいや情けなさを感じても、劣等感を感じても、ここを逃げてはいけない。そう感じた年始であった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。