ファンタジーとcaring with

最近、児童文学を通じてファンタジーの世界に少しずつ「お近づき」になっている。ルチャ・リブロの司書、青木海青子さんにお薦め頂いて、『フィオナの海』『夏の王』『鬼の橋』『新月の子どもたち』『トムは真夜中の庭で』と読み進めてきた。どれもすごく面白い。『鬼の橋』については、こないだオムラヂ(生きるためのファンタジーの会)で2時間くらい、青木真兵さんや現代書館の編集者、向山夏奈さんも交えて熱く語った。

で、次に海青子さんからお薦め頂いたのは『まぼろしのすむ館』である。これも読み出したらめちゃくちゃ面白くて、まさか最後に『トムは真夜中の庭で』とつながる展開になるとは思いも寄らなかったのだが、読みふけってしまった。そうやって色々素晴らしい児童文学を読みながら、ぼく自身が気づきつつあることがある。

ぼくは4回目の年男なのだが、1回目の年男の時に果たせなかった通過儀礼というか成熟課題に、いま・ここ、で出会っているのかもしれない、と。

小さい頃は、「こどものとも」が大好きでよく読んでもらっていた。その後、小学生以後、かこさとしや『ズッコケ3人組』『怪盗ルパン』など読んできた。だが、小学校高学年から物語から遠ざかり始め、小学校高学年から中学生くらいが対象年齢の児童文学は全く読んでいない。代わりに小学校高学年から趣味の本を読みあさるようになり、「鉄道ファン」→「鉄道ジャーナル」→「アサヒカメラ」を中高と読み続けてきた。鉄道ジャーナルとかアサヒカメラは、毎月2,3回読んだ後、バックナンバーも読んで、翌月号に備える念の入れよう。鉄道ジャーナルに関しては古本屋で過去のバックナンバーも色々買いそろえていたように思う。その間、中学校くらいから星新一の『ボッコちゃん』に始まり、北杜夫の『どくとるマンボウ』シリーズ、『十五少年漂流記』に『大地』などの翻訳物も含めた一般小説に手をつけ、高校生では遠藤周作や太宰治、椎名誠に灰谷健次郎などを読み、大学生以後はら村上春樹にどっぷりはまり込む、というパターン。でも、新書やノンフィクション、哲学や社会学などの本を読むのに比べたら、フィクションを読む量は極めて限定的である。マンガはほとんど読めていない。

そして、最近、児童文学を読み進めながら、何が素晴らしいのか、なぜ今読みたくなっているのか、が少しずつ、自分にも理解でき始めた。

ぼくがお薦め頂いて読んでいる児童文学は、まさに思春期における通過儀礼が主題になっている。主人公は、大人になる前の、身勝手だったりわがままだったり智恵が十分についていない、端的に言えば「未成熟」な子どもである。そして、日常から離れた異空間の中に放り込まれ、様々なハプニングに遭遇し、追い詰められたり、切り抜けていきながら、まったく自分でコントロールできない状況を少しずつ把握し、パッチワークのように手がかりを集めながら、やがて地図の断片から少しずつ核心へと迫っていく。それは一人では出来ないので、仲間が必要だ。ぼくが読んできた児童文学では、異性の仲間が重要なパートナーとなる。ただ、村上春樹の小説と違うのは、セックスは入らず、恋愛感情があってもほのかなレベルで終わる。大切なのは、独りよがりにならず、仲間を信じて、仲間を助けて・助けられて、タフな旅にこぎ出すのだ。その中で、大きな試練にも立ち向かう。

そして、その試練に立ち向かう中で、気づけば未成熟な「子ども」を超えて、青年期の仲間入りをしていく。それは、身体的成長というより、精神的な成熟である。成長とは測定可能で目に見えるものであるが、成熟は目に見えないが明らかに以前とは異なっていると本人も周囲も気づく内的変化である。成長がスペクトラム上の連続性の中での変化なのに対して、成熟は連続性ではなく、以前とは全然違う姿への変容である。後戻りの出来ない変容であり、位相や世界観、パラダイムがごっそり変容している。その中で、深みが増し、陰影というか「陰」の部分を備えるようになったために、「光」の部分も増していくのだと思う。後戻りできない悲しみ、何かを乗り越える辛さ、にもかかわらず前に進まなければならないという覚悟、それらをない交ぜにした陰影をしっかり自分に刻み込むからこそ、他者の陰影もしっかり理解し、受け止める事が出来る。

そして振り返ってみると、「こどものとも」や「ズッコケ3人組」にはまだ陰影が現れていないし、太宰治や村上春樹になると、確かに成熟も描いているが、複雑な様相になってくる。すると、10代の思春期における陰影や変容を、そのものとして同時代的に描いているのは、児童文学の特色であり、まさにそれらの作品を通過することによって、思春期のこじれやしんどさが和らいだり、あるいは物語世界における成熟プロセスを読みながら、自分自身のこれから目指すプロセスを夢想することが出来るのである。そして、ぼくはその貴重な世界に触れないまま、ある種の通過儀礼を経ないまま、大人になってしまった。それは、なぜか?

今から思い返すと、小学校5,6年生の頃、いじめがクラス内に蔓延し、いじめられ、その後いじめる側の末端に加担した。クラスは学級崩壊状態で、先生を排除し、授業もろくに受けられなかった。その反動で、中学1年の時、「公立中学の勉強について行くため」に入った塾が猛烈進学塾で、夜中まで勉強していた。そういう環境であるが故に、子どもの自分が嫌で、一刻も早く大人になりたいと背伸びしていた。大人の会話に首を突っ込みたがるという元々の性質も手伝って、大人の雑誌を読みふけり、大人の小説に手を出して、大人的世界を経験しようとした。覚えていないけど、もしかしたら児童文学を、読んでもいないのに馬鹿にしていたのかもしれない。思春期の通過事例の時期に、その大切な主題を飛び越えて、「早く大人にならねば」と焦っていたのかもしれない。それゆえ、ある種の欠落を抱えたまま、コマを無理矢理進めることになったのだ。

6年前から子育てをし始めて、自分の中の子どもっぽさや、未成熟さが、嫌と言うほど目についてきた。一応社会人で、それなりに人生経験をこなしてきて、なんとか社会化されてきた、ほどほど社会を渡り歩いてきた、と思い込んできた。でも、運良く他者の目をごまかせたとしても、自分の未成熟課題は、目の前の子どもとの関係性の中で、容赦なく突きつけられる。子どもにむっとしたり、怒ったり、感情的になったり。そういうことを通じて、ぼく自身は「成熟せよ」と子どもから、何度も呼びかけられているのだ。

そういう時期だからこそ、児童文学が染み入る。ぼくが引き受けてこなかったかもしれない成熟課題をそのものとして引き受け、しっかり旅をしている。そして、児童文学って、そのどれもが、最近考え続けている「ケアを共にする(caring with)」が通奏低音の主題になっている。独りよがりな、自分さえ良ければそれでいい、とか、自己責任論とは真逆の、仲間と共に助け合いながら、苦境や困難、試練を乗り越えて行く旅。それは言い換えれば、「ケアを共にする旅」であるし、他者とケアを共にするからこそ、成熟していく、とも言えるのだ。

そうか、児童文学を読むことによって、ぼく自身も「ケアを共にする旅」に今からでも参加できるのか、というのが大きな発見だし、娘と共にある世界を希求するためにも、ぼくがまさに未成熟だった課題に向き合うためにも、この旅に「いま・ここ」で気づけた、出会えたのはすごく素敵なことなのだ、と思い始めてきた。

欠落している人生課題は、どこかで落とし前をつけるチャンスが現れる。ぼくにとっては、まさに生き延びるためのファンタジーであり、それは1度目の年男の時に出来なかったことを、4度目の年男でやっと果たすことなのかも知れない。あと二年で50歳という「知命」の時期を迎える。その前に、自らの宿命を理解するためにも、未解決だった成熟課題と「いま・ここ」で向き合えるのは、めっちゃ価値あることだ、と改めて感じている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。