「分かる」を手放し、蔵書を開く

青木海青子さんから新刊『不完全な司書』(晶文社)をお送り頂く。彼女の書く文章は、決してグイグイと主張が激しい内容ではないし、大所高所を論じることもない。その逆に、ご自身の感情や感性を、丁寧に描いていく。ただ、自分が感じた違和感や思いを、静々と積み重ねて書く中で、いつの間にか圧倒的な迫力を持って、読む人に迫ってくる。そんな不思議な文体である。

彼女が精神科の閉鎖病棟に入院した際、本の検閲や荷物の検査をされた。そのことを後で思い出した時、こんな風に感じたという。

「私は目の前に管理する側によって線が引かれた時、何もしませんでした。むしろそれを積極的に受け入れるような気の持ちようすら示していました。そのことが暴力性を是認し、暴力性を内包した場を強化したり、一緒に構築してしまうような行為だったのだと、後の読書会の時に知らされたような気がしました。本を没収されたことにもっと反発したり、悲しんだり起こったり、きちんと反応すべきだったと。私がそのことを黙って物分かり良さそうに飲み込んだことで、その暴力性が後から来る他の誰かにも向かうのではないかというところまで、想像を巡らせるべきだったと後悔しました。」(p147)

精神科の閉鎖病棟では、自傷他害の防止、あるいは治療上の必要という理由で、手荷物の持ち込みが制限されている。海青子さんはその時には、そういうものだ、と思い、「むしろそれを積極的に受け入れるような気の持ちようすら示してい」た。ご自身にとって大切な本を没収された時も、「そのことを黙って物分かり良さそうに飲み込んだ」。ただ、退院した後、読書会でハンセン病療養所に暮らした詩人による小説を読んだ際、似たようなエピソードに遭遇した時に、ある人が「これってものすごい暴力性を内包するエピソードですよね」と言われて、げんこつを喰らったような気になった。

彼女がそれほど衝撃を受けたのは、「本を没収されたことにもっと反発したり、悲しんだり起こったり、きちんと反応すべきだった」ことに、この言葉に出会うまで、気づけなかったからだ。自分の大切にしていたものを、「本は先生の許可が降りてから」と取り上げられる。いくら治療上の必要とは言え、自分にとって大切なものを、他者が勝手に必要かどうかを判断し、その判断や意思決定権を奪われる。そのことは本来ならば屈辱的で腹立たしいはずなのに、正常性バイアスが働き、「そういうものだ」と自分自身を納得させてしまった。それは、自分自身に向けられた暴力を、鵜呑みに受け入れてしまったこと、そしてそれが暴力だったと気づけなかったことだ、と後々に気づくのだ。

恐らく、彼女の荷物をチェックして「預かっておきますね」と伝えた看護師も、日常業務として、入院時のルーティンとして、「そういうものだ」と思って行っていた、という意味では、海青子さんと変わらない。でも、没収する側も、没収される側も、「そういうものだ」と思い込んでいる、その「そういうものだ」の中に、「そのことが暴力性を是認し、暴力性を内包した場を強化したり、一緒に構築してしまうような行為だった」という気づきや思考を奪う、「暴力性」を消極的に肯定する思考停止の論理が内包されていたのだ。そのことに、海青子さんは後々気づき、後悔したのだ。

このような内面への観察力の鋭さは、彼女の子ども時代から培われてきた、という。

「本と出会った頃の私、子どもだった私は、病院で出会った人達や入院している自分自身と同じで、『他の場所へは行けない、隔絶した世界にいる』という感覚を強く抱いていました。うまく意思の疎通がはかれない家庭や学校の中で、それでもここで何とかやっていかなければならない、という閉塞感を感じていました。だからこそ、窓外の景色に強く憧れ、『桜島』の村上兵曹のように『何故此のやうに風景が活き活きしているのであろう』と感じ、そこに見える木々の枝葉一つ一つを必死に写し取ったのだろう、と、入院時の自分と、本を読み始めた頃の自分を重ね合わせて思います。そしてそのことが、当時の私を救ってくれたとも感じます。」(p159)

『他の場所へは行けない、隔絶した世界にいる』という感覚を、海青子さんは子どもの頃も、入院していたときも、感じていたという。そして、彼女は本を読みながら、その本に描かれていた、「窓外の景色に強く憧れ」ていた。この憧れは、現実への絶望とセットになった時、より強化される。そして、僕はこれほどの隔絶や絶望を感じたことは ないが、似たようなつらさを思い出した。それは、鉄橋と共に。

何度かブログで書いているが、小学校5,6年生の頃、クラス内で激しいいじめが蔓延して、学級崩壊状態だった。あのとき、人生で一度だけ、11階の自宅マンションの欄干から下を眺め、「もうちょっと身体を乗り出せば、間違いなく死ねるんだな」と思っていた。でも、そうする勇気もなく、煮詰まっていた。その時、少年ひろしは、本に救いが求められなかった。本を通じて「窓外の景色」に出会えることを、理解していなかった。だからこそ、チャリに乗って、しょっちゅう近所の河川敷の鉄橋まで出かけた。電車オタクだったこともあり、通り過ぎる新幹線や特急列車を見るたび、「電車に乗って、どこか遠くに行きたいな」と思い続けていた。

この本の記述を読むまで全く忘れていたのだが、あのときの10才前後の僕は間違いなく、「窓外の景色に強く憧れ」ていた。それは、『他の場所へは行けない、隔絶した世界にいる』という感覚に近いものだった。そして、そういう感覚を持っていた、ということを、海青子さんの文章を読んで、ありありと思い出したのだ。僕は、鉄橋でぼんやり電車を眺めたことを、スケッチブックにも日記にも書き残していない。でも、今強烈に思い出すのは、「窓外の景色に強く憧れ」ていたからであり、「風景が活き活きしている」のを心に刻み込んでいたから、とも、海青子さんの文章から気づかされた。

この本は共感することだらけで、赤線引きまくり、なのだが、印象的な箇所をもうちょっとご紹介したい。

「私自身、精神障害で倒れて退職した頃は息をすることも辛く感じられ、生きるか死ぬかを自らに迫りそうになったことがありました。ですが大怪我の後には『分からない』ことに身を委ね、今ここの自分で決めようとしないことで、一日一日を生き延びてきたんだと思いました。そういう意味で、私にとって『分からない』ことが希望になっていたのです。ですから、『分からない』という言葉でコミュニケーションを断とうとする人を見ると気がかりに感じてしまいます。『分からない』ことを不快として遠ざけ、今ここの自分で分かることだけに囲まれていると、そこに隠された希望に気づかず、いつか行き詰まってしまうのではないかと思うのです。」(p188-189)

「生きるか死ぬかを自らに迫りそうになった」というのは、言葉を換えると、生き死にを自分で決断する、という意味で、その判断を自分で了解して行う、自分はそのことを「分かっている」ということにもなる。でも、彼女は大怪我で入院した後、「『分からない』ことに身を委ね、今ここの自分で決めようとしないことで、一日一日を生き延びてきたんだ」と視点が変わった。それまで「分かる」ことに必死になってしがみつき、自分を追い込み、世間が求める「ちゃんとする」「しっかりする」の基準を分かっている自分は、それをちゃんと真面目に護らなければならない、と自分を追い込んだ。それで、仕事が出来ないくらいなら、「生きるか死ぬかを自らに迫りそうになった」くらい、「分かる」に拘っていた。

でも、いったん「分からない」に身を委ねると、「『分からない』ことが希望になっていた」という。自己責任論を強く内面化すると、「分かる」への強迫観念が強まるが、それを一旦脇に置き、どうなるか「分からないこと」に身を委ねてみよう、今日や明日はどうなるかわからないけど、「一日一日を生き延び」てみようと思うと、「分かる」の強迫観念の下に隠されていた「希望」が見えてきたのだ。

「『分からない』ことを不快として遠ざけ、今ここの自分で分かることだけに囲まれている」と、自分の理解出来る内容だけに囲まれているから、表面的には心地よく思える。でも、ちょっと引いてみれば誰にもわかるが、この社会は「分からない」ことだらけだ。「今ここの自分で分かること」は、ほんの一部分にしか過ぎない。にも関わらず、それに拘ってしまうと、それ以外の世界の複雑性を切り落として、自分に都合良く理解しようとしてしまう。それはエコーチェンバーのように、「分かる」だけを強迫反復していき、ますます「分からない」世界とは敵対的になってしまうのだ。

さらに言うと、「分からない」を受け入れる、とは自分の信念体系でできあがった「正しさ」を脇に置くことでもある。否定するのではない、脇に置くのだ。分かる・分からない、というのを、Yes/Noの二者択一モードにしてしまうと、「分かる」世界は受け入れ認め、「分からない」世界はなかったことにしてしまう。それは信念強化に繋がるが、それ以外の世界の複数性の拒否にも繋がる。その時に、「分からない」けど身を委ねる、というのは、確かに怖いし、勇気もいることだ。でも、そういう「分からない」世界に身を委ねるうちに、いつしか自分の「想定外」の世界にたどり着く。その「想定外」を楽しむためには、自分の培った「正しさ」が時として邪魔になる。それを脇において、流れ流されてきた想定外の世界を楽しむことが、実は希望に繋がっているのかもしれない。

そんな海青子さんとパートナーの青木真兵さんは、奈良の東吉野村の自宅を開き、私設図書館ルチャ・リブロを運営している。海青子さんはそこで司書をしている。なぜそんなことをしているのか。彼女はこう語る。

「自分達だけでは抱えきれない問題があったから」

博愛でも正義漢でもなく、問題の共有のために私設図書館を開く!?これは一体どういうことなのだろうか。

「私達にとって自分の蔵書というのは、自分達が何で悩んだり、何を問題だと考えてきたりしたのかをそのまま閉じ込めた思考のあとさきのようなものです。その蔵書を開くということは、自分たちの問題意識をそのまま外に開くということと同義です。つまり私達にとって私設図書館を構え蔵書を一般に開いたことは、抱えきれない問題意識を開き、『一緒に考えてくれないか』と誰かを呼び込んだということだったのです。」(p41)

二人は人生で行き詰まったとき、東吉野村に退却した。でも、以前に住んでいた西宮から隠遁する、というより、新たな場で「自分たちの問題意識をそのまま外に開く」ことにした。それが「自分達が何で悩んだり、何を問題だと考えてきたりしたのかをそのまま閉じ込めた思考のあとさき」である「蔵書を開く」ことであり、私設図書館を構えることだった。

これは究極な形での「無力」を認めることだと思う。蔵書を自分で抱え込んでいる間は、自分一人で何とか解決しようと、自己責任論で頑張ってきた。でも、にっちもさっちもいかなくなったとき、「抱えきれない問題意識を開き、『一緒に考えてくれないか』と誰かを呼び込んだ」というのは、究極の構造転換だ。悩みを隠さず、悩みを開く。それは昔読んだ本には「悩みを市に出す」という形で表記されていたが、私設図書館という公共空間に悩みを差し出して、『一緒に考えてくれないか』とお客さんを呼び込む、というのは、自分自身が無力だと認め、その無力の絶対的肯定をしないとはじまらない。そして、それは以前のブログに書いた当事者研究の論理とも通底している。

入院前から構想を練っていた私設図書館を辞めようか、という話が持ち上がった時に、彼女がだからこそ図書館をしたいと思った理由も、以下のように綴られていた。

「『横に立つ人』が図書館の利用者であれば、私は『障害のある人』でもあり、『図書館員』でもあれるのです。『図書館員』であるところの私は支えられる存在であると共に、相手を助け支えることもできる存在になります。たとえそれが『不完全な司書』であっても。」(p27)

「抱えきれない問題意識を開き、『一緒に考えてくれないか』と誰かを呼び込んだ」という意味では、彼女は「障害のある人」であり、「支えられる存在」である。でもそんな彼女が、「支えて下さい」ではなく、「一緒に考えてくれないか」と呼びかけるとき、それは一方的に私を支えて下さい、という呼びかけでない。そうではなくて、私も教わりたいけど、あなたのお悩みを聞かせてもらったら、私も司書として、あなたを「助け支えることもできる」かもしれない。そんな双方向性が担保されているのである。

これは確かに普通の図書館司書とは違う。私情を挟まず、プロフェッショナルな意識をもって、来客者の要望に応える公立図書館の司書。それは、サービス提供のプロではあるが、双方向性はそこに期待されてはいない。でも自宅を開き、蔵書を開くことで、そもそも海青子さんは脆弱性に晒される。でも、そのような形で開くことこそ、彼女にとっての最大の生存戦略であり、支えられるだけでなく自分も誰かを支える存在であり続けることが出来る。それは司書の標準的な基準からすると「不完全な司書」かもしれない。でも、圧倒的に人間的で、魅力のある司書なのだ。

ちなみに、個人的にも僕は「不完全な司書」さんにめちゃくちゃお世話になっていて、ファンタジーなき男が中年になって、「生きるためのファンタジーの会」をはじめたのは、まさに海青子さんとの出会いや、彼女が差し出してくれるファンタジーの数々があったからだ。また、この本の中には、そんな僕とのやりとりも出てきて、自分のことがこんなに他者のエッセイの中に出てくるなんて、とちょっとこっぱずかしく、でも嬉しく思いながら読み終えた。

すごく素敵な本なので、多くの人にジワジワ広がってほしい、と思う一冊です。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。