「外国人介護職の受け入れ論」の陥穽

少子高齢化とケア産業の将来的人手不足、というのは、人口推計的に見えている。そして、そのときに必ず出てくるのが、「外国人介護職を大規模に受け入れよ」という論である。今朝ツイッターで流れてきたとか、企業家による誘致策とか、時折みかける。

そういう論を立てている人たちが議論しない「前提」が、むしろ僕には気になる。
前提1:日本人の若者にとって介護労働は人気がない
前提2:介護労働の報酬は低い
前提3:介護労働の内容は、トレーニングさえ受ければ誰でも簡単にできるものであり、代替可能性が高い
前提4:香港や欧米では、フィリピンなどの外国人介護職を受け入れて成功している
これは介護を看護に入れ替えても、ほぼそのまま通じる「前提」である。だが、僕にとって、この4つの前提全てが疑わしく感じる。
前提1について
→私は政治行政学科に所属しているが、今週末のオープンキャンパスや、入試の際などで、毎年多くの受験生に接している。我が学科は公務員合格率が高く、全国の公務員志望の高校生が受験希望をしてくれるので、必然的に彼ら彼女らと話すことが多い。
 そして、公務員志望の子たちに「なぜですか?」と聞くと、しばしば「地域(他人・社会・・・)の役に立ちたいから」という答えが返ってくる。その際、マーケットリサーチもかねて、「では、介護職でも役立てるのではないですか?」と尋ねると、多くの場合、「介護職は給料が低いから」という前提2の答えが返ってくるのだ。で、にわかリサーチャーとしては、当然「では、公務員並みとか、それに近い給料が保証されたら介護職でもいいの?」とたたみかけてきく。すると、少なからぬ学生が「それならばそっちでもいい」と言い出すのだ。
 特に産業の乏しい地方の市町村出身の学生が、地元に残ろうとしたときに一番堅い仕事が「公務員」というのが現状らしい。逆に言えば、「介護職」を手堅い仕事にしてしまえば、彼ら彼女らはその職に残りたい、というのである。つまり前提1は前提2を前提にする限りにおいて、前提になるのである。
前提2について
→介護職の給与が低い。これを所与の前提にする論者の少なからぬ数は、介護職が、賃金価値の低い労働であるという前提に立っているような気がする。だが、これもオカシイ。なぜなら、高齢者介護は半分保険料で半分税金、障害者介護は税金、どちらも公定価格で決まっている準市場なのだ。医療同様、自由競争で価格が決まるのではなく、基準単価が示されている業界だ。そして、その基準単価が、医療も含めて、低く抑えられているのが、我が国の特徴だ。
 裏を返せば、この基準単価を上げれば、この前提はひっくり返る。ということは、政府だけでなく、外国人介護労働者の積極受け入れを勧める論者は、この単価をいじりたくない、という考えを、無意識的にしろ、持っている。そして、それは前提3につながる。
前提3について
→私は外国人差別をするために、これを書いているのではない。ただ、外国人介護労働者の積極受け入れ論者に共通するのは、介護労働は肉体労働であり、誰でも出来る、代替可能性の高い、簡単なものだ、という共通認識がある、そのことについての違和感である。
 確かに、ヘルパーの資格なら、短時間の訓練を経て、割と簡単にとれる。だが、実際の介護の仕事は、やり始めたら非常に奥が深い仕事である。確かにベルトコンベア式にご飯を食べさせる、おむつを交換する、お風呂に入れる、という集団管理型一括処遇なら、あまり頭を使わずに出来るだろう。だが施設でもユニットケアが叫ばれ、個別のニーズに基づく介護・介助が重要視されるようになってきた。これは、標準化されたケアではなく、個別のニーズや介護者と当事者の関係性に基づくケアへの転換、を意味する。(医学モデルから社会モデルでの転換でもあるが、その細かい説明は今は割愛)
 ケアを受ける側の思いや願いをくみ取りながら、関係性を構築しながら、毎日同じケアを繰り返しているようでいて、どのような支援をすれば、昨日よりよいよいケアが出来るだろう、本人の想いや願いに近づけるだろう・・・といった事を試行錯誤する、毎日が発見とカイゼンの塊のような仕事でもある。それをしていない単純労働の現場が少なくないのは、それはその現場の介護職が質の低い仕事をしているからであり、本当に質の高い介護・介助労働をしている人は、一般企業で働いている人と同じような、時にはそれ以上のクリエイティビティを発揮して働いている。
 そして、その際に、対人直接支援であるが故に、ケアを受ける側の言葉を受け止める技術が、実に大きな要になってくるのだ。これが前提4につながる。
前提4について
→例えばフィリピン人の介護士・看護師は英語を話せる。だから、英語が母語の国では受け入れられやすい。だが、日本では日本語がネックになっている。ゆえにそれを訓練せねば。あるいは看護師の試験なら、難しい褥瘡などの専門用語を出すと外国人に不利になる。そういう議論がなされる。
 でも、問題はそんな表層的な事ではない。ケア業務は、相手の機微を読み取って、それに反応する仕事である。機微を読む、というのは、論理的表現としての言葉、だけでなく、言葉の奥に隠されたものや、何気ない雑談中の一言、あるいは言葉に出さない態度や表情、などからケアを受ける側の想いや願いを受け止める、ということである。その際、ケア提供者側には、言語に関する感受性の強さと、表情や態度などを読み取る、文脈読解能力の高さが求められる。「ご本人は本当は何が言いたいんだろう?」「どんな思いをうちに秘めているのだろう?」 そういった機微を想起し、読み取る力が求められているのだ。ここには、高い言語運用能力が必要なのである。
 僕は別に特定の人種を悪く言うつもりはない。ただ、スウェーデンでも移民労働者が介護職に入っているが、スウェーデンの文化を共有していない為、例えばクリスマス、あるいはザリガニパーティーなど、その文化固有の記憶に基づいたケアが出来ない、というのを聞いたことがある。日本で言えば、秋田弁をどこまで共有しているか、とか、なまはげや盆踊りなどを共時的・共感的に理解出るか、とか、集合的記憶としての「ふるさと」感が似ているか、などが、機微を読み取るケア、ケア対象者と共に新たな関係性を作り出していくケア、の一つ一つの内容に、大きく繋がっているのだ。それらのニュアンスが、文化や習慣の異なる人と、簡単に共有できる、とは思いにくい。
介護看護の労働は、量の側面だけがクローズアップされがちだが、介護や看護を受ける側にとっては、質の面も非常に大きな問題であり、外国人受け入れ論者は、量だけをみて、質を見ようとしない。自分は有料老人ホームで質の高いケアをうけるからいいじゃんね、とでも思っているのだろうか・・・。
この4つを考えた時、介護や看護労働は、人手不足だから、安価な外国人を受け入れたらいい、という論理は、介護や看護労働を非常に表面的に捉えて、有り体に言えば見下した視点である、という点をご理解頂けるだろうと思う。
ではどうすればいいか? その昔、内需拡大が叫ばれたが、僕は介護や看護労働の教育の質を(特に現任者も含めて)上げることと、賃金をある程度の額上げること、をすることが、単に若者の失業率の低下だけでなく、地方の若者離れや限界集落問題もクリアする特効薬なのではないか、と夢想している。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。