東畑開人さんの『ふつうの相談』(金剛出版)を読む。文体は平易だが、内容は手強い。東畑さんはいつも目の付け所というか、仮説が鋭いのが良いのだが、今回の仮説は心理職やソーシャルワークの相談以前の「ふつうの相談0」こそが「メンタルヘルスケアの資源である」(p76)という仮説である。
「ふつうの相談0とは何か。たとえば、人生の危機を友人に打ち明け、アドバイスをもらう。心身の不調を職場の上司に相談して、仕事量を調整してもらう。成績が伸び悩んでいるとき、塾の教師に喝を入れられる。離婚して打ちのめされているときに、古い友人たちが飲みに誘ってくれる。私たちの生活にはさまざまな苦難が生じ続けるが、それに呼応して周囲からさまざまなヘルプが差し出され、ケアがなされる。専門家が介入する以前に、素人同士で交わされているこれらのケア/治療こそが、ふつうの相談0である。」(p77)
え、それだったら、自分だってやっている・受けているよ! そう、そうなのである。東畑さんは、臨床心理士という相談の専門家でありながら、その専門家が囲い込めない広大な相談の領域を「ふつうの相談」の大草原と名付け、それにはどのような意味や価値があるのか、を問おうとしている。それがこの本の面白い点である。
そして、ユング派とかトラウマインフォームドケアとかソーシャルワークとか、それぞれの理論的枠組みに基づく相談を「学派知」、刑務所やデイケア、学校などそれぞれの現場で何とかする知を「現場知」と名付け、「学派知」と「現場知」を合わせたものを「専門知」としている。その外側に、ふつうの人のふつうの相談としての「世間知」があり、「世間知」と「専門知」が合わさって「臨床知」という総体をなす。
「世間知と学派知と現場知。いずれも賢いのだろうが、ときにバカになる。専門知は世間知らずになりやすく、世間知は傲慢になりやすい。学派知は暴走しやすく、現場知は閉塞しやすい。知とは複雑な現実をシンプリファイする装置なのだから、そこには単純化による暴力が潜んでいる。
だからこそ、心の臨床家にはこれら三つの知をメタに見る視点が求められている。」(p149)
たった数行で、それぞれの構造的課題を喝破する筆致は、お見事。どれも、それぞれの知を反転させた「問題点」である。
専門知は、詳しい構造を知るからこそ、微に入り際にいるため「世間知らず」になりやすい。世間知は、逆にそういう詳細なことを考慮に入れずに直感を大切にするがゆえに、「傲慢」になりやすい。学派知が「暴走しやすい」のは、それはその学派の理論的正しさに固執してしまうがゆえである。現場知が「閉塞しやすい」のは、そのローカルルールに固執してしまい、それ以外のローカルな現場との比較ができないときである。
そして、臨床の知のメタ性を忘れるな、と警鐘を鳴らす。
「かつて中村や河合は『臨床の知』概念を通じて当時支配的であった『科学の知』を批判し、相対化した。『臨床の知』はその後、臨床心理学の中では学派知となり、ドミナントなものになったが、そもそもは批判概念であったことを思い出す必要がある。同じように、『臨床知』とは批判概念であり、それは世間知と学派知と現場知を外から見る。いずれかに没入して原理主義になるのではなく、いずれ『も』重視して、バランスを取るための知。臨床的に物事を考えるとはそういうことだと思うし、そのとき私たちが営んでいるのがふつうの相談Aである。」(p150-151)
この際、彼はAを「あなた」「ありふれた」「あるある」のAだという。要は日常的な営みとしての相談は、こういうバランス感覚を大切にして成り立つものであり、それは原理主義への批判を含んでいる、というのだ。「傲慢」にも「暴走」にも「閉塞」にもならないために、「いずれ『も』重視して、バランスを取るための知」としての「臨床知」がある、という。これはよくわかることである。
大学で学生の「ふつうの相談」を受け続けて、15年以上たつ。あるいは、福祉現場や行政の人から、「どうしたらよいんでしょうか?」とよくわからない「ふつうの相談」が、あれこれ持ち込まれる。福祉社会学や社会福祉学の研究をしてきて、多少なりとも「学派知」は囓っている。また、ゼミなどで話をきき続けると、「現場知」もほどほどには蓄積されてくる。そうはいっても、僕自身はソーシャルワーカーやカウンセラーとして働いたことはないので、素人の直感に頼ると言う意味では「世間知」を駆使してきた。そして、今まで、「学派知」も「現場知」もぱっとせず、「世間知」をごまかし的に使ってきた自分自身への疚しさがあった。でも、「世間知と学派知と現場知を外から見る」「バランス」を重視した「臨床知」だったとすると、もしかしたら、まあまあできているかもしれないな、と思い始めている。ただ、「傲慢」になってはいけないので、「現場知」や「専門知」をしっかりグリップし続けないと危ないのだけれど。
そういう意味で、自分自身の「ふつうの相談A」を見つめ直す上で、この本は良いリフレクションをもたらす一冊だった。
そして、もう一カ所、深く共感した部分を引用しておきたい。
この本の「ネタ本」の一つである中井久夫の『治療文化論』には、心の不調として「普遍症候群」「文化依存症候群」「個人症候群」の三つがあるという。「普遍症候群」はDSMやICDなど統計学的なパターンで分析でき、文化を越えて普遍的な病である。「文化依存症候群」は「狐憑き」や沖縄のユタとカミダーリなどのように、ある文化に依拠した症状である。そして、「個人症候群」はその人の個人の「創造の病」にもなり得る、個人的な症状である。そして、彼の「出版精神病」が超絶面白かった!
「本を書き終わり、それが出版されるまでの数ヶ月、私は誇大妄想と被害妄想を行き来する。本が激賞され、爆発的に売れるのではないかと創造して悦に浸る一方、『つまらない』とこき下ろされたり、予期せぬ不備がみつかって社会的批判を浴びたりするのではないかとおびえる。乱高下による興奮状態は、出版後には抑うつに取って代わられる。いずれの空想も実現せず、本はひっそりと出版され、特に大きな話題になることもないままに、ひっそりと書店の店頭から姿を消していく。この喪失体験は大きくて、しばらくの間、活動は停滞し、気分が塞ぐ。私の場合、この抑うつに耐えるためのコーピングが原稿をコツコツ書くことだ。関心を外的世界から内的世界へと引き戻すのである。この期間が数ヶ月、一年と続くと、原稿が溜まっていき、一冊の本になる。ここまでくると、再び『出版前空想』がやってくる。このサイクルが私の持病である。」(p93)
東畑さんのような売れっ子作家でもそうなのか!とめっちゃびっくりした、だけでなく、私自身の「持病」がこんなにわかりやすく書かれていて、笑ってしまった。そう、私も「出版前空想」と「出版後うつ」からなる「出版精神病」の患者のひとりである。
「私は本を書かざるをえない。私は本を病んでいる。それは個人的な意味に満ちあふれた病なのである。」(p93)
私自身がここまで病に罹患しているかはわからないけれど、このブログも含めて、私が原稿を書き続けているのは、私自身の個人的な意味に満ちあふれているから、である。
若き友人の青木真兵さんは、最近こんな風に書いてくれた。
子育てをしながら、見えてくる己の愚かさや至らなさ。そういった弱い部分を、見ないようにしてもいいのだけれど、気づいたら書きたくなってしまう。私は本を書かざるをえない。それは、僕自身が「何が見えていないか、何に気づいていなかったか」という自分自身の「盲点」に気づいてしまったら、それをこれまで学んだ言語を駆使し、新しい理論を学び直しながら、とにかく言葉にしたいからだ。そういう「創造の病」にかかっている。そんな僕自身の内面をも、東畑さんは掬い取ってくれたようで、読んでいて、僕自身がなんだか自己治癒されるような本だった。