フランスの社会学の大家、ブルデューの翻訳者でもあり、ブルデューと個人的親交を深めておられた加藤晴久氏によるブルデュー論が、すごく面白かった。ブルデューの足跡をたどれるだけでなく、彼の社会学の価値前提のようなものまで、学ぶことができた。たとえば、ブルデューの肉声を伝えるこんなフレーズ。
「わたしが必然性というものをこれほど鋭く知覚するのはたぶん、わたしが必然性を何にもまして耐えがたいものと思うからです。貧しい人であれ富んだ人であれ、誰かが必然性にとらわれているのを見ると、わたし個人として、みずからのこととして苦しく思います。」(加藤晴久『ブルデュー 闘う知識人』講談社選書メチエ、p181)
この部分は、すごく深く頷いて共感する。僕自身が3年前に「枠組み外し旅」を上梓するきっかけになったのも、「どうせ」「しかたない」といった「必然性へのとらわれ」に対して、「みずからのこととして苦しく思」ったからだ。それは、同書の冒頭にも書いている。
「「どうせ」「しかたない」というフレーズは、自らの潜在能力の最大化にとって最大の「蓋」であり、「呪縛」の言葉である。「どうせ」「しかたない」と述べることで、自分の、社会の、世界の変容可能性を拒絶し、旧来の世界に閉じこもることを容認している。」(竹端寛『枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会』青灯社、p15)
僕自身が問いかけた、この「どうせ」「しかたない」という認識論的な「必然性」という枠組みに対する問いを、ブルデューは自分事として問いかけ、僕よりもずっと前から問い続けてきた。
「社会学はわれわれが演じているゲームを理解するチャンス、そしてわれわれが生きている界に作用する諸力の影響とわれわれの内部で作用する身体化された社会学的諸力の影響を縮小するチャンスを与えてくれます。」(加藤、同上、p180)
そう、「どうせ」「しかなたい」と、世の中で起こる事を「必然性」でとらえると、それに従うしかない。でも、なぜ「どうせ」「しかたない」のか、変わることは出来ないのか、という構造を問い続ける中で、「どうせ」「しかたない」と諦めているこの社会の「ゲームを理解する」ことが可能になる。そのゲームの構造やルールを意識的に理解することを通じて、「われわれが生きている界に作用する諸力の影響とわれわれの内部で作用する身体化された社会学的諸力の影響」を自覚化することが出来る。これが、「どうせ」「しかたない」という「呪縛」を解き放ち、脱魔術化し、「蓋」を外して新たに社会をとらえ直す上で、必要不可欠なのだ。加藤さんは、上記二つのブルデューの言葉を引用したあと、こんな風にも整理している。
「今ある社会秩序を人々が疑うことなく、むしろ進んで受け容れているという事態を昔から不思議に思ってきた。人々が抱いている、とらわれているこのドクサ(臆信)がパラドクス(背理)であることを明らかにすること、歴史が自然に、文化的恣意や自然的恣意に変換されてしまう過程を分解することが社会学の仕事だという訳である。」(p185)
加藤さんは本来フランス文学者だが、中途半端な社会学者より、遙かにわかりやすく社会学の仕事を定義する。前回のブログにも書いたが、精神医療における「合理化」とは、「文化的恣意や自然的恣意に変換されてしまう過程」であった。それが、DSMやGAFという分類体系によって正当化される過程であった。だが、正当化や合理化のプロセスは「ドクサ(臆信)」への「とらわれ」であること、「合理性」を重んじる科学の中で「合理化」が行われることは「パラドクス(背理)」であること、は、精神医療という「界」の構造を分析すべき、社会学者の仕事なのである。他人事ではない、僕自身もそれをちゃんと自覚化して、必要な仕事をしなければならない、と感じ始めている。
「界で進行する諸闘争はその界の特性をなす正当な暴力(界固有の権威)の独占をめざすたたかいなのです。終局的には、界固有の資本の分布構造を保守するか転覆するかの闘争なのです。」(p226)
以前のブログでご紹介したオープンダイアローグやトリエステ方式は、日本に伝えられると換骨奪胎される恐れがある。それは、日本の伝統的な精神医療の「界固有の資本の分布構造を保守」したい勢力は、その「転覆」の可能性のある価値前提を去勢し、技法論に矮小化して、伝統的なヒエラルキーの下部構造に位置づけたいからである。リカバリーやピアサポートも、そのような諸闘争の中で、「医師の指示の下で」「病院の中でも出来る」技法に矮小化された部分もある。だが、オープンダイアローグやトリエステ方式が本来問い直しているのは、技法ではなく、価値前提である。医師を頂点とした垂直型構造が、患者の治癒には有効ではない、という価値前提に立ち、治療構造を水平的関係に変えていこう、というパラダイムシフトである。これは、「あたなのために」から「あなたとともに」へのパラダイムシフトである。そして、それをすると、伝統的な精神医療だけでなく医師「固有の権威の独占」が出来なくなるため、これらの新しい価値前提は、技法論に矮小化される「闘争」にさらされている。
そして、社会学者の僕は、精神医療の科学の言葉で語られる背後にある、このような「固有の資本の分布構造を保守するか転覆するかの闘争」を、精神医療という「通常科学」の言葉で「合理化」してわかった気にならず、「精神医療の社会学」として、その「合理性」を分析していく必要があるのだ、と思い始めている。
「すべての支配関係の根源には『恣意性』がある。この恣意性を無意識の領域に抑圧し、支配関係を当然のこと、自然なこと、普遍にもとづくものとして受け入れさせるためには、支配者側が体現する世界観、見方、分け方原理を正当なものと受け入れさせる必要がある。つまり社会関係は力関係の場であると同時に意味の場でもある。支配の現実である力関係を隠蔽し、正当なものとして受け入れさせる象徴的権力、これがブルデューの言う象徴的暴力である。」(p233)
日本の精神医療の現場で今も続く精神病院への隔離拘束とは、「支配の現実である力関係を隠蔽し、正当なものとして受け入れさせる象徴的権力」が機能している実態である。日本の精神医療には「象徴的暴力」が働いている。この「象徴的暴力」の「正当化」論理を疑い、どのような「恣意性」が働いているのか、を問い直すことは、実はイタリアでは、フランコ・バザーリアが40年以上前に実践していたのであった。
「医師も看護師も患者も、この新しくて、改良された、「良い」施設を創り上げるのに貢献している全ての人が、自分自身が創り上げた牢獄に閉じ込められている事に気付くかもしれない。自分たちが影響を及ぼしたと考える現実から疎外されていることや、最も明らかな欠点をふさぎ、より大きな欠点をもたらすことになるシステムに再統合されるのを待っている、ということに。唯一の可能性とは、患者が自分自身の歴史が、常に虐待や暴力の歴史と繋がっていると主張する事であり、その虐待や暴力の起源をはっきりと覚えておくことである。」(Scheper-Hughes, Nancy and Anne M. Lovell eds., 1988, Psychiatry Inside Out: Selected Writings of Franco Basaglia New York: Columbia University Press. pp84)
「自分自身が創り上げた牢獄に閉じ込められている」とは、精神医療の象徴的暴力への無自覚な従順であり、それを「必然性」「どうせ」「しかたない」と受け容れることである。これは「ドクサ(臆信)」への盲信・猛進である。だが、自分たちの医療行為が、「虐待や暴力の歴史と繋がっている」と「はっきりと覚えておくこと」によって、「支配の現実である力関係を隠蔽」せずに、自覚化することができる。バザーリアが民主精神医療(psichiatria democratica)を主張したのは、このような「象徴的暴力」の自覚化と、そこからの脱出を目指したから、とも言える。
ブルデューのような仕事が出来る自信はないが、精神医療における「必然性」への囚われから自由になるために、研究者が出来ることは、このような社会学的分析なのかもしれない。改めて、そう感じた一冊であった。