私が今振り返っている、「枠組み外し」の旅。私にとってのこの旅の意味やプロセスには、唯一無二の私の文脈があるが、「枠組み外し」の旅自体には、実は多くの先達がいる。前回ご紹介したゴフマンもそのお一人。そして前回のブログを書きながら、僕の「枠組み外し」の旅の参照元として忘れてはいけないもう一人の方の著作が、頭にしきりに点灯しはじめた。
「『銀行型』教育の概念では教育する者は教育される者を偽の知識で『一杯いっぱいにする』だけだが、問題解決型教育では、教育される側は自らの前に現れる世界を、自らとのかかわりにおいてとらえ、理解する能力を開発させていく。そこでは現実は静的なものではなく、現実は変革の過程にあるもの、ととらえられるのである。」(パウロ・フレイレ著、三砂ちづる訳、『新訳 被抑圧者の教育学』亜紀書房、p107-108)
ブラジルの貧困農村で、収奪されることを「しかたない」としていた農民達。彼ら彼女らに、単に識字教育などを教えるだけでなく、彼ら彼女らの学びを通じて、制度内馴致としての教育と、制度の枠組みを疑う教育の二つがある事に気づかされた教育者フレイレ。その彼が、現場の多くの人々の対話を通じて帰納的に導き出した叡智は、1968年の出版以後、開発教育の分野を超えて、またブラジルのコンテキストを超えて、世界中の多くの領域に影響を与えた。このフレイレの著作で示された「銀行型教育」と「問題解決型教育」の違いは、する/される側の二項対立や権力の非対称性が大きい分野では、どこでも起こりうる問題である。私自身が直接関わる領域に限っても、教育の現場、だけでなく、ボランティアや支援にも共通する課題である。教育・ボランティア・支援する側の枠組み(=偽の知識)を押しつけるだけなのか、相手が自ら考え理解し行動に移すような枠組みを、相手と一緒に作り出すのか。
このフレイレに「枠組み外し」の意味合いを強く感じるのは、彼は教育や支援、ボランティアという現場が陥りやすい「ミクロ行為論」での自閉的完結を超える視点を提起してくれているからだ。
「『銀行型』教育は、直接あるいは間接に、宿命論的な認識を強調して人間をその状況にとどめようとするが、問題解決型教育は反対に、置かれている状況を解決すべき問題としてとらえる。状況は認識行為の現れであり、すでにある魔術的あるいは従順な見方を克服する手がかりとして提示される。実際のところ従順で魔術的な現状のとらえ方とその結果として現れる宿命論的な考え方は、もう一つの見方に取って替わられる。それはすなわち自分の見える行為自体を知覚の対象に捉えるような知覚である。このようにして状況を意識によって掌握することで人間はそれを『自らのもの』とし、つまり状況を歴史的現実に変え、人間の手で変革しうるものにしていく。」(フレイレ、同上、p112)
ある問題の背景に根付く様々な構造的現実。それに対して、一人で努力しても「しかたない」、「どうせ」無理なんだから・・・、という言説。こういった言説は、私が出会ってきた福祉現場でも、何度も何度も繰り返し、聞かされてきた。だが、その「しかたない」「どうせ」というのは、ある種の枠組みへの居着きではないか、つまりは「魔術的あるいは従順な見方」という「宿命論的な認識」の内面化ではないか。「しかたない」「どうせ」と認識してしまう認識行為は、「宿命論的」状況を形作る手助けをしていないか。そうではなくて、「しかたない」「どうせ」とされている「状況を解決すべき問題としてとらえる」ことは出来ないか。この「枠組み外し」をすることによって、問題の背後ひ潜む構造的現実を「宿命論的」に捉える呪縛から解放され、「自分の見える行為自体を知覚の対象に捉えるような知覚」を獲得できるでのではないか。その知覚があってこそ、「状況を歴史的現実に変え、人間の手で変革しうるものにしていく」ことがはじめて可能なのではないか。
フレイレの考えをこうパラフレーズしていくと、次のようにまとめる事が出来る。
暗黙の前提や変えられない現実、というのは、宿命論的呪縛に陥った者がそう思い込むことによって、より強化される認識論的な現実。であれば、その認識論的前提そのものをひっくり返す、つまりは枠組み外しをして、メタ認知的に自らの呪縛された認知枠組み自体を認識する事が出来れば、その宿命論的呪縛(=魔術)の囚われから自由になることができ、現実を変える、別の可能性を探る旅路へと向かうことが出来るのではないか。これを、フレイレは銀行型教育の呪縛を乗り越えた、問題解決型教育という形で提示したのではないか。
前回のエントリーで、私自身の仕事を「福祉現場の構造に関する現象学的考察」と規定した。またその仕事の要点として、「構造的制約を括弧に入れる」という視点を書き込んだ。これをフレイレに引きつけて言い直すなら、福祉現場にはさまざまな「どうせ」「しかたない」の壁がある(養老孟司はそれを『バカの壁』と喝破していた)。その「構造的制約」を宿命論的に引き受けるのか。そうではなくて、それらの「制約を括弧に入れる」、つまりその前提自体も「ほんとうにそうか?」と疑いの眼差しを持つことによって、自分自身の行為を規定する暗黙の前提をも「知覚の対象に捉える」のか。前者に呪縛されていると、法や制度がそうだから「しかたない」というシステム内思考(=システム適応的視点)に陥るが、後者に気づけば、呪縛を乗り越え、それ以外の可能性の模索というシステム構築的視点に立てるのではないか。そして、福祉現場の「どうせ」「しゃあない」の現実を帰納的に変えてきた人々は、ある時期から「構造的制約を括弧に入れる」事によって宿命論を乗り越え、メタ認知的に全体状況を把握することにより、「そうではない別の可能性」を追い求め、「歴史的現実」を変革してきたのではないか、と気づくようになった。
このように、「福祉現場の構造に関する現象学的考察」をする中で見えてきた、宿命論を乗り越えるメタ認知的思考。これをフレイレは「問題解決型」教育と言っていたが、同じ時期に、人類学者は別の言葉で、こんな風にも言っている。
「科学者と器用人(ブリコロール)の相違は、手段と目的に関して、出来事と構造に与える機能が逆になることである。科学者が構造を用いて出来事を作る(世界を変える)のに対し、器用人は出来事を用いて構造を作る。」(レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房、p29)
必ずしも一致するわけではないが、フレイレの「銀行型教育/問題解決型教育」のカテゴライズと、レヴィ=ストロースの「科学者/器用人」のカテゴライズに親和性が高い。構造を用いて出来事を作る科学者は、規格化や標準化という構造的優位性を武器に、大量生産システムを作り上げて来た。だがその圧倒的な物量的な構造的優位性が、時として規格化や標準化の押しつけ、として方法論の自己目的化しはじめた。そこに「銀行型教育」が生まれる素地がある。そうではなくて、目の前の「出来事」から「構造を作る」知性。これは大量生産的な物理的優位性はない。だが、「出来事」を現象学的に捉え、その「構造的制約」(=という名の規格化や標準化の押しつけ)を取り除いた、「出来事」から出発した構造を作り出すがゆえに、問題の歪みを強化することなく、問題の制約条件を乗り越える、問題解決型思考や現場発の変革を導き出す事が出来るのだ。
私がアドバイザーやコンサルタントとして関わってきた福祉現場で苦労していた内容に共通するのは、実はこのメタ認知的思考であった。客観性の呪縛に囚われ、国が示す制度という「構造」を用いて支援という「出来事」を作ろうとしてきた。しかし、それでは制度や事業の当事者への当てはめである。一方、支援を求めている人の人生は、タコツボ的事業や縦割り制度のつなぎ合わせではない、トータルな一人の人生である。その際、「障害故にその地域で暮らしづらさを抱えている一人の人」という「出来事」を現象学的に捉え、その人の生活全体をどうすればよりよく支援出来るか、という「出来事」から「構造化」していけば、自ずと「構造」自体の制約に突き当たる。しかし、その「構造的制約」を「しかたない」と宿命論的に受け入れることなく、「運命へのチャレンジ」と捉え、どうすれば所与の前提をひっくり返すことが出来るか、という視点で、「出来事を用いて構造を作る」仕事。これを、同じくレヴィ=ストロースは、プラモデルのように規格化された構造を出来事に当てはめるのではなく あり合わせの材料から構造を作り出す、という意味でブリコラージュと名付けた。そのブリコラージュについて、彼はこうも言っている。
「彼の使う資材の世界は閉じている。そして『もちあわせ』、すなわちそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である。」(レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房、p23)
現場を変えようとしても、予算や人手には制約がある。だから「しかたない」と考えるのが宿命論的呪縛だとしよう。そのとき、この宿命論的呪縛故に行動を制約するのではなく、「限られた道具と材料の集合で何とかする」というゲームの規則だと考え、そこから新たな何かを作り出す事。実は、支援現場に求められている視点は、この宿命論と戦うブリコラージュなのではないか、と気づくようになってきた。そして、それが前回のブログで書いた、社会起業家の視点にも通じる何か、であると感じている。
多分、つづく