雪景色の大斎原(おおゆのはら)には、誰もいなかった。何もない空間に、雪が降り続けていた。だが、昨日見た八咫烏(やたがらす)が金色に光る大鳥居を心の中に想起させると、そこにはかつて何かがあったし、今も何かがあるのではないか、という実感が、今でもじんわりと沸いてくる。昨日は、そんな希有な経験ができた。
さて、事の発端は、3年前に遡る。もともと、三重県の障害者福祉に関する特別アドバイザーの仕事を頼まれたのが、ご縁を頂くきっかけ。当初は、人材育成を目的とした研修のお手伝いを頼まれていた。だが、1年、2年と続けていくうちに、当たり前の事だが、人材育成と地域作りは地続きで連続性があることに気付き始める。その中で、松阪や伊賀、伊勢、鳥羽など県内のいくつかの市にもお呼び頂き、やりとりを続けてきた。特に鳥羽市では尊敬する北野誠一さんと一緒に自立支援協議会の立ち上げ支援に参画し、大変面白い展開を肌身で感じることができた。
そういう流れの中で、先週末、熊野にお呼び頂く。紀南・紀北地域という、三重県南部は、最も社会資源が少なく、県庁所在地である津から行くのも遠く、情報も人口も人材も少なく・・・と様々な好ましくない条件が重なっている。その中で、どう地域作りをしていったらよいか、のきっかけ作りになるような講演会を午前に開いた上で、午後はコアなメンバーでの戦略会議的なグループワークに関わって頂きたい、というご依頼を受けた。
私は別に街作りのプロではない。が、ミクロレベルの個別支援だけでなく、支援組織の変革(メゾ)や地域自立支援協議会を通じた地域作り(マクロ)に関われる人材育成、という事に携わっているうちに、何となく地域毎の特性を踏まえた、その地域らしい展開のあり方とは何か、についてのアドバイスを求められるようになってきた。そんな力も経験もないのだが、求められたら応答責任を感じてしまったお節介タケバタは、山梨でも三重でも、無い知恵を振り絞って考えているうちに、メゾからマクロにかけての地域支援とミクロレベルの個別支援との解離に気づいた。その解決は、地域毎に当然その方法が違うのだが、少なくともどういう歪みがあるのか、あるいはどこから焦点化していけば解決の糸口が見つかるのか、を一緒に探る事くらいは出来そうだ。そんな気持ちで、共に問題を探す探偵業、というか、その地域課題(=ゆがみの部分)を指摘する整体士のような、ともかくそんな臨床家的な仕事に関わるようになった。
今回も紀南・紀北で求められたのは、そのような臨床家役割。どこまで出来るか分からないけど、と思いながら、津の研修ではなかなかお会い出来ない方々に、こちらから出かけてお話しさせて頂くチャンスはそうないので、喜んで出かけた。甲府から7時間強、の汽車旅はなかなかハードだったが、沢山の学びがあった。
今回、行きの列車の中では、この地域についての両極端の本を二冊、抱えていた。
『神々の眠る「熊野」を歩く』(植島啓司著、集英社)
『紀州-木の国・根の国物語』(中上健次著、角川文庫)
前者が熊野の聖や光に焦点化したとすると、後者は熊野の賤や影をルポした作品。だが、熊野の聖性の中には、自然の驚異も含めた影の部分が折り重なり、差別を主題化した紀州の影の物語にも、その土地を生きる人々の力強さという光が差し込んでいる。交互に読み進めながら、少しずつ紀南・紀北にも馴染んでいくのには良い「予習」だった。
そして、一昨日の一日研修を通じて聞こえてきたのは、ある意味、両側面の双方が鈍化した中での地域課題としての析出、という形であろうか。荒くれ者の漁師町や博打打ち的な馬喰・木材商、それらに支えられた遊郭、等の光と影、という中上健次が主題化した世界は、彼のルポが書かれた1977年にはまだ根強く前景化していたが、今はすっかり後景化している。ある種のグローバル化、ではないが、熊野らしい地域課題ではなく、全国の地方に共通する課題、高齢化率も上昇し、不景気で町全体に元気がない、という課題が前景化している。良くも悪くも地域を支えた・縛った「らしさ」が鈍磨しつつある。その一方で、山も海もある豊かな自然と温暖な気候に支えられた人間関係の豊かさは、残っている。時間感覚のゆっくりさ、もスローな生き方、なんて言う以前から、当たり前の前提としてある。確かにその中から排除されてしまう人がいる、という問題もあるが、でも人の優しさ、地元に対する愛着度、などは紀南・紀北の人々にとって、大きな自信の源になっていることも、よく分かった。
そんな紀北や紀南の実情を変えるために、僕が一昨日のたった1日の研修で出来た事は、きっかけ作り、にしかすぎない。ただ、本人中心や社会モデル、という支援の原則と、その地域・組織・人固有の物語を活かした支援体制作り、という普遍性とローカリティの融合が大切だ、ということは、ご理解頂けたようだ。国の方針や教科書的知識は、特に「困難事例」を前にすると付け焼き刃的にしかならない。その際、ご本人に寄り添う、という意味のローカリティと、本人中心という支援の原則に照らした、探偵業的な解決の糸口探しが求められる。これは、何も個別ケースだけでなく、「その地域における解決困難な事例」を考える地域自立支援協議会や、地域包括支援センターの仕事にも直結している。そういうメゾ・マクロ支援においても、国の動向や教科書的知識に流される事無く、本人中心という原則と、その地域のこれまで・今・これからというローカリティの文脈をどう読み解くのか、そして地域の物語をどう書き換えていくのか、が求められている。そんな事を、いつもよりは少しゆっくりと、お話ししたつもりだ。(それでも紀州時間では早口だったのだろうが…)
で、そんな仕事をこってり終えて、昨日は県の方がわざわざ休みを取って下さり、熊野から本宮、新宮と半日のことりっぷに連れて行って下さった。圧倒的な印象に残ったのが、冒頭に挙げた熊野の本宮跡である大斎原と、新宮の南方熊楠記念館。
大斎原の何もなさ、は、行きの列車の中で読んでいた、ノーベル賞受賞者のエリ・ヴィーゼルのインタビュー記事を想起させた。
ナチスの強制収容所経験を持つ彼は、エジプト革命がツイッターやフェイスブックを通じて伝播した事を聞かれ、情報が膨大になることによって、人々の関心が散逸し、少し前の出来事もすぐに忘れ去ってしまうことに警句を述べる。「目撃者として気にし続けることは、大きな状況への関わりである。(Bearing witness is a huge commitment) 」という言葉に代表されるように、日々過ぎ去りゆくこと、雑事にかまけていくうちに「過去」とされる記憶にどれほど寄り添い、関わり続けるか、が大切であると感じる。例えば熊野の記憶。聖なる土地と言われた時代があり、その後明治から大正、昭和にかけて、文明開化の過度な影響を受けて廃仏毀釈や近代産業を重視しすぎた結果、木材を切り倒し、自然が荒廃し、神社も寺も廃れ、大斎原も流されてしまった。その後、昭和の60年の間に、紀伊の国の光も影も含めた地域特性も、鈍磨してしまった。
でも、その事に単に悲嘆するのではなく、その地域の固有の物語に耳を傾け続け、そこから普遍的な支援原理と接続させる中で、その地域らしい住みやすさの追求という新たな物語をどう捉え直せるか。これは、目をそらさずに目撃者として関わり続ける中でしか、生まれてこない。地域生活支援という営みは、特に過疎が進む地域においては、単に目撃者であるだけでなく、福祉以外の商工や観光などの領域も視野に入れ、関わり続ける事が求められているのかもしれない。その中で、町の歴史という記憶に、新たな光を差し入れる役割を持っているのかもしれない。二泊三日で、そんな事を考えていた。