「ままならなさ」で緩むもの

金曜日、高木俊介さんが主催されるACT-Kで、三好春樹さんや宅老所はいこんちょの小林敏志さんとの鼎談があった。僕はたまたまの流れで、司会をさせて頂き、すごく色々考えさせられた。その中でも、小林さんがぼそっとおっしゃったことをフックにして考えたい。

「介護は受け身。自分たちは○○がやりたい、というのがない。能動的でなく受動的な人の方が介護は向いている。」

僕は結構この言葉がずしりときた。なぜなら、僕は小林さんと真逆のタイプだったからだ。「○○がやりたい」とあれこれ画策し、能動的に自分から動きまくって人生を切り開いてきた(と思い込んできた)。そして、この構えは、「介護やケアには向いていない」のである。まさに、その通り! 今なら、よくわかる。子どもが産まれて以来、苦しんできたのは、まさにこの受動性だった。

娘は全く思い通りにならない。こちらの想定は、見事になぎ倒される。

金曜は夜9時まで京都の高木クリニックで鼎談があり、その後の懇親会はビール一杯だけ参加して、早々に新幹線に駆け込み姫路に帰る。翌土曜日の夜は奈良の「ほんの入り口」さんでトークイベントがあったので、京都の実家に宿泊という選択肢もあった。ただ、娘を祖父母のところに連れて行きたい&妻をワンオペから解放したい、とも思い、金曜夜は一度帰宅しようと思ったのだ。さらに言うと、午前中は最近行けてない合気道のお稽古に住吉まで行ってから、午後娘を連れ出そう、とか、あれこれ画策していた。だが・・・

土曜の朝、起きると娘の咳がひどい。聞くと、昨晩は何度も起きたので、妻もふらふらでイライラがマックス。そんな中で、僕だけ趣味で出かけてきます、なんてとても言えない。そもそも夜のイベントは、新刊『ケアしケアされ、生きていく』を巡るイベント。なのにその僕が、実生活では子どもや妻のケアより遊びを優先していては、なんたる言行不一致! そうはいっても今日こそ久しぶりに合気道に行けるぞ!と6時に目覚めたのに・・・。こちらのイライラや葛藤も最大化しつつも、合気道より大切なのは家庭の平和、と思い直して、予定を取りやめ、家事をしていた。

事ほどさように、娘との暮らしの中では、PDCAサイクルとかリスクヘッジとか、コストパフォーマンスとか計画制御とか、生産性至上主義の言語は見事になぎ倒されていく。6歳の娘は、野生がまだ残っている。自己管理が自分で出来ない、という意味で、ケアが必要な状態である。また、自分で心身のコントロールが十分に出来ないからこそ、しょっちゅう風邪をぶり返す。感情に波がある。というか、子どもってそういう存在なのである。それは、十分に社会化されていない、という意味で、未熟かもしれない。でも、認知症のお年寄りと同じで、自分で自分を制御しきれないからこそ、他者のケアが必要なのだ。そして、自分で自分の制御が十分に出来ない人を前に、他者がその相手の支配や制御も出来る訳ではない。振り回されるしかない。つまり、能動的というより、受動的な姿勢が、ケアの構えなのだ。

僕は、元々予定していた土曜のスケジュールに代表されるように、空いている時間に、仕事も余暇も徹底的に詰め込む、生産性至上主義の塊のような生き方をしてきた。子どもが産まれて6年間、そこからだいぶ切り離されていたが、今年娘が小学校に入って、ちょっと昔の悪い癖が戻りつつあり、10月から12月まで繁忙期ということもあって、ああやって予定を詰め込んだ。でも、そんな父のことなどお構いなしに、娘は僕の想定や予定をなぎ倒してくださる。「○○したい」という能動的な構えの僕は、娘の体調不良を前に、思い通りにいかず、イライラが募りかける。だが、そんな娘のケアに振り回されることによって、僕の能動性が弱まり、娘と共に居る時間を取り戻す。

ケアって、巻き込まれてなんぼ、なのだ。そして、それは、リスクやコスト、PDCAや生産性とは真逆の発想である。

自分で業務管理が出来る範囲内なら、その生産性を上げるのは、コツコツ努力をすればよい。僕が30歳で大学教員になった後の5,6年、仕事の効率化とか生産性を上げる方法、などのハック本を100冊以上読みまくってきた。そうやって、原稿を書くのは早くなったし、仕事の効率は徹底的に良くなった。だが、それは自分が想定できる、自分で自己完結できる仕事の範囲内で、という限定が付く。

子どもが産まれたあと、 子どもは全く思い通りにならない存在だ、という当たり前の事実に気づいて、愕然とさせられる。想定外の娘の行動に振り回され、こちらがあらかじめ見積もった時間がどんどん奪われていく。振り回される。主体的で能動的で自己決定に基づいて成果主義的に動く、なんて技法は全く通用しない。事態は流動的だし、少し先でも予測不能だし、娘の状態を観察しながら、出来そうな範囲で動き、それも無理ならその時点で柔軟に予定を変えて・・・と、娘の主体性を尊重しながら動く必要がある。

そういう「ままならないこと」に身を任せながら、改めて気づくのだ。いかに僕は想定内で計画制御的に生きるよう、自分自身に強いてきたのか、と。「努力すれば報われる」という論理を内面化し、「報われるためには、努力し続けなければならない」と論理を転倒して、強迫観念的に働き詰めてきた。一定の成果があっても、通過点に過ぎず、もっともっともっと・・・とせき立てられるように、次の戦略なり計画なり目標達成に向けて、さらに能動的で主体的に動くよう、自分を追い込んできた。

でも、だからこそ、ままならない娘に振り回されると、そうやって能動的で主体的に自分を追い込んできた、自分の強迫観念のようなものが、少し緩むのである。それと共に、生産性至上主義の論理の隙間に、ケアの論理、という別の合理性が入り込む余地が産まれてくる。

客観的で科学的な情報に基づいて出来る限り予想をし、リスクを分散し、費用対効果を最大化するように動く。これは生産性至上主義の合理性である。でも、野生の娘が、いつ風邪をひくか、嘔吐するか、鼻血を出すか、は予想不能である。娘と外に出るときは、いつどうなってもよいように、嘔吐袋とティッシュを多めに持参することは出来ても、それでリスク分散とはならない。そもそも、子育てのコストや手間、リスクを考えたら、子育ては費用対効果が不明だし、費用対効果を高めたいなら、子どもを産まない方が良い。でも、それは生産性至上主義の論理の範囲内では、である。

ケアの論理という別の合理性で考えると、全然違ってみえてくる。ままならない娘に巻き込まれながら、「思い通りにする」とか「巻き込まれない」というのは、自己と他者を切り離し、他者や自分を支配統制し、無理を自他に押し付ける思想だと改めて気づく。娘が親の言うことを簡単に聞いてくれない時、親が無理矢理子どもに押し付けようとしている生産性至上主義の論理を、娘は命がけで拒否しようとしている、と捉えると、全然別の世界が見えてくる。父ちゃんは、実は恐ろしいアイデアを娘に押し付けているのではないか、と。

「枠組み外しの旅」とか「当たり前をひっくり返す」とか書いてきたけど、子育てというケアの当事者として、いまだに「ままならなさ」と主体性、「巻き込まれること」と能動性、の狭間で身もだえしている。それは、魂の脱植民地化の大切なプロセスなのかもしれない、と思って、こうやって備忘録を書いておく。

ちなみに、妻が仕事でワンオペ日曜日にこうやってブログに書けたのは、おばあちゃんが娘のままならなさに、喜んでご一緒してくれているから。僕も40年前、そうやって引き受けてもらったのだ、としみじみ二人を眺めながら、ブログを書き終えた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。