人は、自らの参照枠組みそのものを、なかなか疑うことはできない。そして、その参照枠組み自体は、内発的な自然さで構築されるものではなく、外発的な、様々な契機に左右されている。だが、いったんそれを無意識的に内在的論理として組み込んでしまうと、その参照枠組み自体が所与の前提となってしまい、その枠組みそのものへの疑い、というメタ認知的な「捉え直し」を、自分自身に対して行うことは容易ではない。それだけでなく、その内在的論理とは異なる視点の違う論理に対して、強烈なる嫌悪感を持って全否定をしようとする。あたかも、自らの存在論的裂け目に出会う事を拒否する為に。
と、抽象度を上げて(=小難しく!?)書いてみたが、言いたいことは、自身の中で1年以上かけて、少しずつ気づいた事をまとめてみたら、上記のようになる。
例えばダイエットについて。
以前も書いた事があるが、私は自分でやせれない呪縛にはまり込んでいた。「腹が減っては戦は出来ぬ」「三食しっかり食べないと」「朝ご飯を抜いたらリズムがおかしくなる」といった、世間一般に流布されているフレーズを、食べる為の自己正当化として使っていた。痩せられないのも、体質や、仕事の忙しさや、運動する暇がない、などの理由をつけて、言い訳をして、「○○だから仕方ない」としていた。
だが、この「仕方ない」というのは、自己正当化という名の呪縛である事に、昨年気づかされて以来、事態がコペルニクス的転回をし始める。
きっかけはとある漢方医の一言だった。
「炭水化物を減らせば、ダイエットは確実に出来るよ」「夜ご飯を食べ過ぎたら、朝飯を抜けばいい」「無理して3食食べる必要はない」
ある医学レポートをプリントアウトしながら指摘された上記のフレーズは、大げさに言えば私の信念体系を根底から揺さぶる発言だった。これまで「○○だから仕方ない」と言っていた、その根拠を崩しかねない事態だったのだ。
普通、自らの信念体系を否定しかねない言説と出会うと、多くの人は「そんなことはない」と、躍起になって否定しようとするだろう。私自身も、以前なら上記の言い訳のストックフレーズを準備して、「そんなことはない」と聞く耳をふさいだかもしれない。だが、30代の折り返しの年にあたり、しばらく前から人生そのものに行き詰まりの感覚を持ちづけていた私は、この医師の一言を、全否定ではなく、命がけの跳躍やチャンスと捉えた。何か変わらなければならない、変わりたい、でもその方法論がわからない、と悶々としていた時期だったので、「これだ」と無意識的にその方法論に飛びついたのかもしれない。また、その半年前から合気道を習い始め、これまでの身体の硬直的運用と、それを超えて新たな技に見開かれていく経験をしていた矢先だったので、新たなる身体変容への誘いを、全否定ではなく、可能性と捉えたのかもしれない。
とにかく、最大で84キロ、医師に出会った時には81キロくらいあった体重が、上記のフレーズと出会った後、「計るだけダイエット」メソッドも併せて記録をし続けた事もあって、半年後には10キロ減り、1年後もその体重を維持している。私にとっては、無理だと決めていた事が、こうも簡単にリミッターを超えて、現実化されたことに、嬉しさもひとしおだが、驚きの方が大きかった。そして、少しずつ、「○○だから仕方ない」という考え方、つまり私自身の自己規定の枠組みそのものが、実はタケバタヒロシという存在そのもの限界を規定しているのではないか、と感じ始めた。そして、そこから枠組み外しの旅が始まったのである。(多分 つづく)