施設病というダブルバインド

【追記的前書き(11月28日):統合失調症の理由がダブルバインドである、というのは、現在の精神医療では棄却されているし、また本論は、「だから母が悪い」という「母源病」に与するものでもありません。ただ、ダブルバインド的コミュニケーションが患者を拘束する、という論理が、施設病における患者の拘束と類同性を持つ、というのが、本論で書きたいことです。この点について、首都大学東京の長沼先生にご教示頂いた事を、記してお礼申し上げます。】

ベイトソンの提唱した有名なダブルバインド(二重拘束)概念。その原著を紐解くと、こんなふうに書かれている。

「母との絆を保つためには、彼女に愛を示してはならない。しかし愛を示さなければ母を失う。-これが患者を捕らえた解決不能のジレンマである。」(ベイトソン『精神の生態学』新思索社、p308)
入院患者の元に、母が見舞いに訪れた。「お母さん、来てくれたんだ」と抱きつこうとしたら、母がスッと身を引いた。「なんだ、お母さんは結局僕を好きじゃないんだ」と後ずさりすると、それを見破られたくない・自己正当化したい母は、「どうしたの、そんなに怖じ気づいて!」と説教をする。すると、子どもは「彼女に愛を示してはならない」という身体表現上のメッセージと、「愛を示さなければ母を失う」という言語メッセージの矛盾に引き裂かれ、そこで宙吊り状態になってしまう。これが「患者を捕らえた解決不能のジレンマ」である。ベイトソンは、なぜこのような現象が生じるのか、について、次の様に述べている。
「ダブルバインディングなコミュニケーション状況は、母親の心の保全にとってきわめて重要なものである。ということはつまり(論理的にいって)それが家族のホメオスタシスにとって必須のものだということだ。そうだとすれば、治療が次第に効果を発揮し、子どもが母親の制御を振り切って次第に独り立ちしていくにつれて、子どもを制御することに依存していた母親の心のバランスを失していくことが観察されるだろう。自分と子供との関係の力学を医師から説明されるというだけでも、母親は大きな不安を喚起されるはずである。(略)治療中の患者が家族と持続的な接触をもつ場合(特に家から通院する場合)、母親に-時として母親、父親、兄弟姉妹の全員に-しばしば激しい動揺と混乱のようすがみとめられた。」(p311)
簡単に言えば、ダブルバインドは、この場合で言えば「母親の面子とプライド」を護るために必要不可欠な要素である。自己欺瞞を隠蔽するためには、自分が悪いのではなく、「子供が病気だから」というラベルを、自分と子供、だけでなく、その家族全体が「鵜呑みにする」ことが求められる。「それが家族のホメオスタシスにとって必須のものだ」ともベイトソンは言い切る。このホメオスタシスは「恒常性」という日本語訳がついているが、ベイトソンはこの恒常性について「家族間の相互関係の(この場合歪んだ)バランス」と書いている。歪んだバランスであれ、家族間の相互関係が保たれて居る場合、子供がその矛盾に気づき、そこから脱しようとするならば、母親にとってそれは「自分と子供との関係の力学」の変化の可能性に映る。これは、母親だけでなく、歪んだ仮の安定に依拠している父親や家族全員にとっても「大きな不安を喚起」する可能性が高い。だからこそ、この矛盾と向き合おうとすれば、「しばしば激しい動揺と混乱のようすがみとめられた」のである。
はっきり言えば、家族も本人も、混乱する、という危機である。その際、治療者や治療チームはどちらの方向に向こうとするか、で、「その後」は大きく変わる。簡単に言えば、①患者本人の問題に矮小化して、矛盾を「本人の問題」と切り分ける、か、②その矛盾を社会ネットワーク全体の問題とみた上で、その関係性の不全に踏み込むか、の二つのアプローチが考えられる。
ベイトソンは、前者の①「本人の問題」と切り分ける、ことに関連して、次の様にも述べている。
「サイコセラピーの場でも、病院内の環境でも、ダブルバインド状況は生み出されるということ。われわれの仮説からすると、病院側の患者側に対する”善意”が、はたして患者のためになるものかどうか疑問視せざるをえない。病院は患者のために存在するのと同様に-同程度に、あるいはそれ以上に-病院のスタッフのためにも存在するのだから、そこで『患者のため』という名目で、職員の居心地を一層良くすることを目的とする活動が続けられる時には、矛盾も生じるだろう。病院側の目的に添うように組織された制度を、『患者のため』と宣告することは、患者にとっての分裂症的状況を永続化していくことにほかならないとわれわれは考える。」(p315)
「あなたのために」と言いながら、そう発言する「私」にとっての「居心地を一層良くする事を目的とする活動が続けられる」。この構造は、先の母と息子の関係と同じだ。これは、母と子という1:1の関係だけでなく、病院・入所施設職員と患者という集団的な関係でも同じだ、とベイトソンは言う。「あなたのために療養や入所が必要です」と述べていても、その現実は、「あなたが入院(入所)してくれているから、うちの病院の経営は成り立つのです」という論理で支えられているのであれば、これは「病院は患者のために存在するのと同様に-同程度に、あるいはそれ以上に-病院のスタッフのためにも存在する」という事態そのものである。そして、残念ながらこの事態は、ベイトソンがこの論文を発表した1956年から60年近く経った今も、全く変わっていない。以前、病棟転換型施設問題についてシノドスに書いた時に引用した、病院長の発言を再び引用する。
「千葉潜委員(青仁会青南病院院長)は、長期入院している精神障害者をグループホームに移行させた場合、赤字経営を強いられる可能性が高いとする試算を紹介。それでもあえて入院患者の地域移行を進める病院は、精神医療の改革を意識した良質な病院であるとし、『そうした病院が病床を減らしても食べていけるような裏付けがなければ、長期入院する精神障害者の地域移行は進まない』と訴えた。」
これは、矛盾の表出例のサンプルとして、大変わかりやすいものである。病院は、精神科であれ内科であれ、公式には「患者の治療の為」に存在する。ということは、治療が終われば、退院してもらうのが当たり前である。だが、一方で「病院は患者のために存在するのと同様に-同程度に、あるいはそれ以上に-病院のスタッフのためにも存在する」。だからこそ、「そうした病院が病床を減らしても食べていけるような裏付けがなければ、長期入院する精神障害者の地域移行は進まない」、つまりは「病院のスタッフ」「の居心地を一層良くすること」が「裏付け」されない限り、「長期入院する精神障害者」は退院させられない、というのである。これは、病院の公式な目的と、病院の本音との明かな矛盾である。
そして恐ろしいことに、医者は診断名を武器に「あなたはまだ病気が消失していないから(保護者の同意がないから、一人で生活する力がないから、刺激に耐えられそうにないから・・・○○だから)退院出来ない」と宣言することができる。これは、自己欺瞞をしている母親が、その欺瞞の隠蔽工作を計り、矛盾を入院している息子に押しつける構図と全く同じである。本来であれば、この自己欺瞞こそが、息子のダブルバインド状況を作り出している。この場合であれば、「入院する必然性」がなくなったら、即時退院させるのが当たり前である。だが、それが出来ずに、長期間入院させていることで、患者が病院側にとって「固定資産」になっている。それを維持することが、「職員の居心地を一層良くする」がゆえに、安易に退院を言えない。すると、患者も「ここしかないのか」と矛盾を自分の中に治めてしまう。
僕は、大学院生のころ、NPO大坂精神医療人権センターのボランティアとして、精神病院を沢山訪問して来たが、そこで「退院意欲のない」とラベルを貼られている患者さんに沢山出会ってきた。だが、その後「施設病」という言葉を知り、入所施設や病院が、そこから退院・退所出来ない構造を作り出している事にも気づき、そのことは『権利擁護が支援を変える』の中にも書いた。だが、もう一歩進めるならば、「施設病」に陥っている入院・入所者は、ダブルバインドの「矛盾」、その施設なり病院に住み続けることが、家族や施設・病院職員にとっての「居心地を一層良くする」ということが本音にあって、その「本音」と、「早く治ってほしい」「しっかりと生活してほしい」という建前の矛盾に苦しんで、生きる意欲が喪失し、施設や病院での暮らしに唯々諾々として従っていくのではないか。その「矛盾」を病気や障害のせいにすることによって、「患者にとっての分裂症的状況を永続化していくことにほかならない」のではないか。そう感じはじめている。
だからこそ、気になることがある。
例えば、オープンダイアローグ。
オープンダイアローグは、ブログでも何度か紹介しているが、②その矛盾を社会ネットワーク全体の問題とみた上で、その関係性の不全に踏み込む、アプローチである。決して、①患者本人の問題に矮小化して、矛盾を「本人の問題」と切り分ける、ことではない。だが、日本でこれが広まっていくとき、
「精神病院の中でのオープンダイアローグ」
という、笑うに笑えない「矛盾」が生じる危険性がある、と感じている。なぜ、病院の中でのオープンダイアローグが笑止千万なのか。ここまで読んで下さった方々はもうお気づきかもしれないが、長期入院患者や長期入所者は、ダブルバインド的な矛盾を一人で受け止めるように、構造的に追い込まれている。その中で一生暮らす事を選択するように、暗黙の内に強いられている。「お母さんは嘘つきだ」という自己欺瞞の告発を息子が出来ないのと同じように、「この施設・病院の存在そのものが自己欺瞞だ」と言えない状況に追い込まれている。しかも、職員-患者という権力関係によって、発言に蓋がされている。その前提の中で、「さぁ、自由に語りましょう」と言うこと自体が、お笑いというか、自己欺瞞なのだ。
本当に精神病院の中でオープンダイアローグをしようとするなら、「その矛盾を社会ネットワーク全体の問題とみた上で、その関係性の不全に踏み込む」なら、精神病院という構造の「矛盾」をも、自由に話すことが出来なければならない。
「あたなは寛解しています。地域に出る事だって、出来ます。でも病院の経営上(食べていくために)、あなたはここに居てもらわなければならないので、退院は出来ていません」
という「矛盾」を相手に伝えた上で、その「矛盾」をどう解消していくか、医療者と患者が共に考えること。これが、精神病院の中でのオープンダイアローグである。これは、言うは易く行うは難し、である。というのも、医療者側が、自己欺瞞とまず向き合う必要があり、当然、先の母親と同様「激しい動揺と混乱のようす」を見せる可能性がある。つまり、本気で「矛盾」と向き合う事は、病院や入所施設内の「相互関係の歪んだバランス」というホメオスタシスを大きく揺るがす事態につながる。それは、「入所・入院者を制御することに依存していた支援者・医療者の心のバランスを失していくこと」にも直結しかねない。だからこそ、地域移行や脱施設は、本人とではなく支援者・医療者のホメオスタシスを崩す事であり、「激しい動揺と混乱」を引き起こすことが容易に想像出来るため、施設や病院側は尻込みするのである。そして、入所・入院する本人はその「矛盾」を貝のように固く閉ざして引き受けるのである。この矛盾の貝殻を本気でこじ開けるつもりが無い限り、「精神病院の中でのオープンダイアローグ」は、「病院内でのSST」と同様、擬似的効果しか発揮しない可能性がある。
そして、ここまで書いていて思いだしたのだが、実はイタリアのトリエステでは、本気で病院内でのオープンダイアローグをしたのである。それが、「アッセンブレア」である。そのことは、雑誌「福祉労働」にも書き、一部はブログにも書いたことがある。精神病院の中で開かれた、誰でも参加や発言が可能な討論集会。そのアッセンブレアは、こんな様子だったという。
「イタリアのアッセンブレアとは、衝突のステージであった。というのも、ベッドや閉鎖病棟に隔離拘束されていないとしても、長年沈黙してきた人々による表現であったからだ。アメリカやイギリスの治療共同体とは違って、アッセンブレアは精神力道的な解釈や治療プロセスへの第一義的関心は避けられていた。つまり、そのミーティングは、スタッフによって運営も誘導もされなかったのである。実際、これらの集まりはまとまりもなく、コントロール不能で、怒りや熱情、無秩序に開かれていた。そこは、他人との関係の、あるいは自分自身の精神的な問題について控えめな表出をするための安全な場所以外の何物でもなかった。」(Scheper-Hughes, Nancy and Anne M. Lovell eds., 1988, Psychiatry Inside Out: Selected Writings of Franco Basaglia New York: Columbia University Press.14-15)
「怒りや熱情、無秩序に開かれていた」環境であり、「スタッフによって誘導」されなかったからこそ、「長年沈黙してきた人々による表現」が可能になった。これまで入院する中で自分が抱え込んできた「他人との関係の、あるいは自分自身の精神的な問題」という「矛盾」を、そのものとして話すことが出来る場だったのである。このアッセンブレアを提唱したバザーリアは、こんな風にも言っている。
「医師と患者の間の、看護師と患者の間の、そして医師と看護師の間の矛盾の表現の中にこそ、新しい可能性や新しい役割が生まれるであろう。私たちの仕事の治療的な側面とは、矛盾についてのこの対話的実践である。このような矛盾は無視されたり隠されたりすることなく対話的に直面される時、そしてスケープゴートを探す技術が、『しかたない』と受け入れられる代わりに対話的に議論される時、コミュニティは治療的だと呼ばれるのだろう。」(同上、p75)
オープンダイアローグによって、医師と患者の間の、看護師と患者の間の、そして医師と看護師の間の矛盾」が明らかになってこそ初めて、精神病院の中での「対話」には「新しい可能性や新しい役割が生まれる」。「矛盾についてのこの対話的実践」を「治療」として、精神病院のスタッフが踏み出すことが出来るか、が大きく問われている。精神病院が「食べていくために」患者を収容している。図らずも精神病院のオーナーが述べたこの矛盾をそのものとして認めた上で、「矛盾は無視されたり隠されたりすることなく対話的に直面される時、そしてスケープゴートを探す技術が、『しかたない』と受け入れられる代わりに対話的に議論される時、コミュニティは治療的だと呼ばれるのだろう」。
ここまでの覚悟を持って、「精神病院の中でのオープンダイアローグ」が進むのか。それは、ダブルバインドを「施設症」的に隠蔽するか、病院構造の力学を根本的に変化させるために用いるのか、の分かれ目でもある。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。