無力さでつながり直す面白さ

浦河べてるの家のソーシャルワーカー向谷地生良さんと、ひがし町診療所の川村敏明医師。ふたりは、当事者研究など画期的な精神障害者支援を行う浦河べてるの家を二人三脚で引っ張ってきたお二人である。今回、僕の師匠、大熊一夫氏が映画監督!としてお二人にインタビューをするという。これは是非とも話を伺いたいと師匠にお願いして、日程を調整していただき、二泊三日という凝縮した日程の中で、奇跡的にお二人の話を伺うことが出来た。

向谷地さんと川村さんに共通すること。それは、共に依存症の回復者から学んだ「無力」である。支援者が出来ることには限界がある。依存症でも統合失調症でも、支援者が「治す」ことは出来ない。それは、アルコールや薬物依存でも、統合失調症やうつ病でも、発症に至るには、最大化した「生きる苦悩」がある。だが、いったん「依存症」「精神病」などとラベルが貼られると、本人の言動がすべて「病気のせい」とされてしまう。それは、生きる苦悩を抱えた生活主体者としての本人の責任が免責され、「責任を果たす能力のない人」と馬鹿にされることでもある。

この際、「責任を果たす能力のない」患者に対して、治療し援助し支える存在としての医者や医療者が対置される。これは、医者に圧倒的な権力が集中し、患者との間で、支配—被支配関係に陥る、ということである。このような非対称な関係だと、患者はますます医者に依存的になる。だからこそ、川村さんは「治さない医者」を標榜する。彼はそれを「さわやかに期待外れ」とも語っていた。

患者は無能力な人、ということは、それと対置する医者は全能な人、と位置づけられる。だが、当たり前のように、神様でもない限り、全能な人、などこの世に存在しない。また、

「縛る・閉じ込める・薬漬けにする」を行っても、精神症状はよくならない。すると、患者からは全能な人であると期待されているのに、医者はその能力を発揮できない。だからこそ、その患者の期待をかわす必要がある、と川村さんは言う。

以前は、生活保護をもらって一週間たって、お金を使い果たした状態になった患者さんが「入院させてほしい」と日赤の精神科にやってきた。そして、入院して、三食しっかり食べて、よく眠れて、看護師さんから丁寧にケアをされて、退院していった。でも、また再入院していく。それは、本当に病気ゆえの入院なのか、単なる「金欠病」という生きる苦悩や生活課題なのか。従来、本人も治療者も、病気故の入院だと思い込んでいた。でも、同じ悪循環を繰り返す当事者を、川村さんはある時期から、突き放すようになった。病気なら治療はするけど、生活課題については治療してもなんとかならない。お金の使い方がうまくコントロールできずに再入院するなら、そのような失敗経験を持つ仲間と相談して、生活力を高めた方がよいのではないか。それが、浦河べてるの家を国内のみならず世界的に有名にした「当事者研究」の話につながっていく。

向谷地さんに今回改めて話を伺って感じたのは、「当事者研究」は、「問題の外在化(人と問題をわけて考える)」「苦労の経験当事者性を活かす」「無力さを認める」ことに大きなポイントがあることだ。

まず、最後の「無力」について、向谷地さんは「無力」と「無能」は違うし、ごちゃ混ぜにしてはならない、と語る。これは結構大切なポイントだと思う。医療者は、患者から自分の苦悩を解決してくれる全能者のように、期待される。でも実際のところ、眠れないとかそわそわするといった症状は薬で治まっても、生きる苦悩は消え去らない。そして、生きる苦悩が残存している限り、その対処方法がわかっていないと、問題は再発する。すると、支援者が関わっても治せないんだ、という絶望感が広まる。そこで大切なのは、自分のアプローチが相手には通じない、という意味で、「無力であること」と認めることだ。だが、これは「無能」とは違う、と向谷地さんはいう。

「無能」とは、自分には能力がないと自己否定や自己卑下をすることである。一方、「無力」とは、これまでの自分のアプローチでは上手く関われないという「非力さ」を認めることである。多くの支援者は、患者を治せない・上手く関われない事実と直面することを、「無力」ではなく「無能」だと感じてしまうがゆえに、それを認めようとしない。それだけでなく、自分を「無能」に思わせそうな治らない患者を見下し、自分の治療の不全を相手の個人的問題に矮小化したり、対象者を馬鹿にする治療者までいる。

でも、向谷地さんも川村さんも「無能」ではなく、「有能」である。ただ、彼らは、医療やソーシャルワークの既存のありようでは、生きる苦悩を抱えている人の前では、「無力だ」と気づき、自らのアプローチを変えた。これがすごみのあるところだ。

この際の「無力さを認める」とは、今のやり方や課題の捉え方では上手くいかない、ということを認めることである。一見すると、無能と近いようだが、全く違う。物事に対処する能力が現時点ではない、という意味では、無能も無力も似ている。でも、無力というのは、能力の使い方や認識を根本的に変える、ということである。たとえば弱肉強食の上昇志向で生きてきた人が、精神疾患に陥り、それまでの能力主義的価値前提でうまくいかなくなった、とする。そのときに、自らの従来の能力主義的価値前提を一端脇に置き、「降りていく人生」というか、勝ち負けを競わない、別の世界を模索することが出来るか。そのために、能力祝儀的価値前提で生きる自分は「無力だ」と認めることができるか。それが問われているのである。

と、ここまで書いてきたとき、あ、これって僕が子どもが産まれた後に、家事育児に翻弄されていて、「戦線離脱だ」と感じたあのときの感覚に似ている、と感じた。そう、それまで業績主義でしゃにむに出張も詰め込んでいた自分が、赤ちゃんの世話に忙殺され、「今日一日何にも出来なかった・・・」とつぶやいたとき、妻に「あんた、家事や育児を立派にしているやん」と指摘され、ハッと気づかされたことがある。それは、生産性至上主義で求められる価値基準の中で、何も出来ていなかったことを悔やむ僕がいたことである。それほどまでに、能力主義的な価値観を深く内在化していたので、子育てをし始めて、これまでの価値基準においては何も出来ない自分が「無力だ」と感じたのだ。

でも、ありがたいことに、僕はそこから、子育てやケアの「当事者研究」を始めたのかも知れない。どうして家事育児しかしていない時期を「戦線離脱」と表現してしまうのか、なぜ僕はこれほどまでに生産性至上主義に陥っているのか。この問いを考えた時に、人と問題をわける、という外在化は本当に役に立った。僕が子育てを始めて苦しい思いをしたとき、それは僕が無能だったのではない。そうではなくて、これまでの価値前提で子育てにコミットすると無力だということに気づいたのだ。そこから、僕を無能だと思わせるこの社会の価値基準と何なのか、を人と問題をわけて考え始めた。それは、男性中心主義で回るこの社会の論理のおかしさや課題を、そのものとして見つめ直すことでもあった。

そして、生産性至上主義を内面化しながらケアに関わる苦労の経験当事者として、その問題を原稿に書いて外在化しながら考えてきた。最初はどう書いてよいかわからず、足かけ2年かけて考え続けてきた、ケアと家族と男性中心社会にかんする当事者研究が、2022年には『家族は他人、じゃあどうする? 子育ては親の育ち直し』(現代書館)として書籍化されたし、その当事者研究の延長線上に、昭和98年的世界の生きづらさを整理した作品として、今年は『ケアしケアされ、生きていく』(ちくまプリマ—新書)という本も出せた。この二冊は、子育て以前に書き上げた本とテイストが違うのは、それはぼく自身の「当事者研究」が全面に出た本だから。そういう意味で、ぼく自身も、自分自身の生活課題の中で「無力」を認めることが、最大の危機でもあり、生きづらさを越えていくための大きなきっかけになったのだ。

もちろん、子育てに関しては、これからもモヤモヤするし、より主体性を発揮し始める娘とぶつかることも出てくるだろう。そのたびに、何度も何度も、ぼく自身は無力さを味わうだろう。でも、そのたびに、先輩や仲間の子育て経験当事者のと語り合えばよいのだ。唯一の正しい正解はないからこそ、モヤモヤ対話を続け、お互いの悪循環からの脱し方を学びながら、ぼく自身も娘や妻とよりよい関係を築くための模索をし続けていけばよいのだ。

そう思ったとき、当事者研究は、以前に比べてずっとぐっと自分事として響いてきた。当事者研究は、日本の閉塞した精神医療や、地域資源のなさを乗り越えて、地域の中で支え合う大きな可能性であり続ける。だが、それだけではない。より多くの人が、生きる苦悩を前に自分は無能だと感じ、自己肯定感を粉々に砕いている現状を変えうる。人と問題を区別することで、問題を外在化し、他の経験当事者として考え合うことで、「安心して絶望できる人生」の可能性に開かれているのだ。

これはほんまにオモロイ展開だと改めて感じた。

追伸:この原稿の一部は、既にVoicyでつぶやいたことを入れています。ご縁があってVoicyからお声がかかり、毎朝一回10分程度のコンテンツで、おしゃべりしております。そちらもよかったら、ごひいきに!

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。