読み手に大きな痕跡を残す一冊

フィールドワークの本を読むのは好きだ。自分の出会えない人の内在的論理(=他者の合理性)をそのものとして描き、肉薄する本を読みすすめると、文字通り、自分自身のこれまでの既存の価値観が揺さぶられる。

そういう意味で、ここ最近最も揺さぶられたフィールドワークの記録が、これからご紹介する『家を失う人々』(マシュー・デスモンド著、栗木さつき訳、海と月社)である。出版社の概要には「ピューリッツァー賞など13の賞を受賞!貧困問題の解決に鋭く切り込む世界的名著。全米70万部 。欧州、アジア各国でも刊行!」と書かれているが、確かにその迫力が良くわかる。すぐれた訳も相まって、そのストーリーラインにあっという間に引き込まれていくのだ。

「『ただいま留守にしております。ご用がある方は1を押して、メッセージを残してください』。シェリーナは1を押して言った。『アーリーン、こんにちは、シェリーナよ。家賃を払ってもらいたいんだけど、お金、残ってる? この前320ドル立て替えてあげたでしょ。だから今月は家賃を少し多めに払うって約束したわよね。ほら、あのとき—」、そこまで言いかけたが、“姉さんの葬儀に参列する費用を貸したでしょ”とは口にしなかった。『ええと、とにかく、あわせて650ドル払ってね。電話、待ってるから』」(p100-101)

シェリーナはミルウォーキーの貧困地区に沢山の物件を所有して、夫婦で不動産業を営む大家。アーリーンは13才と6才の二人の息子と暮らすシングルマザーである。アーリーンはその後色々あって、シェリーナの物件を「強制退去」させられ、ホームレスのシェルターから様々な物件を探しては断れ、をしていく。シェリーナは、借家人が家賃滞納を繰り返すと、裁判所に強制退去の手続きをして、保安官を導入して借家人を追い出す。

それだけを書くと、アーリーンは完全な被害者で、シェリーナは鬼の守銭奴のように見える。一度の聞き取りだけなら、そういう現実に見える。でも、著者はミルウォーキーで一年フィールドワークをしてきたので、その背後にある描写が半端ない。それは、著者がまさに彼女に「弟子入り」して、その内在的論理を記録し続けてきたからだ。

「私はシェリーナとクエンティンのあとをくっついてまわった。そして二人が物件を買ったり、借家人の審査をしたり、下水管の詰まりを直したり、強制退去通知書を渡したりするのを観察した。そのなかで、アーリーン、ラマ—、それにヒンクストン家の人たちと出会った。さらに、アーリーンを通じてクリスタルと知り合い、クリスタルを通じてバネッタと知り合った。」(483−484)

シェリーナは大家として、生活保護やフードスタンプ受給者向けの不動産業を営んでいる。夫のクエンティンと二人で、物件購入から借家人の審査、物件の修理の手配や借家人とのいざこざ、そして強制退去にかかる裁判所の調停まで、全てこなしている。だからこそ、この貧困地区における住宅事情のからくりを最も知る一人なのだ。そのシェリーナにくっついてまわるだけでなく、そこで、アーリーンを始めとした借家人と仲良くなっていく。ゆえに、大家と借家人のそれぞれの視点で、どのような事実に対して感情的な相違点があるのか、を聞き取りで確かめながら、ストーリー展開をしていく。はっきり言って、下手な小説より胸が押しつぶされるような物語世界が展開されていくのは、この裏取りの濃厚さからである。

アーリーンを年内に強制退去させることが裁判所の調停で決まったクリスマスの日、シェリーナは追い出す相手のアーリーンに頼まれ、彼女を家まで送ってやった。その中で、こんな風に語りかける。

「『この寒さのなか、あなたと子どもたちを路上に放り出したいわけじゃないのよ』。シェリーナは雪でぬかるんだ通りをゆっくりと運転しながら言った。『あたしだったら、そんな真似はされたくないもの・・・家主のなかには人殺しをしたって、涼しい顔をしている連中もいる。でもあたしみたいに、ちゃんと調停人の面前に立つ家主もいる。調停人は自分の考えを述べる。それが裁判所ってものだけど、調停人だって、この制度に欠陥があるのはわかってる。とにかく家主が不利なのよ」(p167)

この語りの後に、注18と記載されていた。その注には、以下のように書かれている。

「ミルウォーキーで私が会った家主や管理人のほぼ全員が同意見だった。かれらは司法制度を厚かましい“プロの借家人”みたいなものだと見なしていた。不動産の所有者が不利になるようにつくられた“不公平な競技場”のようなものだ、と。あるいは、調停人はただ退去命令を発効すべきであるときにも、“さあ、これから交渉しよう”という態度をとりたがる、と。ただし、レニーは唯一の例外で、司法制度は『かつては借家人のためのものだった。いまは、もうそうじゃない』と私に語った。」(p550)

この本が唸らされるのは、裏取りの分厚さと注の読み応えでもある。「家主が不利」と語るシェリーナに対して、他の家主はどう思っているのか、統計的にはどうなのか、を他の家主や管理人の発言や、裁判所の記録やシステム分析から明らかにしていく。そして、この部分では「不公平な競技場」である、という家主の大方の見解を提示する。

だが著者自身は、本の最後に、家主や管理人とは逆の意味で、ミルウォーキーの司法システムが「不公平な競技場」になっていることを指摘する。

「裁判所はこれまで、強制退去に直面している人の大半が法廷に出頭しないという事実に対して、なんの対策も講じてこなかった。強制退去申請の種類が毎日山のように運ばれてくるなかで、法廷で働く人々は、その山をただ処理することだけを目標にしている。同情しようがしまいが関係ない。翌日になると、また山のような書類が待っている。事件はただ消化されるだけだ。憲法で保障されている法の適正な手続きは、たんなる手続きになりさがってしまったのだ。もしも借家人に弁護士がつくようになれば、この事態も一変するだろう。たしかに、この改革を実行するには費用がかかる。弁護士への報酬だけではない。公正な裁判を実現するためには、調停人、裁判官、法廷職員の数も増やす必要がある。強制退去を扱うすべての法廷が、充分な資金を提供されなければならない。だがそうすれば、裁判所はスタンプを押すだけのいわば強制退去組み立てラインではなく、本来の法廷の役割をはたせるようになるはずだ。
(略)
たとえば2005年から2008年にサウスブロンクスで実施されたプログラムでは、1300を越える家庭が法的支援を受けた結果、強制退去の裁判の86%で退去を回避できた。これは45万ドルほどの費用がかかったが、ニューヨーク市のシェルター運営費だけで見積もっても70万ドル以上節約出来た。強制退去は行政の財布にも重い負担となるのだ。」(p462−463)

現行システムでは、裁判所が強制退去を認めた記録は、個人情報なのだけれど、開示されている。すると、大家達は強制退去の経歴がある借家人には家を貸したがらない。犯罪歴と同じような烙印として機能している。しかもアメリカの場合、生活保護やフードスタンプのみで生きている困窮者の、その支給される保護費ギリギリに、家賃が設定されている。これではよほどの倹約をしないと、家賃が払えない。例えばアーリーンも、身内の葬儀で、子どもに着せていく服を買うためにお金が必要で、それを支払えば家賃が払えなかった。幸い、シェリーナは大家の中でも寛大なほうだったので、家賃の支払い猶予を認めた。でも、その猶予額が雪だるま式に貯まっていく中で、少しでも悪循環が続けば、家賃の支払いが滞りがちになる。民間不動産会社のオーナーであるシェリーナは、物件には次の借家人がつくことを知っている。だからこそ、未払いが続けば、すぐに裁判所に行き、強制退去の調停を行う。トレーラーハウスの管理人、レニーが言うように、「司法制度は『かつては借家人のためのものだった。いまは、もうそうじゃない』」。だからこそ、「裁判所はスタンプを押すだけのいわば強制退去組み立てライン」になり下がってしまっているのだ。

皆さんの中には、そもそも裁判所で強制退去に関する意見表明の機会があるのに、「強制退去に直面している人の大半が法廷に出頭しないという事実」に当惑する人もいるかもしれない。あるいは、そういう自堕落な・自暴自棄な人だから、仕方ないのではないか、と。それに対しても著者は、トレーラーハウスで生活保護で暮らしていたロレインを例にあげ、こんな風に述べている。

「ロレインのような人たちは、あまりにも複雑な制約のなかで生きているため、どれほどの善行を積めば、あるいは自制心を発揮すれば、貧困から抜けだせるのか想像できないでいる。過酷な困窮から比較的安定した貧困に這い上がるだけでも大きな壁が立ちはだかっているせいで、どんなに節約したって無理だと希望を失ってしまうのだ。すると、努力さえしなくなる。代わりに、つらい日常生活をささやかな喜びで味付けしようとする。ときにはハイになったり、酒を飲んだり、少しばかりギャンブルをしたり、テレビを手に入れたり・・・。フードスタンプでロブスターを買うことだってあるかもしれない。」(p332)

フードスタンプとは低所得者向けの食料品が買える金券である。税金で拠出された金券でロブスターを買うなんて!というのは、アメリカでも日本でも、事情を知らない第三者が目くじらを立てそうな出来事である。でも、その背景に、「過酷な困窮から比較的安定した貧困に這い上がるだけでも大きな壁が立ちはだかっているせいで、どんなに節約したって無理だと希望を失ってしまうのだ」という内在的論理があるとしたら、どうだろう。この本では、沢山のアルコール依存や薬物依存などの依存症当事者の語りも出てくる。彼ら彼女らは、最初から自堕落であった訳ではない。むしろ、「つらい日常生活をささやかな喜びで味付けしようとする」手段として、様々な依存に走るのであり、フードスタンプでロブスターを買うのである。逆に言えば、「過酷な困窮から比較的安定した貧困に這い上がる」余地があれば、そうはならないのだ。それは、この記述につけてあった注6でも指摘されている。

「貧困から抜け出すチャンスを得られたら、人はそれまでとは異なる行動をとるのだろうか? そうなると思える正当な理由がある。行動経済学者や心理学者の研究によれば、貧困はそれ自体が精神に重い負担をかける。すると、人は知性よりも衝動によって行動を起こしやすくなる。貧困家庭に経済が上向く手段が与えられると、資産をつくり、謝金を返す場合も多い。最近のある研究では、1000ドルを超える勤労所得控除を得た親の約40%が、そのなかからかなりの額を貯蓄したうえ、約85%が借金返済にあてることがわかった。還付金が得られるとわかれば、親は希望を抱き、貧困から抜け出すという目標に向けて貯蓄する。」(p537-538)

割高で質の低い民間住宅で、生活環境が悪化しつつ、強制退去に怯える極貧の人々。そんな過酷な貧困の当事者が、生活保護費やフードスタンプのわずかなお金から、麻薬やロブスターを買うのは、「貧困はそれ自体が精神に重い負担をかける。すると、人は知性よりも衝動によって行動を起こしやすくなる」という悪循環に陥っているからである。これは、アメリカでは日本と違い、生活保護費用のなかで住居費と生活費に区分がないため、保護費ギリギリまで家賃設定が出来てしまう、という背景もある。また、低所得者向けの公営住宅が極端に不足している事情もある。それだけでなく、自己責任大国において、「貧困家庭に経済が上向く手段」を政府や自治体が提供しないからだ。それさえすれば、全く状況が変わるというのに。著者もそのことに怒りを覚えている。

「いまの社会のシステムで利益を得ている人々(無関心な人々も含めて)は、住宅市場のことは市場そのものに調整させればいい、介入する必要などないと言うだろう。だが、それはたんなるおためごかしだ。家主が好きな金額で家賃を請求できる権利を認め、かれらを守っているのは政府だ。富裕層向けの集合住宅建設に助成金を出し、家賃相場を釣りあげ、貧しい人々のただでさえ少ない選択肢をさらに狭めているのも政府だ。借家人が家賃を支払えない場合、一時的または継続的に住む場所を提供しはするものの、家主の要請に応じて武装した保安官代理を派遣して借家人を強制的に退去させているのも政府だし、借金の取立代行業者や家主のために強制退去を記録に残して公表してるのも政府だ。」(p466)

おためごかしを辞書で引くと、「人のためにするように見せかけて、実は自分の利益をはかること」と書かれている。市場の自由を尊重することは、万人のためではなく、アメリカにおいては、貧乏人を搾取する自由になっている。そして、家主やどの代理人の権利保護に比べると、貧乏人の権利はほとんど護られていない。そのような不平等や格差の固定化につながるシステムを、制度的に政府が保証してしまっているのだ。それが、分厚いフィールドワークの記録から、本当に胸苦しくなるほど、読むものに迫ってくるのが本書の魅力でもあり、読み通すのが辛くなる、けど続きが気になる理由でもあるのだ。

長い書評ブログになったが、最後に、救いのある著者のコメントを置いておきたい。

「私がトレーラーパークやスラムで、人々の立ちなおる力、気骨、活気や輝きといったものを目にしてきた。はじけるような笑い声もたくさん耳にした。と同時に、多くの苦悩も目の当たりにした。フィールドワークが終わりを迎えるころ、日記にこう記した。『自分が汚く思える。こうした体験談や苦難の連続を、まるでトロフィーを獲得するかのようにかき集めているのだから』。フィールドワークの間にぬぐえなかった罪悪感は、現地を離れたあと、いっそう重くのしかかった。自分がペテン師で、裏切り者になったような気がしたし、匿名で告発されてもすぐに罪を認めそうな気分になっていた。大学の式典で私の目の前に置かれたワインのボトルやわが子にかかる月々の保育園の支払いを、ミルウォーキーの家賃や保釈金に置き換えずにはいられなかった。こうした仕事は胸のうちに大きな痕跡を残す。読者のみなさんにも、これが自分の人生だったら・・・と想像してもらいたい。」(p497)

ここまで長いブログを書いたのは、まさに一読者のぼくの胸にも、少なからぬ痕跡が残る一冊だったからだ。日本はここまで貧困者に追い打ちをかけない社会である。いまのところは。でも、アメリカの負の部分は、だいたい10〜20年後には日本にも重なっていく。発達障害や児童虐待の急増は、まさにアメリカから周回遅れで、同じようになっている。そして、民営化の圧力は、生活困窮者自立支援法などでも仄聞している。貧困ビジネスは、そもそも民間精神病院のやり方としてずっとあったし、訪問看護や訪問介護でも一部の劣悪な株式会社系の事業者による搾取など、こういう問題はずっとつきまとっている。

だからこそ、この本は福祉や社会問題、フィールドワークに興味のあるなら、一人でも多くの人に読んでもらいたい一冊なのだ。分厚いけど、胸が潰れそうな気分になるけど、でも圧倒的な迫力と痕跡をあなたにもたらすことは間違いない。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。