テンションの高さとストレス

最近、どうも体調がよくない。体重が10キロ減ってから、肉襦袢コート!を脱いだ事もあって、カイロとパッチがないと寒い。あるいは、割とお腹がちくちくとする風邪未満、状態が頻発し、葛根湯を飲んで事なきを得ている事も少なくない。結構キツイ日程だが、身体はそれに悲鳴を上げているようにも見える。

だが、一方で、そう感じるのが普通なのであって、今まで「無痛」だったのではないか、とも考える。必要以上に食べ過ぎても、飲み過ぎても、あるいは何処かに痛みを感じても、それを「しんどさ」「寒さ」「辛さ」と感じないように、感覚的センサーが摩耗していた、あるいは無自覚的に鈍麻させていた、とも考えられる。「○○すべきだ」「○○なんて出来ない」という事を言い訳にして、体重減は諦めていた。それは、単にダイエットを諦めていただけでなく、五感のセンサーのメッセージ自体も聞こうとせず、消費社会的イデオロギーの因襲にすっぽり覆われていたのかもしれない。「美味しものを一杯食べたい」「24時間戦えますか」「休みもエンジョイしなくっちゃ」といった消費を喚起させるイデオロギーを内面化して「自分のしたい事」として刷り込まれ、それを所与のものとしたとき、「そうじゃないんだけどなぁ」という五臓六腑のメッセージに蓋をして、突っ走っていた、それが「無痛」状態を引き起こしていたのかもしれない。
そう思うきっかけの一つに、今朝のNHKニュースの花粉症対策の報道がある。北海道大学の教授が、杉の木の無いある町と共同で、杉花粉対策のツアーをやっている、とのこと。大自然の中で、リラックスしながら自然を体感してストレスを減らし、食事療法もして、アレルギーと闘いやすい身体作りをしている、という作りだった。その詳細は正直あまり記憶に残っていない。だが、アレルギー体質の改善方法として、早寝起き・3食をしっかりと食べる・ストレスを減らす、という3つが出てきた時、ふと繋がった。早寝早起きとバランスの良い食事はきちんと実践出来ている。やっぱり残るは「ストレス」だなぁ、と。そう、それは実はある医師にも言われていたのだ。
僕自身、仕事の面ではあまりストレスを感じない方であった。肩こりも最近まで無自覚だったし、胃が痛んだ事なんて、20代にある大ちょんぼをやらかした時くらいであった。ストレスから自由な生活を送っている、と勝手に思いこんでいた。ところが、こないだ主治医である漢方医に、花粉症の薬をもらいにいった時の事。西宮に住んでいる時から9年くらい通っていて、低炭水化物ダイエットを教えてくれた恩人でもある。その先生に、一年間着け続けている体重の変化(=痩せたグラフ)を自慢しにいったついでに、「さて次の課題である花粉症の根本治療は・・・」と水を向けてみると、全く意外な一言を仰った。
「タケバタさんって、緊張が強いタイプでしょ」
「えっ・・・・」
青天の霹靂、自分自身は、150人とか200人の前でも平気で講演しているし、そんな緊張するタイプとは思っていない。何でですか?と伺うと、更に驚く。
「だって、テンション高く、ということは、文字通り緊張が高いんでしょ。そうやって緊張を高めて物事に臨むことって、ストレスフルなのかもしれませんよ」
目からウロコ。
確かに講演などでエンジンをかけるとき、エンジンの回転数をローギアでグイグイ引っ張るかのように高めて、速度を高めてから全速力で突っ走る、というパターンが多い。そういえば一昨日の講演も、「1時間半マシンガントークのように話し続けておられましたね」と司会の方に言われたし、そう言われることは少なくない。僕自身、それが自分なりのスタイルだ、と勝手に思いこんでいた。だが、実はそのスタイル自体が自分自身に緊張をもたらし、つまりはストレスの原因であり、かつそれに無自覚(=無痛)であるとするならば・・・。
そう考えると、診察室であっけにとられて、グラグラと目の前の常識が崩れ去るような、そんな時間を味わった。そして、主治医に今回処方された漢方薬が、気を静める効果を持つ薬。実際それが効果をどう現すかわからないが、飲む際にはいつも意識する。確かに自分自身、緊張しいかもなぁ、と。それを、まくし立てて喋る事で、誤魔化しているのかもなぁ、と。
まくし立てること。
これは、先制攻撃的に、ガツンと自分がパンチを食らわせる事で、相手を威圧する手法。タレント弁護士出身でワンフレーズポリティックスがお得意の某府知事なんかも、この手法。もしかしたら彼自身も、テンションの高い、つまりは緊張しいなのかもしれない。そう言えば独善的で強引な発言が目立つなぁ・・・。
でもまあ、そんな他人の批判はよろしい。僕自身の実存にとって、この「緊張しい」という問題は、自分のストレスの自覚、「痛み」の自覚のためにも、大きなパラダイムシフトをもたらす効果がある。多分以前からそのことを知っていただろうに、10キロ痩せた変容をとげた今だからこそ、その話題を「言っても良い時」であろうと判断され、ご教示頂いた主治医も、なかなか鋭いなぁ、と感じる。そう、人は説得ではなく納得しなければ変わらない。自分自身が、納得のレセプター(=感受性、心の器)を拡げないと、その本意をきっちり受けとめられない言葉がある。二元論的発想や、ガンバリズム的消費社会イデオロギーにどっぷり染まっていた9年前には、そんな指摘は、絶対に受け容れられなかっただろう。だが、今だからこそ、体重の変容を通じて五感や五臓六腑のセンサーに耳を傾けられるようになったからこそ、次の、本質的課題が、目の前に提示されているのだ。
自分の、緊張(テンション)が高い、という現実を、自覚した上で、どう折り合いを付けて生きていくか。
多分勝手な想像だが、抗ヒスタミン薬の服用という対処療法では解決出来ない根本的な花粉症治療とは、生き方を見つめなおす事、だとも思う。
だからといって、講演や対外的な仕事を断る、という短絡的な問題ではない。今日もこれから松本で研修を頼まれている。また、どうも自分はそういう支援現場の職員エンパワメントという臨床的な仕事は嫌いではないだけでなく、そこそこ出来る力も持っていて、かつ世間にも求められているようである。ただ、講演の際、もう少し肩の力を抜いて、リラックスして、伝える、というのも大切なような気がする
講演を始めたのも丁度博士号を取り終わったあとの8年ほど前からだったが、とにかく実力不足を実感していたので、力を入れて、メッセージを込める、ということを、重視していた。今でも「情熱的な講演」とも言われる。でも、それって裏を返したら暑苦しいだけ、とも言える。また講演以外でも、研究会や学会発表の場でもその傾向があるようで、知り合いの研究者の中には「元気だけが取り柄だね」と揶揄する人もいるし、「うるさい」としかめ面する人もいる。今までそれは故無き誹謗中傷だと思いこんできたが、案外それは、僕自身のある一面の真実を照らし出している、とも思えてきた。そう、うるさい、のである。そう言えば、先週の某研修の感想にも、一人だけそう書いていた人もいたっけ(笑)
自分の弱点は、自分の個性や本質の表れである。直したくなければ、別に直さなくてもいい。でも、それを無痛と思わず、何らかの「痛み」を感じるのであれば、虚勢を張らず、そのことと正直に向き合っても良い。最近、そう思い始めている。それが、身体の五臓六腑や五感のセンサーの感度の上昇、体調や体温の微妙な変化への気づきとも同期していると思う。
ならば、2月3月は講演が多いが、その一つ一つの講演も、内容を伝えるだけでなく、伝え方(=形式)で、どう緊張を下げ、かつその中に魂を込める、という技芸が磨けるか、も考えないとと思う。本当の臨床家は、メッセージを届ける、だけでなく、相手に受け取りやすい内容と形式で届けている。自分自身にとって、その部分は、生き方の模索であり、かつ花粉症の治療でもある。近視眼的現世利益と、中長期的実存の問題は、「テンションの高さ」というところで、離れがたく結びついている。これとどう向き合うか。明日で年男を迎える自分の、これからの課題でもある。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。