四半世紀かけて読めた本

本を読むときに、「亀の甲より年の功」が発揮されることもある。若い頃は全く歯が立たずに投げ出した本でも、一定期間、様々なジャンルの本を乱読したり、人生経験を積み重ねる中で、やっと「いま・ここ」だから読み通せる本もある。

昨年に増補新版が出たからと、来週の読書会で選んだジュディス・ハーマンの『心的外傷と回復』(みすず書房)もまさにそんな本だった。「今なら、読めるで!」と。

なぜ、昔読めなかったこの本が、今読めるようになったのか。それは、この間、宮地尚子さんや信田さよ子さんなど、トラウマや家族内での虐待問題を正面から取り上げてきた著者達の文章を読み続けてきたから、というのが一番大きな理由である。でも、それだけではなく、自分の認識枠組みを揺さぶられることにも、だいぶ慣れてきたから、というのもありそうだ。それは、フロイトが直視できなかったことでもある。

「フロイトの跡形も残さない取り消しぶりは、フロイトが直面していた問題の極端さを考えてみると理解出来るかもしれない。自説を固守するならば、女性と幼小児への性的圧政の深さを認めないわけにはゆかなかったであろう。この認識を支持し知的に裏付けるものがありうるとすれば、それはまだ誕生途中のフェミニズム運動の他にはなく、それはフロイトの胸中にあった家父長的価値をゆるがさずにはすまなかった。この種の運動の同盟者となることはフロイトのような政治的信条と学者的出世願望を持つ男にとっては考えられなかった。激しく反対するあまり、フロイトは心理的外傷の研究と女性のどちらからも手を引いてしまった。彼はさらに、女性の劣格性と虚言性とを理論の骨子とする人間の発達理論を展開するに至った。反フェミニズム的な政治的空気の中でこの理論は栄え、枝を茂らせた。」(p26)

初期のフロイトが女性のヒステリーを研究する中で、ヒステリーを引き起こす女性が、家庭内で性的虐待を受けていることを発見してしまった。しかも「パリの無産者層だけならともかく、目下繁栄中のウィーンのご立派なブルジョワの家庭においても蔓延している」(p18)ことに気づいてしまった。これは女性のヒステリーの背景に心的外傷がある、という大発見であるが、それを公言することは、「フロイトの胸中にあった家父長的価値をゆるがさずにはすまなかった」。また、「ウィーンのご立派なブルジョワの家庭」の家長=男性の富裕層・知識階級層に支持されることが、自らの学者的出世願望を成就するのに必要不可欠だった。だからこそ、「フロイトは心理的外傷の研究と女性のどちらからも手を引いてしまった。彼はさらに、女性の劣格性と虚言性とを理論の骨子とする人間の発達理論を展開するに至った」のである。

これはフロイトだけの問題ではないと思う。ぼく自身も、これまで虐待のない家庭で育ってきた為、家庭内での虐待がこんなに沢山あることを、若い頃は受け入れたくなかった。それはアメリカの問題で、日本には関係ないと思い込んでいた。ただ、信田さよ子さんの『アダルトチルドレン』など、色々な本を読みながら、実際に親に支配されてきた人々の声と出会う中で、「女性と幼小児への性的圧政の深さ」は残念ながら日本社会の中で語られざる事実である事を受け止められるようになってきた。親が子どもを支配・圧制している、という、家族幻想を打ち砕く事実をそのものとして受け入れる認識枠組みを自分の中でも持てるようになると、家父長的価値以外の世界=フェミニズム的視点を持って、現実を受け止められるようになる。たぶん、以前のぼくがこの本を読めなかった背景には、このような認識枠組みの狭さがあったのだと、改めて思う。

そのような、男性の認識枠組みの構造的問題は、心的外傷の界隈に沢山ある。

「ポルノグラフィーの核心のパワー・ダイナミックスは他者に対する完全な支配である。この権力幻想が身の毛のよだつほど正常な男性たち何百万の胸にエロティックにアピールした結果が一大産業の育成である。この産業においては女性と児童の虐待が行われている。決して幻想の中ではなくて現実に・・・。」(p111)

ポルノに心を寄せられる男性には「権力幻想」がある。これを男性の一人として受け入れることは、なかなかしんどいことである。でも、現実に多くのポルノにおいて女性は男性を満足させる道具として描かれている。そしてそれは明らかに男性が女性を支配し、時には加害している、という構図がある。その「内なる権力幻想」を、そのものとして認めるのに、ぼく自身は時間がかかった。それは、フェミニズムを学んだ後、女性視点のポルノ映画を撮るようになったエリカ・ラストなどの存在が、そういう男性中心主義の狭隘さを指摘している記事から学んだことでもある。

さらに、7年前から子育てを始めて、親の視点でこの本を読むと、痛々しいほど身につまされて入ってくる部分がある。

「被虐待児の心理的適応の基本的目的はすべて、両親達がそれこそ毎日毎日、その悪意を、たよりなさを、冷淡さを、無関心をはっきりとみせつけているのに、それでもなお、それをみながらも、両親への一次的アタッチメントを保つというところに置かれる。この目的を果たすために子どもは実にさまざまな心理的防衛手段に訴える。この防衛の魔力によって、虐待は意識と記憶から壁で隔てられて実際にはそういうことはなかったということになるか、あるいは極小化され、合理化され、弁明のつくものとされて、何が起ころうともそれは虐待ではないということになる。耐えがたい現実から事実においては逃れることもこれを変化させることもできないので、子どもは現実を心の中で変えるのである。被虐待児は、虐待は実はなかったと思い込む方が好きなのである。」(p151)

親に虐待されているけど、「虐待は実はなかったと思い込」みたい。だからこそ、「虐待されるのだから、自分は悪い子だと思い込む」とか、「いまは虐待されているけど、よい子にしたら虐待されないはずだと思い込む」などの様々な心理的防衛手段に訴えかけられ、「耐えがたい現実」を「心の中で変える」のである。

これは、先週岡山で監督ともお話させて頂いた、映画『プリズン・サークル』の話を思い出す。あの映画で出てくる受刑者達の多くが、小さい頃、虐待されてきた。心的外傷を持ってきた。でも、子ども時代に適切な支援がなされず、自分一人でそこに立ち向かうために、嘘をついたり、あるいはそれをなかったことにしたり、という心理的防衛をしていった。そして、その事実と向き合えない解離状態が極大化していくなかで、犯罪に至るということも、映画をみながら感じていた。

「児童期虐待の被害経験者に与えられる特に有害な病名が三つある。身体化障害、境界性人格障害、多重人格障害である。この三つの診断名はいずれもかつては現在廃止された病名『ヒステリー』の下位病名であった。患者は通常女性であるが、これらの診断をもらうと、ケア提供者側が強烈な反応を起こす。彼女らの話すことは信憑性が怪しいとされる。人をふりまわすとか仮病を使うと指摘される。彼女らを対象として、しばしば感情的で偏見にとらわれた議論が行われる。時にはあっさりと嫌な奴だとされる。
この三つの診断名はおとしめの意味合いを背負っている。もっともひどいのが境界性人格障害という診断名である。この用語は精神保健関係者によってよく使われるが、それは高級な学問の装いの下で人を中傷する言葉にすぎない。」(p183)

「信憑性が怪しい」「人を振り回す」「仮病を使う」・・・こういう人に出会ったこともあるし、実際振り回されたこともある。あのとき、ぼくはその人を「嘘つき」だと思っていた。でも、もしそれが、心的外傷ゆえの心理的防衛がもたらしたものだと知っていたら、ずいぶんその人との出会いは変わっていたと思う。

ぼく自身は、2017年にカナダに出かけて、反抑圧的ソーシャルワークを学ぶ中で、トラウマインフォームドケアと出会った。これは、こんな風に言語化してみた。

「トラウマインフォームドとは、トラウマがあるという前提で物事を見ていく・捉え直す視点かもしれない、ということである。だらしない・ややこしい・「問題行動」のある・面倒くさい・・・と片付けられてきた人々は、「トラウマがあるという前提」で捉え直すと、様々な解離や退避行動を取らざるを得なかったことが、見えてくる。」

他者を振り回す、嘘をつく、言うことをコロコロ変える・・・人々は、周囲との関係性がうまくいかない。それを「ろくでもない人」「困ったちゃん」とラベルを貼っても、何も理解出来ない。そうではなくて、心的外傷=トラウマを深く刻み込まれ、それゆえ、そのトラウマを回避するための行動を必死になって取るうちに、対人関係がどんどん破綻し、破壊的になっていく人、と捉えると、ずいぶん違って見える。振り回される方はたまったもんではないが、でも、一見すると極端な加害性に見える背景に、その人の被害性とか、そこからの回避行動であると仮説を立てると、「他者の合理性」がよりクリアに見えてくるのだ。

「結局のところ、心的外傷を癒やすためには身体と脳と心を一つに統合することが必要なのだという、基本に立ち戻ることになる。まず安全な場を持つこと、そして思い出すこと、服喪追悼すること、そしてコミュニティにもう一度つながることである。人間の残酷さをぶつけられた衝撃が癒やされるのは、別の誰かの献身と優しさによって関係の結びつきを取り戻したときだろう。回復の土台石となるのは、心理療法と社会的支援である。この原理は、どんな治療技法によっても、どんな薬物によっても変わることはない。」(p405)

解離や虚言などは、圧倒的な心的外傷体験をなんとか乗り越えるための、身体化された反応である。ということは、そのような状況を越えるためには、バラバラになった「身体と脳と心を一つに統合することが必要」なのだ。それは、何らかの薬物を投与すれば完治する性質のものではない。「まず安全な場を持つこと、そして思い出すこと、服喪追悼すること、そしてコミュニティにもう一度つながること」という四つのプロセスが必要不可欠なのだ。これは、岡知史さんがセルフヘルプグループの特性を「わかちあい」「ときはなち」「ひとりだち」の三つだと喝破した点とも通底している。同じ経験をしたとか、その経験を否定せずに安心安全な場ではないと、「わかちあい」は始まらない。そして、その場で封印・抑圧していた体験を思い出すのは、ある種の「ときはなち」のプロセスだ。そうやって記憶を語り、語り直すなかで、その経験に引きずられた人生から「ひとりだち」できるし、それが「服喪追悼からコミュニティに再度つながるプロセス」でもある。

そういう意味で、この領域の課題を四半世紀くらい学び続けてきたからこそ、やっと自分の腹に収まって、この本が理解できたのかも知れない。つくづく、僕は情報処理人間のようにサクサク理解できないよなぁ、と思う。でも、そうやって腑に落ちる言葉を時間をかけて一つずつ獲得していくプロセスの中で、「急がば回れ」で見えてくる現実もあるような気がしている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。