根源を問い直すソーシャルワークへ

僕はソーシャルワーカーでもないし、ソーシャルワークの正式な教育を受けてはいない。だが、大学院時代に精神科ソーシャルワーカー117人にインタビュー調査をした博論研究に端を発し、ソーシャルワーカーとは何か、ソーシャルワークが社会に果たす役割とは何か、を気づけばずっと考え続けてきた。今も、地域包括ケアシステムの推進という文脈で、コミュニティ・ソーシャルワークの可能性や、そこでソーシャルワーカーがどう変容すべきか、ということを、現場のワーカーと一緒に考えている。

とはいえ、率直なところ、博論を書いた後、最近あまりソーシャルワークの専門書を読んでいなかった。理由は簡単。ワクワク出来る本がそんなに多くないからだ。技法論の栄枯盛衰は色々あって、生態学的アプローチからリカバリーまで、色々読んでいるけれど、ソーシャルワーク魂が感じられる本に、最近なかなか出会えなかった。だが、久しぶりにワクワクする専門書と出会った。
「過去20年にわたるソーシャルワークへの新自由主義的な攻撃の主要な方向の一つは、ソーシャルワークの教育と実践から『ソーシャルワークの価値をめぐる話題』を削除もしくは格下げしようと企てることであり、またソーシャルワーカーを倫理中立的な職務を遂行する社会的技術者もしくは社会的エンジニアとして再構築しようと企てることであった。しかし、このような企ての意図に反して、ある社会集団を悪魔とすることを含む新自由主義的アプローチは、結局のところ、ソーシャルワークの価値の核となる部分を切り崩すものとして人々に経験され、この経験が、幅広い層のソーシャルワーカーに不満を抱かせ、社会正義と社会連帯に基づいたソーシャルワークの形態に回帰することを求める声が広がっている。」(イアン・ファーガソン『ソーシャルワークの復権』クリエイツかもがわ、p228-229)
何がワクワクするって、最近のソーシャルワークに感じていた不全感そのものをテーマに挙げていたからだ。イギリス人の著者は、精神保健サービス領域のソーシャルワーカーの現場経験を持つ研究者である。イギリスのサッチャリズムやニューレイバー、その背後にある新自由主義的アプローチが、ソーシャルワークのどの部分を変節させたか、を巧みに分析し、何がソーシャルワーク魂を矮小化させているか、をあぶり出す名著である。
この著者は、ケアマネジメントがマネジド・ケアの流れを組む費用抑制的色彩があること、それゆえ個人にのみ着目し、社会的な構造の問題に着目しなかったことを、「倫理中立的な職務を遂行する社会的技術者もしくは社会的エンジニアとして再構築」する営みだ、と厳しく批判している。また、新自由主義的なアプローチは、社会的弱者を「依存する人」という文脈で、「ある社会集団を悪魔とすること」のラベリングを行っている、とも指摘している。その上で、「倫理的中立」を超え、「ソーシャルワークの価値の核となる部分を切り崩」す営みに反旗を翻すことこそ、「ソーシャルワークの復権」にとって必要不可欠だ、と整理している。そして、その際の「価値の核」となるものとして、1970年代に世界各地で広がったラディカルソーシャルワークの「遺産」を次のように整理している。
「①中核的な思想として、「抑圧された立場にある人々を、彼ら・彼女らの生活の社会的・経済的構造の背景から理解する」という特有の信念がある。その信念は、1980年代から1990年代に及ぶ反抑圧実践の発達を活気づけた。
②ワーカーとクライエントの間のより対等な関係への要求である。それは共通する利害の認識とクラエイエントの経験の尊重とに基づいたものであり、10年後の利用者参加の発展を先取りしていた。
③主流のソーシャルワークにおいて留意されることが次第に少なくなっていった集団的アプローチの重視である。それは、1980年代のサービス利用者運動の発展、特に障害者運動や精神保健サービス利用者運動の発展に反映されていた(それらには専門的ソーシャルワークの関与はほとんどなかった)。」(同上、p181)
この3点も、僕自身にとっては実にすんなりと頷ける部分である。
①に関しては、パウロ・フレイレが『被抑圧者の教育学』で取り上げた事であり、僕の単著一冊目の『枠組み外しの旅』でも「反ー対話」と「対話」の対比で取り上げた視点である。また、イタリアの精神医療改革の先駆者、フランコ・バザーリアが重視したのも、精神病に人々を追い込む社会構造について、であった。このことも以前ブログに「個人的苦悩」に対する「社会的苦悩」に絡めて書いたことがある。
②についは、二冊目の拙著『権利擁護が支援を変える』の中で、「支配」と「支援」の違いについて論じた部分でも取り上げた内容もあった。専門家主導がいつの間にか専門家「支配」に簡単に転化しやすいこと、それを防ぐには、ワーカーとクライエントが相互主体的に関わり合う中で、お互いの認識も共有され、クライエントの経験も尊重される、ということである。この点も、以前ブログで「問題行動」と「相互主体」を絡めて考えたことがある。
③については、システムアドボカシーというのは集団的アプローチそのものである。これについては、僕自身がNPO大阪精神医療人権センターに大学院生の時から関わった中で教わったことだし、障がい者制度改革推進会議の総合福祉部会にコミットした時は、ある種、システムアドボカシーのお手伝いの側面もあった、と理解している。
つまり、僕自身、このラディカルソーシャルワークの「遺産」を、実は勝手に引き継いでいる(つもりになっている!?)人間の一人だったのだ、ということを、この本を読んで初めて気づいた。だからこそ、ワクワクするのは当たり前である。
一方で、ソーシャルワークの新自由主義的な「変節」の中では、「選択」や「利用者エンパワーメント」という、一見聞こえの良いフレーズが繰り返されてきたが、それは方法論的個人主義と合理性、市場の優位性という新自由主義の文脈の枠内でのみ、活用されたフレーズであったことを筆者は喝破している。
「『自己利益を追求するために個人
は常に合理的に行動する』という考え方は、社会的ケア市場の消費者としてのクライエントやサービス利用者の在り方を再構成する根拠とされてきた。」(p49)
ダイレクトペイメントという現金給付やパーソナルアシスタンスも、社会運動的な側面で出てきたものである一方、『自己利益を追求するために個人は常に合理的に行動する』という新自由主義の枠組みに適合的であるがゆえに、政策として採用された部分もある。この政策適合性の背後にある社会構造的な枠組み(=新自由主義)の価値前提そのものへの問いが、根源を問い直す、ラディカル・ソーシャルワークにつながる。それは、貧困や障害、病気を「個人の不幸」と矮小化させず、社会構造の問題と捉える「障害の社会モデル」とも通底する視点である。
こう考えてみると、「ソーシャルワーカーを倫理中立的な職務を遂行する社会的技術者もしくは社会的エンジニアとして再構築しよう」とする「企て」とは、ソーシャルワーカーに対して、政策価値に関しても「中立」、いや「忠実」な「社会的技術者」でいなさい、という服従の論理にも見えてくる。厚労省関係者が喧伝する地域ケア会議の実態が、自立支援にケアプランがなっているかどうかをチェックする「お白砂会議」になっているのは、予算削減(=マネジド・ケア)という政策遂行者の価値に「忠実」である事をケアマネに求めている事態そのものである。そのような「価値前提」そのものを「根源を問い直す」営みをソーシャルワーカーがすることは、ある種、現状肯定の論理に関しての価値破壊的側面があるのかもしれない。だが、本来の「本人中心=当事者主体」の論理を貫くならば、そのような現状の政策の根源を問い直すことこそ、必要不可欠とされている。そして、それをソーシャルワーカー自身が問いかけることこそ、求められている。
厚労省が言う、地域包括ケアシステムにしても、総合支援法の見直しにしても、あくまでも政策遂行者の論理に過ぎない。その論理を鵜呑みにする時、それはアドボカシーの価値や理念を忘れた、「社会的技術者」である。ほんまもんのソーシャルワーカーなら、政策遂行者の論理そのものに対しても、当事者主体という自らの「価値前提」を通して、自分の頭で考え直し組み立て直すべきだ。そんな気概を、この本から受け取ったバトンとして記しておく。僕はソーシャルワーカーではないのだけれど・・・。
追記: この本については、山森先生がわかりやすい書評を書かれています。僕とは着目点は違いますが、学びの多い書評です。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。