了解不可能性を超える複雑性

先週末、イタリアのトリエステ精神保健局長であるロベルト・メッツィーナさんのセミナーに出かけた。精神科医やコメディカルを主な対象としたセミナーで、濃厚な議論が展開された。その中で、精神病院に頼らず、地域で支え続ける人材を養成するにはどうしたらよいか、という質問に、メッツィーナさんは次の様に答えていた。

「フランスのエドガー・モランという複雑性思考の哲学者の言うように、還元主義に基づかず、複雑性に対処するトレーニングは理論のレベルではすこしは出来る。だがこれは理論的抽象的な話。真のガイドは、目の前にいる具体的な人。その利用者本人の自分の持っている苦しみに与える意味が、治癒への道筋を指し示す。それは人によって違うし、治癒の道も全く違う。具体的に目の前にいるその人が導いてくれるし、それしか複雑性に対処できないが、それが最もよい対処の方法である。」
この話を聞きながら、頭に何か微弱な電流が走った。モランって・・・家に帰って書棚をみたら、やっぱり読んだ事のあるモランだった。5年ほど前、複雑系の本を貪るように読んでいた頃は、それが何につながるのか、さっぱり理解していなかった。でも、昨日読み返してみて、精神医療の変革に必要不可欠である、と改めて気づかされた。
「精神の現代的病理は、現実の複雑性にたいして人間を盲目にしてしまう超-単純化のなかにある。」(エドガール・モラン『複雑性とはなにか』国文社、p25)
例えば診断名も、「超-単純化」の一つとは、いえないだろうか。統合失調症の○○型、とラベルを貼ることで、ある程度の「見立て」はすることが出来る。だが、そのラベルを貼られた人が、そういう状態に至るまでの生きる苦悩という「現実の複雑性」に対して、ラベルを貼れば「盲目」になり、ラベルから見える問題のみに焦点が当てられる、という意味で、「超-単純化」の「病理」に陥っているのではないか、という指摘である。そして、モランはこのような「超-単純化」とは、「合理性」ではなく、「合理化」である、という。
「合理化とは、ある一貫したシステムのなかに現実を閉じ込めようと欲することである。そして現実のなかでこの一貫したシステムに逆らうものはすべて退けられ、忘却され、脇におかれ、錯覚ないしただの見かけであるとみなされてしまう。」(同上、p104)
この合理化の話は、ちょうどメッツィーナさんとの質疑応答の部分で焦点化されていた。質問したのは、以前トリエステ研修でご一緒した精神科医のFさん。こんなことを聞いていた。
「ある患者さんが、治療契約の場面では『錯乱時には○○してほしい』といっていても、実際にその状態になったら違う事を口にしたり、以前言った事を忘れてしまったりする。あるいは、急性期を過ぎたあとにそのことを指摘しても、『覚えていない』という。こういう人の『主体性』をどう支援すれば良いのか」
これに対して、メッツィーナさんは非常にわかりやすくこう答えた。
「あなたは、主体性を限定的に捉えていませんか? 主体性とは、デカルト以来の論理実証主義的な言語で表現されるものだけでしょうか? 理性的ではない、非言語の表現も含めたものの中に、主体性が表現されていることはないでしょうか? 忘れてしまったり、覚えていない、あるいは幻聴に支配されている、という形での表現もあるのではないでしょうか? その意味を探ることが大切ではないでしょうか?」
科学的な思考の中では、言語的やりとりという「一貫したシステム」の中で判断しやすい。すると、錯乱や幻聴・幻覚などで、論理的な言語によるやりとりが出来ない、と見なされた人は、「一貫したシステムに逆らうもの」とされる。すると、その人の語り、だけでなく、下手をしたらその人そのものも「すべて退けられ、忘却され、脇におかれ、錯覚ないしただの見かけであるとみなされてしまう」可能性がある。しかし、メッツィーナさんがいうのは、それは言語的なやりとり、という「ある一貫したシステムのなかに現実を閉じ込めようと欲する」意味で、「合理化」に過ぎず、「超-単純化」だ、と指摘する。そして、モランに戻れば、このような「合理化」は、科学ではない、という。本当の科学的思考は、「合理化」ではなく、「合理性」である、と。それは一体どういうことか。
「合理性とは、われわれのうちでたえまなく行われている対話の働きであり、それは論理的構造を作り出し、論理的構造を世界に適用し、この現実の世界と対話を交わす。この世界が、われわれの論理システムと一致しない場合は、論理システムが不十分なもので、現実の一部にしか出会っていないのだと認めなければならない。合理性とは、いうならば、けっして現実全体を論理システムのなかに汲みつくそうとするのではなく、自分に抵抗するものと対話することを欲する。」(同上、p104)
錯乱や妄想などで、言語的なやりとりが通じない。この時、「一貫したシステム」から外れ、「対話」が出来ない、と見なすのが「合理化」思考である。一方「合理性」の思考は、一見すると「自分に抵抗するものと対話することを欲する」。ということは、言語的なやりとりが出来ないのであれば、その人の非言語の表現とか、妄想や錯乱がどのような訴えかけをしようとしているのか、を対話的に考える。言語表現という「論理システムが不十分なもので、現実の一部にしか出会っていないのだと認め」た上で、「現実全体を論理システムのなかに汲みつくそうとするのではなく」、その「論理システム」の限界を認識し、「対話」の中からその限界を乗り越えようとする。これが、精神症状のある人の「主体性」を取り戻す上で必要不可欠だ、というのだ。
「単純性のパラダイムとは、世界に秩序をもたらし、世界から無秩序を追い払うパラダイムである。秩序はひとつの法、ひとつの原理に還元される。単純性は一、あるいは多を見るのだが、<一>が同時に<多>でありうることを理解できない。単純性の原理は、結びつけられているものを切り離すか(分離)、多様なものを統一するか(還元)、そのどちらかである。」(同上、p87)
この人は狂っていて、言語的な理解や了解が不可能である。これは「結びつけられているものを切り離す」(分離)という単純化である。あるいは、このような了解不可能性のあるひとは、双極性障害である、というのは、「多様なものを統一する」(還元)である。このとき、了解不可能(分離)に一見思える人が私とどう同じ人間としての苦しみを抱えているのだろう(還元)という、「<一>が同時に<多>でありうることを理解できない」のが、これまでの旧態依然の(日本のドミナントな)精神医療のパラダイムではなかっただろうか。だからこそ、メッツィーナさんは、複雑性というキーワードをセミナーの中で何度も繰り返し表現していた。
さて、ではその「複雑性」とは何か。モランはこのように定義している。
「まず第一に、複雑性は、切り離しがたく結合した異質な構成要素によって織りなされたひとつの織物である。複雑性は一と多のパラドクスを提起する。第二に、複雑性は、実際には、われわれの現象の世界を構成する出来事、作用、相互作用、遡及作用、諸決定や偶発性によって織り成された生地である。」(同上、p22)
言語的に了解不可能に見える言動を発する人(多)が、同じ人間としてどのような生きる苦悩を抱えているか(一)の「パラドクス」を、そのものとして受け止めること。それは、その人と周囲や世界、支援者として目の前にいる私との「出来事、作用、相互作用、遡及作用、諸決定や偶発性によって織り成された生地」を、そのものとして眺めることである。
「異常だ」「オカシイ」とラベルを貼られた人とも「たえまなく行われている対話の働き」を続ける。そのプロセスの中で、外から見たら支離滅裂に見える言動の内在的論理を探り出し、その人の中での論理プロセスの筋道を明らかにする。それが、「正常」という形で「合理化」「単純化」された世界の論理構造を超えていても、その正常と異常の「相互作用」や「遡及作用」を捉えることで、正常と異常という「切り離しがたく結合した異質な構成要素によって織りなされたひとつの織物」の構造を捉えようとする。
モランは、単純化や合理化の限界を、次のようにもいう。
「西欧的・デカルト的形而上学は、すべての生き物をそれぞれ閉じた本質存在とみなしただけで、それらがみずからの開放性のなかで、その開放性によって、それらの閉鎖性(つまり自律性)を組織するシステムであるとは考えなかったのである。」(p33)
「異常な人」を、「閉じた本質存在」と留め置くのは、<多>ではあっても<一>ではない。その人の「異常」な状態とは、「正常」との関係性の中で、「正常」のカテゴリーの外にあるという理由で、「異常」と見なされる。「正常」と「異常」は、全く関わりを持たない「閉鎖性」システムではなく、相互作用や遡及作用しあう「開放性のなかで」「閉鎖性(つまり自律性)を組織するシステム」なのである。
事実、数十年前には、LGBTは「性的志向の乱れ」、不登校は「学校恐怖症」と、それぞれ「異常」「逸脱」のカテゴリーが張られていた。だが、ご案内の通り、それらの「症状」にみえる状態の内在的論理が、主に当事者達のカミングアウトによって明らかにされ、マジョリティにも理解されるうちに、これらのカテゴリーは大きく変更し、「異常」に留め置かれなくなったのである。つまり、これらのカテゴリーは、つねに「開放性」のあるカテゴリーなのだ。
そこから彼は次の様にも指摘する。
「開いたシステムという考え方からは、次の様な二つの主要な結論が引き出される。その第一は、生体組織化の法則は平衡の法則ではなくて、安定化したダイナミズムによって捕捉された、あるいは代償された非平衡の法則だ、ということである。(略)第二の帰結は、システムを理解する鍵は、システムのなかだけではなくて、システムとその環境とのあいだにある関係のなかに求められなければならないということ、そしてまたその関係は、たんなる依存関係ではなくて、システムそのものを構成する関係である、ということである。こう考えることができれば、現実は、開いたシステムとその環境とのあいだの区分けにあるのと同じ程度に、それら両者の結びつきにある。」(同上、p33)
ここで筆者が強調する太字部分が、僕自身も今回読み直して、一番しっくりと来た部分である。
異常という「現実」だって、「開いたシステム」であり、「その環境」(=正常)「とのあいだの区分けにあるのと同じ程度に、それら両者の結びつきにある」。正常とされる論理の中で、あるいは言語的には「了解が不可能」に思える現実には、「異常」というラベルが貼られる。でも、このラベルを「閉鎖性」で捉えてはならない。あくまでも、正常という環境との「あいだの区分け」であり、それと「同じ程度」に「正常」と「異常」は「結びつ」いているのである。

これまでブログにも書いてきた「ゴミ屋敷」の問題でも、それを「異常」と片付けたところで、何も解決は生まれない。その家の主が、どのようなプロセスを経て、ゴミを溜め続けてきたのか。「ゴミ屋敷」を「異常」とラベルを貼って分かったフリをせず、その「開いたシステム」の中にある、「ゴミを溜めていないご近所」との「結びつき」を分析する中で、例えば周囲から孤立していき、孤独が深まり、ゴミを溜める行為が深まった、という悪循環の構造が析出される。

これも先月のブログに書いたが、「悪循環とは、ある人が自身の置かれている状況を問題のあるものとみなし、これを解決しようとする行動に出るが、この解決行動自体がとうの問題を生み出してしまうというメカニズムを持ち、しかもこれが反復的に繰り返されるもの」(長谷正人『悪循環の現象学』)であった。ということは、悪循環に陥る人は、勝手に陥るのではない。「解決行動」という環境との相互作用が、悪循環を生み出すのである。「ゴミ屋敷」の人だって、本人にとっては「解決行動」に思えることが、世間からは「ゴミを溜めること」の「反復」だと見なされ、周囲との軋轢が深まり、本人は孤独になり、それを解消するために、ますますゴミを溜めるという「解決行動」以外の行動に出られない、という「悪循環」のループに陥っているのだ。これも、「ゴミ屋敷」を「異常」と「単純化」して「合理化」する危険である。

その際、私たちに求められるのは、「合理化」ではなく、「合理性」を持って向き合うことである。もういちど、そのフレーズを引用し直しておこう。
「合理性とは、われわれのうちでたえまなく行われている対話の働きであり、それは論理的構造を作り出し、論理的構造を世界に適用し、この現実の世界と対話を交わす。この世界が、われわれの論理システムと一致しない場合は、論理システムが不十分なもので、現実の一部にしか出会っていないのだと認めなければならない。合理性とは、いうならば、けっして現実全体を論理システムのなかに汲みつくそうとするのではなく、自分に抵抗するものと対話することを欲する。」
ゴミ屋敷は、「われわれの論理システムと一致しない」がゆえに、異常だと析出される。だが、異常とラベルを貼ることは、「論理システムが不十分なもので、現実の一部にしか出会っていない」単純化や合理化である。単純化や合理化が切り落とした「汲み尽くせない」部分という、「自分に抵抗するものと対話すること」の中からこそ、正常と異常の切り分けを超えた、「開いたシステム」の真っ当なやりとりが展開される。それが、了解不可能に思えた「異常」の物語を理解し、了解するための、入口である、というのだ。

ここまで整理すると、メッツィーナさんの冒頭のメッセージが、よりクリアに見えてくる。

「真のガイドは、目の前にいる具体的な人。その利用者本人の自分の持っている苦しみに与える意味が、治癒への道筋を指し示す。それは人によって違うし、治癒の道も全く違う。具体的に目の前にいるその人が導いてくれるし、それしか複雑性に対処できないが、それが最もよい対処の方法である。」
「目の前にいる具体的な人」は、生きる苦悩が最大化して、苦しんでいる。その「苦しみに与える意味が、治癒への道筋を指し示す」。その大枠に従って、あとは「具体的に目の前にいるその人が導いてくれる」その人の物語世界を、単純化や合理化で「わかったふり」をせず、異常とラベルを貼られる部分の「開いたシステム」をながめて、「正常」世界との結び目をたぐり寄せるなかで、その人の生の「複雑性」を少しでも理解して、「治癒への道筋」をたぐろうとするのが、治療者の役割なのである。
DSMやらGAFという単純化・合理化のカテゴリーを「ガイド」にするのではなく、「目の前にいる具体的な人」こそを「真のガイド」にすべきだ、というメッツィーナさんの主張は、非科学的な「反精神医学」ではない。複雑性科学に支えられた、実りのある可能性との「対話」なのである、と改めて学び直した、モランの再読であった。
追伸:トリエステ方式とオープンダイアログの共通点は、単純化・合理化をすることなく、この複雑性を大切仁して、「目の前にいる具体的な人」を「真のガイド」に、複雑な物語をそのものとして理解し、その物語の固着を「対話」の中から揺り動かすことに、あるのかもしれない。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。