福祉現場の枠組み外し (枠組み外し その4)

ダイエットや「魂の脱植民地化」という言葉との出会いを通じて心身の変容を遂げ、自らにつけていた制約やリミッターを外す機会を経た後、大げさに言えば自らの世界観も根本的に変わり始めた。信念体系や価値観が180度転換した、というわけではない。そうではなくて、ある人なり組織なりの信念体系や価値観が、どのような構成で成り立っているのか、そこにどのような制約があるのか、ということについて、メタ認知的に捉え始めるようになったのだ。すると、様々な「所与の前提」なるものに呪縛的に捉えられ、本来持っている個人や組織のポテンシャルが十分に活かされていない例が、実に多く散見されることがわかってきた。
このことを、私がかかわる福祉現場の例に即して考えてみたい。
私は障害者福祉政策を一応の専門にしている。(とはいえ政策を体系的に学んだ機会はなく、現場に求められてOJT的に学んだのだが、専門という肩書き・枠組み・呪縛が付いてないと安心しない人のために、便宜的に自らの専門について名乗っているに過ぎない)
山梨では五年前から、三重では四年前から、県の障害者福祉政策に関する特別アドバイザーという仕事を引き受けている。中央集権から地方分権、専門家主導から当事者主体、行政処分から契約制度、慈善的福祉から権利保障、隔離収容から社会包摂、と障害者福祉分野はその前提となる価値観も具体的な政策体系も21世紀初頭以来、大きく変容する中で、市町村行政の現場では、制度変革や地域支援の課題に追いついていない。そのため、市町村現場の変革支援のために、外部者としてかかわることが両県で求められた。
この現場変革の支援を続ける中で、つくづく感じていたことが、思考の枠組みの制限の問題であり、「魂の植民地化」の課題である。
たとえばその最たるものが「予算(人手)がないから無理なんです」という呪縛。確かに、血のにじむような努力をした後で、やっぱり無理であれば、その言葉にも重みがある。だが、何もしないこと、変えられないことに対しての安易で、反論しにくい言い訳として活用されることがある。新規事業については、検討する以前からそうやって門前払いにするケースも少なくない。
市町村の現場職員への研修や、行政や支援者など官民へのコンサルテーションなどを通じて、このような「しない言い訳」を山ほど見てきた。そしてその背後に、官僚制やセクショナリズムの弊害、サボタージュ、だけでなく、労働の喜びを毀損する「呪縛」の影を、最近では見るようになった。
「余計な(法律で定められていない)ことをするな」「住民の要望などまともに聞くな」「他の市町村がしていないことに手を出すな」「他の住民との公平・平等を逸脱するな」「新規事業に手をつけるな」
このような様々な「べからず集」の背後には、官僚制の逆機能側面が満ちている。住民や事業対象者のために、という思いを持って仕事に取り組む職員も、上記の保身的組織防衛論理の同調圧力に屈して、その論理に反発するエネルギーを失っている場面も少なくない。「どうせ自分ひとりが頑張ったって・・・」「一人じゃ出来ない・・・」 このような諦めに基づく馴致、外在的論理の内面化を通じて自らの役割や可能性に蓋をして、リミッターをかけている人が、公務員だけでなく、福祉現場の職員にも少なからず蔓延していることが見えてきた。
それに対して、メタ思考に至らなかった私は、それらの職員を批判し、こうすべきだ、と説得することで、現場を変えようと躍起になっていた。だが、ちょうど自分自身の変容過程と重なる中で、「ダメだダメだと言うだけが一番ダメだ」という当たり前の真実に気づき始めた。ある価値なり信念に呪縛されている人に、外からその価値や信念の問題点を指摘しても、批判されていると思った当の相手は、自らの価値・信念体系を固守することに必死になり、下手をすれば呪縛の悪循環を強化することになりかねない。Aを前にして非Aを声高に主張することは、A自身の存在の肯定に逆説的に繋がってしまう。
それよりも、相手と私の価値や信念体系の構成要素や成り立ちの背景を分析する中で、その大元まで降り立って行き、どの部分であれば、相手にも納得して理解できる内容なのか、A以外の何かへの変容可能性のポイントはどこか、を、相手の内在的論理に添う形で探すことを心がけるようになった。
先ほどの「予算がないから無理なんです」という発言に戻って考えてみよう。
実は、市町村の福祉現場では、カリスマ行政職員・カリスマソーシャルワーカーなる存在が90年代から存在している。大学教員よりもよほど法制度や実態に精通していて、政策提言能力の高い職員のことを指す。介護保険制度導入以前にそういうカリスマ職員はたくさん増え、その中にはその後大学教員に転進していった人もいる。そういうカリスマ職員たちに共通するのは、予算ベース・事業ベースではなく、当事者のニーズを満たすという目的ベースであった。そのための、予算や事業であり、使える予算や事業は使い倒した上で、ないものはどう地域で官民協働の中で実体化していくか、を考えるプロフェッショナルだった。これらのプロフェッショナルは、官僚主義の呪縛を相対化して、システム内思考(システム適応的視点)ではなく、システム構築的視点を採用する。最初から法律を否定するのではない。徹底的に法律や制度の現状と問題点を調べつくして、使い倒して、法律にないものについては、それを実態的に乗り越えるための方策について、したたかに現場から構想していく力強さを持っているのだ。
このことと、先ほどの呪縛の悪循環問題は、密接に関連している。「予算がない」「法律にない」という言い訳を思考のリミッターや呪縛に転用しないためには、システム適応視点から、システム構築的始点への転換の支援が求められる。もっといえば、システム構築的視点でどう「ないものを作るか」のプロセスを伝え、実際にそれを体感してもらう中で、自らの仕事の枠組みへのリミッターを外し、行政の都合ではなく住民のニーズに基づく仕事をする職員へと変容してもらう、そんな支援職員の変容やエンパワメント支援が求められているのだ。
実際に私が出会った、研修やコンサルテーションを通じて仕事のあり方を変えていった現場職員達は皆、わくわく・活き活きと仕事をしている。「お役所仕事」とは全く逆の、創造性あふれ、誇り高く仕事をしている。「お役所仕事」というリミッター(=呪縛)がない分、新たな何かを産み出す苦しみを持ちながらも、福祉の仕事に情熱をもって取り組んでいる。パーソナリティの問題ではなく、労働の喜び・やりがいが、その人の仕事に表れているのだ。
これを連作の副題である「枠組み外し」との関連で言えば、官僚制の呪縛から解き放たれ、新たな仕事のやり方やイノベーションを導くためにも、福祉現場に携わる職員の、「無理だ」「仕方ない」の呪縛を解放する、枠組み外しをする必要がある。
そういえばかのシュンペーターは、entrepreneurの機能を「生産様式を革新ないし革命化すること」と述べていた。これに引き付けて考えるなら、営利企業だけでなく社会問題の解決にもsocial entrepreneurship、つまり社会問題への対応に関しての「生産様式を革新ないし革命化すること」が求められている。その際、自らのこれまでの行動規範や原理原則といった「生産様式」そのものに踏み込んでの「革新ないし革命化」が可能かどうか、が問われている。呪縛の解き放ち、とは、そのような意味で激烈な経験であり、量子力学的跳躍(quantum leap)が必要な部分である。
だが、明治以後作り上げてきた中央集権的官僚システムの思考停止や、呪縛的自己保身がその限界を迎えたことは、図らずしも、あのポスト311の局面で前景化してしまった。官僚制の順機能ではなく、最大の逆機能に向き合ってしまった今、どのような「生産様式の革新ないし革命化」が必要か、を考えることも、「魂の脱植民地化」を研究することになってしまった私自身にとって、アクチュアルな課題でもある。
(多分、つづく)

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。