実存的苦悩と客観性

先週、札幌で向谷地さんにインタビューした時のことは、前回のブログで書いた。その際、向谷地さんがぼそっと仰ったことが、ひっかかっている。

「精神障害を抱えて生きる人の実存に向き合わないと」

精神障害を抱える人は、生きる苦悩が最大化した人でもある。ということは本人にとっては、生きる苦悩という実存上の課題が極まった状態の人でもある、と言える。その時に、エビデンスベースで標準化・規格化された「一般的な答え」は、部分的には役に立つかもしれないが、本質的な意味で、本人の実存的課題の解決策につながらないのではないか、と感じていた。

そのことを、別のルートで指摘している一冊に出会った。

「性格を把握することは、課題解決の最初の一歩でしかない。知ったうえで、『誰と誰を業務で組み合わせようか?』『どう仕事を割り振ろうか?』といった現場の調整がすべてなんだ。」(勅使河原真衣『「能力」の生きづらさをほぐす』どく社、p180)

著者の勅使河原さんは、コンサル会社で能力開発業務に従事した後、今は独立して組織開発の仕事に従事し、2人の子どもを育てている。ただ、2020年に授乳中の違和感から乳がんが発覚し、あちこちに転移している。そんな闘病中の彼女は、子どもたちにメッセージを残したいと、あえて「自分が死んだ後」の2037年に、成人した子どもたちと対話形式で、この社会に蔓延する能力主義について解きほぐしていく、という体裁を取っている。

この本の中で、組織開発に従事する経験に基づき、勅使河原さんは、社員の性格や能力を分析しただけでは、業績が向上しない、と語る。入試の偏差値はペーパーテストの情報処理「能力」によって決まるが、そもそもそれは個人の表層的な知識や経験、スキルである。勅使河原さんによれば、その下に見え隠れしているのは、意識や意欲、心構えや価値観などの「マインドセット」だと言う。さらに深層の、普段は見えない部分には「性格特性や動機」などの感情の素が隠されており、これは「若年期に固まり安定、変容はかなり難しい」としている(p175)。

そして、この「若年期に固まり安定、変容はかなり難しい」「性格特性・動機」こそが、本人の生きる苦悩をもたらす源泉であり、実存上の課題だ、と架橋すると、話の見通しがよくなる。病気や失業、離婚や親族トラブルなど、様々な「悪循環」に襲われたとき、情報処理能力などの知識や経験、スキルではなんともならなくなる。そういう苦境の時こそ、その人のマインドセットが問われるし、それは性格特性や実存的課題と直結している。それは、会社の業績悪化などでも同じで、そのような「ピンチ」の時こそ、表層的なスキルでは対応出来ず、本人の人間性が問われる、というのだ。

だからこそ、性格特性を心理テストで計れば、それで組織開発が出来るわけではない、という勅使河原さんの話もよくわかる。「性格を把握することは、課題解決の最初の一歩でしかない。知ったうえで、『誰と誰を業務で組み合わせようか?』『どう仕事を割り振ろうか?』といった現場の調整がすべてなんだ。」というのは、本人の性格特性を活かしつつ、それが業績や欲しい成果と結びつくためにどうしたらよいのか、を考えるプロセスなのだという。こういう泥臭い「現場の調整」をしないかぎり、組織の苦境は越えられないのだ、と。

なぜ勅使河原さんは、こういうことを書籍で訴えるようになったのは、彼女自身が乳がんになって、以下の視点をもつようになったからだった。

「私を静かに追い詰めていたのは、一元的な『正しさ』だったのだと。『能力』の呪いもそういうこと。多様なはずの人間に対して、画一的なあり方を社会が要請する。これに辟易してきたんだ。」(p245)

「能力が高いほうがよい」「お金持ちなほうがよい」というのは、「一元的な『正しさ』」の最たるものである。確かに、能力やお金は、あるにこしたことはない。でも、そこ「だけ」が正しさの価値基準だとすると、「多様なはずの人間に対して、画一的なあり方を社会が要請する」ことになる。社会に迷惑をかけずにそつなくこなす「世間にとって都合のよい子」だけが社会的に認められ、その範囲でしか自己表現してはならない、とすると、あまりに世の中はしんどいし、苦痛が多い。それは、私自身の実存上の課題が切り捨てられ、標準化・規格化された「一元的な『正しさ』」の範囲内で査定・評価・批判される枠組みへのしんどさ、である。こないだ出した『ケアしケアされ、生きていく』の中では、「他人に迷惑をかけるな憲法」に呪縛されている、と表現したが、こういう「憲法」は、個人のパフォーマンスの最大化を抑圧する最大の呪縛装置だと思う。

そして、乳がんになった際、エビデンスに基づいて仕事をしていた勅使河原さんは、気がつけばスピリチュアル系整体師にハマって沢山つぎ込んでいた、という。なぜ、高学歴で情報分析能力にも長けた彼女が、医療機関の客観的情報に満足せず、アヤシい新興宗教のような内容にはまり込んでいったのか。彼女はこんな風に振りかえっている。

「『私』という個別具体へのソリューションを一般論から、ポンポンと繰り出すのではなく、まず『私』についての一次情報をがっつり受け取ってくれた。結果、『これだけ私の話をさせてもらえたんだから、この人(整体師)は私のことを最もよく理解した人として適切なソリューションを実行してくれるだろう』—そんな信頼感が、巡り巡って醸成された。ソリューションは何でも良かったのかも」
「窮地にある個人が『私』に特化した情報がほしいときに、医療などの科学がエビデンスを両立させながらその願いに応えることは、以下のステップを踏めば、不可能ではなさそうだ。
まずは、相手の話をとにかく聞くこと。聞くことこそが、相手にしてみれば欲しくてたまらなかった『私』に関する情報を『教えてもらった』も同然の信頼を紡ぎ出す。そのうえでなら、どこかの誰かの話である客観性、エビデンスについても、安心して聞く耳が持てる。そういうことかもね。」(p232-233)

乳がんや精神疾患は、風邪や骨折とレベルが違う。それは、それまでの生き方を継続できないかもしれない、という実存上の課題を突きつける疾患だからだ。確かに、治療は可能である。でも、心身の痛みや苦しさが最大化し、さらに言えばこれまでの働き方や価値前提を変えないと、予後が良くならない可能性もある。つまり、表層的な「知識・経験・スキル」ではなんともならず、「意識や意欲、心構えや価値観」のような「マインドセット」の変更だけでなく、個人の「性格特性や動機」をも深く揺さぶられるような、生きる苦悩が最大化した疾患である。

つまり、自分自身の実存が揺さぶられ、苦しんでいる。

その時に、一般論や客観的なデータをいきなり伝えられても、相手の心には届かない。なぜなら、「なぜ他ならぬ私が、よりによっていま・ここで、乳がんや精神疾患になってしまったのか?」という実存上の問いには、客観的なデータは全く答えてくれないからだ。そのしんどさや苦しみ、モヤモヤといった「『私』についての一次情報をがっつり受け取ってくれた」かどうか、は、実存が揺さぶられている人には、ものすごく大きな出来事である。

『これだけ私の話をさせてもらえたんだから、この人(整体師)は私のことを最もよく理解した人として適切なソリューションを実行してくれるだろう』

この勅使河原さんの内的合理性は、窮地に追い込まれた人に共通しているのではないだろうか。実存が揺さぶられ、しんどくて苦しくて、理解してもらえない、聴いてもらえない苦悩やモヤモヤを、ここまで共感して聞いてくれた。アドバイスや助言は横におき、私のことを親身になって理解しようとしてくれた。それだけ話を聞いてくれ、私のことを理解してくれる人だから、信用出来るし、その信用出来る人のアドバイスなら聞いてみたい。

この部分は、オープンダイアローグのプロセスとうり二つなのだ。ただ、この後に「水子の祟り(夫婦関係の悪さ、風水・・・○○)のせいだ」と即答し、「だから御札(壺、除霊・・・○○)をしたらよい」と断言すると、スピリチュアル系になる。一方、オープンダイアローグでは、その生きる苦悩をじっくり伺った上で、どうしたらよいか、をチームでモヤモヤ考え合うプロセスなので、断言も即答もしない。でも、一緒にモヤモヤ考え合う、というwith-nessは持ち続ける。そんな違いがある。

そして、実存上の苦しさと医学的な客観性はどのように両立可能なのか。実際、スピリチュアル系に行きかけた経験をもとに、勅使河原さんは明快に次の様に語る。

「まずは、相手の話をとにかく聞くこと。聞くことこそが、相手にしてみれば欲しくてたまらなかった『私』に関する情報を『教えてもらった』も同然の信頼を紡ぎ出す。そのうえでなら、どこかの誰かの話である客観性、エビデンスについても、安心して聞く耳が持てる。」

「相手の話を聞くこと」。それは一見すると、何も情報提供をしていないように、見えるかもしれない。でも、他者に私の実存上の苦しみに関心を持ってもらい、素直に尋ねられること。それは相手の側からすると、実存上の苦しみを、はじめてくらいのタイミングで、言語化するチャンスでもある。自分一人で考えていたら、グルグル同じ所に陥って袋小路に陥っていたことも、興味を持ってくれた相手の問いに答える形でお話しているうちに、整理されることがある。そのとき、聞き手はアドバイスや批判、査定は横に置き、謙虚さと好奇心をもって理解しようと相手の実存上の苦悩を聞き出す伴奏者になっていくと、話す側からすれば、それだけで、実存上の苦悩が他者にも承認された、わかってもらえた喜びがある。そのような喜びは、「欲しくてたまらなかった『私』に関する情報を『教えてもらった』も同然の信頼を紡ぎ出す」のだ。

信頼関係の基本は、情報提供の前に、Just Listen! ただただ、話を聞くことにあるのだ。

「そのうえでなら、どこかの誰かの話である客観性、エビデンスについても、安心して聞く耳が持てる。」

その前提があってはじめて、自分以外の「似たような症状・状態」に陥った「どこかの誰かの話である客観性、エビデンスについても、安心して聞く耳が持てる」。逆に言えば、「安心して聞く耳が持てる」信頼関係を構築することなく、客観性やエビデンスの話をまくし立てても、実存上の苦悩に支配されている本人の耳には全く入ってこないし、下手をしたら不信感を募らせるばかりだ、というのだ。

客観性やエビデンスが無駄、なのではない。そうではなくて、実存上の苦悩を理解することなく客観性やエビデンスを振り回しても、本人に伝わらない、という意味で、客観性やエビデンスが無効化されかねないのである。

ここまで書いてきた話は、大学で出会う学生たちにも当てはまる。彼女ら彼らは、客観性やエビデンスに振り回され、雁字搦めになり、苦しんでいる。そんな学生たちの話を、ゼミや面談でゆっくり伺っていると、泣き始める学生もしばしばいる。それは、自分の実存上の苦悩が聞かれていなかったことの表れでもある。これは、学生だけに限らない。福祉現場で働く人でも、じっくり話をうかがっているうちに、生きる苦悩の話をされる場合もある。こちらはアドバイスも何も出来ないので、ただただ聞いているのだが、聞いている間に、自分で答えや方向性を見いだし、すっきりする人もいる。

もちろん、僕も多少なりとも何らかの知識や専門性という客観性やエビデンスを持っている。でも、それを振りかざす前に、まずはじっくりトコトン相手のストーリーを伺うことが大切なのだ。興味や関心をもってその話を伺っていると、話を聞いているうちに、方向性が見えてくることがある。それは、話を聞いている私と、話している相手が、共に作り出していく方向性だったりする。それは本人にとって、自分事だし、納得しやすい。客観性やエビデンスが「説得」材料になりやすいが、実存的課題に直結していると「納得」を生み出しやすい。その両者をどううまくブレンドさせるのか、が課題であると思った。

だからこそ、冒頭の向谷地さんの発言に戻るのだ。

「精神障害を抱えて生きる人の実存に向き合わないと」

精神障害者に関わる医療や福祉現場の支援者が、どれだけ相手の実存に寄り添えているか。それ以前に、支援者が自分自身の実存的課題にどれほど向き合えているのか。それこそ、本質的な課題だと思った。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。