つい、先日の話。
ある学生のレポートを見ていたら、明確なコピペの疑いが強かった。彼ら彼女らの息づかいとは違う文章が書かれていると直感で感じたら、とりあえず最も違ってそうなフレーズやセンテンスをグーグルでひいてみる。すると、今回の場合は一発で出てきた。「もし高校野球の女子マネージャーがドラッガーの『マネジメント』を読んだら」(「もしドラ」)の読書感想文だったのだが、とある小論文添削会社のHPに載せられた感想文の例を、大部分パクっていた。上下を入れ替えたり、部分的に言葉を直したりしているけど、カットアンドペーストそのものである。証拠を印刷した上で、学生に聞いてみた。
彼は、すぐにコピペであることを認め、こう言った。
「クラブで忙しくて、大会も続いたから・・・」
クラブやサークルで忙しい事は、理由にはならない。現に、うちはトップアスリートの学生も多いが、海外遠征などで忙しくても、課題をきちんとこなす学生を何人も知っている。今年元アスリートだったゼミ生の卒論は、めちゃくちゃレベルが高い内容を書いてくる。文武両道の学生は、うちの大学には沢山にて、それが大学の幅の広さ、層の厚さの基盤をなしている。なので、同じアスリートの仲間に対しても、「クラブで忙しい」なんて泣き言は、「ふざけるな」と言われるぞ、と言うと、彼も頷いた上で、次にこういう言い訳をした。
「でも、どう書いていいのかわからないから」
「もしドラ」を本当に読んだのか?と聞くと、「読んだ」と答える。一応僕も読んでいるので、あらすじを言ってもらうと、確かに最後まで読んだようだ。「ほんならなぜちゃんと自分の言葉で書かないの?」と聞くと、「どう書いていいのかわからなかったから」という本音が出てくる。「例えば君のクラブに引きつけて考えた時、参考になること、同じようなことはなかった?」と聞くと、「それなら一杯ある。例えば・・・」としゃべり始めた。「それを書いたら、立派な感想文だよ」というと、先ほどまでしんどそうな顔をしていたのが、急に笑顔になって、「それなら今週末、書けます」ということに。じゃあ月曜日までにメールで送ってね、と伝えて、話が終わった。
僕は、このエピソードに、支援の本質の一端が現れているような気が、昨日からしている。それは、昨日の相談支援の現任者研修で、このエピソードを話しながら、こんなふうに繋げてみたのだ。
コピペというのは、明らかに「ダメ」な行為である。れは、間違いがない。しかし、学生が「ダメ」である行為に踏み込んだ時に、「ダメだ」と頭ごなしに言っていても、生産的ではない。
もしこの学生のように「ダメだ」ということを内心分かっていた学生でも、それなりの理由があって「ダメ」な行為をした方が利益がある、と思ってやっていたのだから、それを「ダメ」と言っても、相手は損得勘定の利益計算をして、「怒られておけばいい」「言い訳をすればよい」という表層的な理解で終わる。また、もし相手がなぜ「ダメ」なのか理解していなかったら、単に「先生に怒られた」というイメージしか残らない。「意味も分からず怒られた」と思った場合には、逆ギレしたり、あるいはパニックになるかもしれない。
どちらの場合であっても、「ダメだ」と伝えるだけでは、全く「ダメ」であることには変わりない。
では、どうすればよいのか。
「ダメ」である行為をした相手とは、その行為をしてしまったし、これからも繰り返す可能性がある、という意味で、何らかの支援を必要としている人とする。そして、こちらは「それがダメである事」を知っていて、その「ダメ」を注意して、直したい、繰り返して欲しくない、という支援をする側である、としてみる。
叱責型解決法は、両者が「ダメ」であることを知っていて、また相手を叱責し、突き放して自分で考えさせれば自ずと「ダメ」な理由と解決方法がわかる、という考え方である。ある種、我が子を谷に突き落とすような、「かわいい子には旅をさせろ」的な、経験から自分で学べ、という姿勢である。ある程度、相互扶助的ネットワークや親戚・近所づきあいが強かった時代においては、突き放しても、近所のおじさんや、親戚のオバサンなどの別のロールモデルから、かくまって貰ったり、叱咤激励してもらう中で、何となく理解し、乗り越え、成熟する、というモデルも「あり」だったのだろう。あるいは、センスの良い子なら、そういうものがなくても、自分で考えて、獲得していく人もいるかもしれない。
だが、ここで論点として取り上げたいのは、そういうセンスが特段良くない場合、あるいは怒られても繰り返す可能性がある場合である。叱責が効果的に本人の態度が変わるきっかけとはならないケースだ。
その場合、叱る、という行為で何とかなる、と思っている、支援するこちら側が、何らかの態度変容が求められている、とは言えないだろうか。
「あいつは叱っても全く言う事を聞かない」という時、それは自分が「叱る」以外の支援アプローチを持っていない、ということを図らずも口にしている、とは言えないだろうか。そして、それは、プロの支援者(福祉であれ、教育であれ)としては、失格ではないだろうか。
最近、支援とは、ある種の探偵業に近い、と思っている。
探偵とは、自分の眼鏡を相手に押しつける人ではない。今、検察が信頼を低下させているのは、最初から結論を決めて、それに発言を無理矢理誘導する、という、探偵としてあるまじきやり方をしているから、である。その辺りの詳しいいきさつは、「国策捜査」という言葉を流行らせた佐藤優氏の著作を読めば、その論理構築の無理矢理さ加減の記述は、枚挙に暇がない。
だが、本当の探偵なら、全くその逆で、状況の中から、メッセージの痕跡を拾い集め、それをつなぎ合わせる中で、真の理由を少しずつ推理し、試し、解決へと導いていく。ただ事件と支援の根本的差異は、殺人事件なら、「真の犯人」は、特定可能かどうかは探偵の腕次第だが、必ずいる。しかし、支援の場合、「真の理由」なるものは、ある種本人と社会の相互作用の中で、変容する。動機も行動も、本人と環境の相互作用で変化する。そういう流動性があることが、殺人事件と支援では、異なるが、とにもかくにも「自分の眼鏡」を押しつけても、何も解決には導かないことには変わりない。
先のコピペ学生の場合、たまたま僕が叱責型の限界を感じていて、また時間もあったので、コピペする背景には何があるか、を相手と共に探ることが出来た。だから、短時間で表面的理由(クラブが忙しい)の背後にある真の理由(どう書いていいのかわからない)という所に結びつき、それを変える為の支援(クラブの内容と似ている所に引きつけて書いてご覧)と言えば、じゃあ週末に書けますという解決策を導くことが出来た。
これを、例えば「問題行動」「反社会的行動」をする人の支援、に当てはめてみると、僕などより遙かに大変長いプロセスがあるが、ある種の共通性はあるのではないか、と思う。本人がその行為が悪い、ということが理解できていないかもしれない。あるいは「ダメだ」という言語的コミュニケーションを「叱責的解決」と理解できず、パニックになったり、暴れ出すかもしれない。言語的コミュニケーション自体が苦手な場合もあるかもしれない。でも、支援する側としては、探偵になって、何がその背景にあるのか、どういう場面でそういうことが起こるか、繰り返されるとしたら何が鍵となっているか、を探しながら、少しずつ本質に迫っていき、本人が「ダメな行為」をする事で表現したかった事を理解し、それをしないでも済む為の方策を探りだそうとする。これは、力量ある支援者なら、当たり前のようにやっている支援の王道でもある。
だが、これには時間と手間が相当にかかる。一言で言えば、面倒くさい。それに比べると、叱責モデルは、こちらの規範に相手を従わせるだけで済むし、探偵の手間と暇も必要ないし、何よりラクだ。だから、人は支援する側-される側の権力性にものせられて、気づいたら叱責解決モデルを採用する。
こう書いていて、気づいた。「しばる・とじこめる・くすり漬けにする」、という安易な暴力装置に頼る解決方法も、実は叱責モデルの延長線上にあるのではないか、と。精神科病院や入所施設で、認知症高齢者や知的障害者、精神障害者が「問題行動」を起こした際に、言っても聞かないから、としばしば取られる「解決策」。これは口での叱責が聞かない場合の、「処置」としての「叱責」ではないか、と。そう言えば、懲罰的に一ヶ月とか保護室や静養室(共に外からは鍵がかかるが中からは開けられない個室)に閉じこめている例は、未だに見聞きする。これも、支援する側の思考停止・思考の省略に陥っている帰結ではないか、と。
そして、かく言う教師の僕自身だって、言葉での呪縛や行動の固定化(とじこめる)、あるいは一定のやり方しかないという洗脳(ある種のくすり漬け)で、安易に問題を解決しようとしていないか。自分の歪みを相手に押しつけようとしていないか。相手を導く、と思いこみながら、やっていることは無自覚で破壊的な権力行使を行っている場合はないか。そんな問いが突き刺さっている。
むろん、ここに書いた事の半分も、当の場では話せなかったけれど、自分自身の課題として、喉に突き刺さっている。まずは、この問題について、もう少し探偵業を続ける必要がありそうだ。