関係性の捉え直し(増補版)

先週末は、大阪で二つの濃厚な講演会に参加した。

この二つの講演会をつなぐキーワードは、わたしとあなた、を巡る関係性をどう捉え直せるか、という点にある。忘れないうちに、そのあたりを少し考えてみたい。
13日は、イタリア・トリエステの精神医療改革に取り組んだペッペ・デラックアさんが、現象の背景にあるパターンや構造について熱く語っていた。(イタリアの改革については、僕も以前紀要に書いた事がある)。
その中で特徴的だったのが、冒頭に語られた、「強制治療下においては、人間がいない」という指摘だ。精神病院では、「人」はおらず、「モノ」として扱われている、と。だから、非人間的処遇もまかり通る、と。そして、強制医療施設の扉を開く、とは、モノの処遇から、人の処遇へと返ることである、と。これは重要な指摘である。
精神科病院や入所施設の持つ権力構造を分析した社会学者ゴッフマンは、その特徴を次の4点として指摘している。
①生活の全てが同じ空間で一元管理されている。
②一元管理の下で、プライバシーは存在しないか極端に軽視されている。
③毎日の全活動が決められたスケジュール通りにとり行われている。
④強制される全ての活動は、各施設の設置目的を遂行する意図で想定されている一貫した流れに基づき、計画されている。(Goffman, 1961:6、拙訳)
この4つは何を物語っているか。それは、強制的に入れられている・あるいは実質的にそこしかないと思い込んでいる(込まされている)場所で暮らし続ける(=特定の居住施設で生活する義務を実質的に負っている)と、当たり前の市民としての権利を奪われてしまう、ということだ。そして、当たり前の権利が奪われた状態で暮らしていると、支援者と障害当事者の関係性は、いつの間にか「お世話してあげる人」と「支援してもらう人」という非対称性が強まり、ひいては支配-服従の関係につながる、ということだ。で、支配者は服従者を人として扱わず、モノとして扱う。その際、服従する事を良しとせず、支配者に必死に反抗しようと声を荒げたり、拒否的反応をすると、「問題行動」「強度行動障害」「暴力行為」とラベルが貼られ、縛る・閉じ込める・薬漬けにする、という「対抗手段」がとられる。これが、強制治療に関する最大の悪循環である。しかも、その際、縛る・閉じ込める・薬漬けにする行為を行う支配者側のスタンスは、問われる事はない。「治療行為」「支援」という正当化言語の枠内に収まってしまう。
ペッペさんが問いかけたのは、この治療者の正当化言語そのものに対する問いかけだ。治療や支援の文脈の中で合理化・正当化される隔離や拘束、薬物治療。これらの「もっともらしい言語」を使ってみても、やっていることの実態は、市民の権利を著しく制約・剥奪すること。で、そのような制約・剥奪をせずに、本当の支援をするにはどうすればいいか、を徹底的に考え抜くのがトリエステ流のやり方だ、と受け取った。興奮したり攻撃的になるには、訳がある。「精神病(強度行動障害、認知症、BPSD、発達障害)だから」とラベルを貼って「わかったふり」をすることなく、ある行為をする背景に、どのような生きる苦悩の最大化が潜んでいるのか、を徹底的に当事者と支援者が共に考えることで、自分を傷つけたり他人に危害を与える前に、その前兆の段階で芽を摘む支援へと導く。もちろん、言うは易しだが、実践はすごく大変であることは想像できる。でも、専門知識を持つあなたと、生きる苦悩が最大化して困っている私。この二者が出会うとき、あなたが私の生きる苦悩に寄り添うことなく、私の一種のSOSのサインとしての行動や状態のみに目を向け、それにラベルを貼り、そこにしか対応してくれないならば、私の苦悩はさらに深まり、状態は悪化する。私が悪くなる初期段階で、あなたは支配者ではなく、支援者として、その苦悩を減らす・苦悩が悪化し行動化するのを食い止める支援をしてくれたら、もっと救われるのに。
こんな風に彼の発言やイタリアの実践を受け止めてた。だが、これは現在の主流となる精神医療のパラダイムとは、全く異なる。
現在の精神医学の主流は、アメリカ精神医学会が作っているDSM (Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)に大きく依拠している。訳せば「精神障害の診断と統計の手引き」となる。このDSMは、アメリカ中の、そして他国の医師が診察しても同じ診断が下せるように作ったガイドラインである。ということは、裏を返せば、このガイドラインが出るまでは、文化間・医師間での診察はバラバラだった、ということだ。だから、一定程度の標準化・規格化が求められた。つまり、DSMとはあくまでも診断や統計の手引きであり、一つの方法論である。
だが、この方法論が現在、ずいぶん自己目的化しているように思える。たとえば他科と同じように、診断名やカテゴリー分類さえ出来たら、その標準化された治療方法に沿った投薬をすることで、問題は解決する、というクリティカル・パスが導入されている。でも、双極性障害でもアルツハイマー病でも、その症状の現れ方は千差万別。投薬は統計学的に標準化可能化もしれないが、関わり方は、標準化不能である。精神障害を抱えて暮らす、という部分では、治療と支援の双方が必要不可欠だ。その際、治療はある程度標準化可能でも、支援は個別のニーズに合わせながら、支援者のあなたと当事者の私が出会う中で、その関係性の上で成り立つ標準化不能な生命現象である。この部分を、標準化可能であるかのように思い込むから、「一元管理」のような発想が出てくる。そして、そのような集団管理や一括処遇は、一人一人と向き合った支援ではない(=市民としての権利を疎外する)ものだから、当然、本人は納得しない。故に、反発する。その正当な反発に「問題行動」「攻撃性」などのラベルが貼られる。すると、支援や治療のまずさが、いつの間にか本人の問題にすり替えられ、更なる悪循環に陥る・・・。
だからこそ、まずは対象者を「病者」というモノ扱いをせず、どのような人間的な苦悩なのか、に向き合う為にも、強制医療の扉を開く必要がある、という。つまり、卵が先か鶏が先か、の論で言えば、強制医療を最小化することこそが先だ、という議論になるのだ。
「常識」を問い直すことにより、あなたとわたしの関係性が変わる。これは『枠組み外しの旅』でも考えたことだが、実は加害者と被害者の関係性でも同じである、と気づき始めた。
15日の講演会では、西鉄高速バスジャック事件被害者の山口さんと、池田小学校襲撃事件の被害者の主治医であり、時には加害行為をする精神障害者の主治医でもある大久保さんの二人が講演した。このお二人の話は、実に濃厚で、かつイタリア精神医療改革の話と、根本的には通じる部分があった。
山口さんは、バスジャックの犯人の少年に何度も切りつけられ、殺される寸前にまで至った。でも、死刑廃止を求めている。その理由はなぜか。それは、実際にバスの中で少年と出会った際、「モンスター」「悪魔」とは思えなかったから、という。他人事には思えなかった。不登校している娘さんの事も重なり、「少年はこんな事をしなければならないほど、追い詰められている」と共感出来た。すると、相手の背景を納得してしまうと怒れなくなった、という。実際、山口さんは事件の示談の際、「もし少年が会ってくれるなら、私は会いたい」と伝え、その後少年との面会も果たした。そして、事件の後、不登校の子ども達の居場所作りの活動を続けている。「あなたは、あなたでいい」という「ありのまま」の関係性を作る活動が、バスジャック事件の少年のような追い詰められた子どもを作り出さない為にも必要不可欠だ、との確信を持っておられるようだ。
また、池田の開業医の大久保さんは、これまで講演では語ってこなかった池田小学校事件の後のケアの実情や、そこから考えた事を講演で話してくださった。また、虐待やトラウマを抱えた人のケアもするなかで、「不条理」という考え方をどう捉えるか、という根本的な問いを提起する。「不条理」とは、本来理解できない、わけのわからない事態のこと。そこに巻き込まれた時、それを何とか理解するための言葉として、「責任」概念が出てくる、という。だが、この責任概念に基づき、その判断を司法に委ねることで、被害者と加害者は分断され、あとは加害者と司法の二者関係になり、被害者はその二者関係から疎外され、蚊帳の外に置かれる。被告人の人権が軽視されている、という問題構造はここにあり、司法による疎外状態から回復する必要が求められている。それは、被害者の人権の重視・軽視の問題とは全く別次元の話であり、そこを混同してはならない。被害者もその怒りをどこにぶつけてよいかわからないから、加害者への「責任」論になっている部分もある。
このお二人のお話を伺う中で、「被害者と加害者」という位置づけは、支配と服従、のような二項対立的な部分とも、ある種、通じる部分がある、と感じ始めている。犯罪や加害行為はあってはならない。がゆえに、その許されない事が起こってしまった場合、不条理や大きな不幸に突然見舞われた被害者は、絶望的な気持ちになる。その際、山口さんや大久保さんの話を伺いながら感じたのは、不条理の後にどう生き延びるか?という「問い」だと感じた。絶望的な不条理に見舞われながら、その後の人生をどう主体的に生き延びるか? その際、加害者を恨み、責任者出てこいと追求する「被害者」の位置づけに固定されてしまうと、それ以外の人生が全て奪われてしまう。突然の、あってはならない、とんでもない不条理や大きな不幸。だが、それに見舞われた人が、それをどう自分の人生の中に落とし込み、再び生き続けるのか? 山口さんは、それを自分の中で何度も問い続け、講演活動などを通じて、単なる「被害者」役割を超えた、山口さんという人生の主人公として生き延びておられるように、お見受けした。
大久保先生は、加害と被害とは「突然、大声で呼びかけられてしまった関係」とも語っていた。出会いたくなくても、不条理にも出会ってしまった関係。それを、憎しみや恨み、怒りという関係だけで「被害者」の位置づけに固定化されると、被害者は、それ以後の人生を、自分のものとして生きにくくなる。同じように、加害者も、罪を償ったあと、人間として更正していく旅に出る必要がある。つまり、被害と加害の関係を、善と悪の二項対立の物語で「わかったふり」をすることは出来ない。被害者も、加害者も、その被害者・加害者役割に同定されることなく、どうそれ以外の人生を生き直すことができるか、で、二人の物語は大きく変わる。
この部分を、先の医療者のあなたと、支援を受ける私の二人の物語の書き換え、と重ねてみると、どんなことが言えるだろう。その為に、ジャーナリスト佐々木俊尚さんの補助線を使いたい。
「本来われわれは絶対者ではない。絶対的な悪でもなく、絶対的な善でもない。その悪と善の間の曖昧でグレーな領域に生息している。しかしそのグレーな領域で互いの立ち位置を手探りでたしかめている状態、その状態こそが当事者である。われわれはそういうグレーな領域のなかに生息することで、つねに当事者としての立ち位置を確認する。グレーな領域こそが、インサイダーの本質なのだ。そしてこのグレーを引き受けることこそが、社会をわれわれ自身で構築するということにほかならない。」(佐々木俊尚『当事者の時代』光文社新書、p361)
絶対的な悪や絶対的な善はない。グレーな領域で生きている私たち。しかし、医療者側、被害者側に立つと、その役割を引き受ける時点で、「善」の立場が覆い被さる。そして、問題行動を起こす患者や加害者は「絶対的な悪」とカテゴライズされやすい。だが、「絶対的な悪でもなく、絶対的な善でもない」という原則に立ち戻るならば、私たちが陥る二項対立図式から、逃れられるかもしれない。とはいえ、わかりやすい勧善懲悪やパターナリズムを拒否し、「グレーな領域」に居続ける、ということは、ずっとその意味を考え続けなければならない、ということでもある。
「あなたは悪い、私は悪くない」
こう白黒はっきり付けた方が、わかりやすい。でも、それでは、グレーであることを拒否し、いつしか社会を他人事の視点で眺めることになりはしないか。そして、他人事の視点から、自分事になってしまった人に対して、勝手に批評家的に「あいつは悪い、こいつは悪くない」とラベリングして、「わかったつもり」になっていないか。さらに言えば、この「わかったつもり」の善悪の判断こそが、真の理解や本物の再犯防止、あるいは問題の最小化を阻む、最大の壁なのではないか。安易に他者の枠組みやラベリングでわかったふりをせず、「グレーな領域」で考え続けることとは何か。
そんなことを、グルグルと考え続けている・・・。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。