楽しみを掘り起こす

ようやっとお休みの日曜日。昨日は学会のお仕事を終えて、懇親会で空きっ腹にビールがダメだったのか、はたまた気が抜けたからか、少ししか飲んでいないのに、茅ヶ崎駅前でクラクラになっていた。スタバでカプチーノを飲んで体制を立て直し、何とか終電で甲府までたどり着く。ヘビーだった。

昨夕、とにかく寝過ごしてはまずい、と読み始めた森博嗣氏の『自分探しと楽しさについて』(集英社新書)。彼の集英社新書の前作3部作は、非常に面白いだけでなく、僕自身の生き方を見つめなおす上でも非常に参考になった(ブログにもかいていた)。なので、今回も早速一昨日の出張の帰りに松本駅の本屋で手に取る。満を持して昨晩読み始めたのだが、何度も頷きながら読んでいると、文量も少ないこともあって、あっという間に読み終えてしまった。ただ、今回は直接引用するというよりも、印象に残ったところを、自分の言葉で咀嚼してみたい。
他人が(往々にして商業目的で)提供する安易で快適な「楽しみ」のパッケージを消費するだけ、よりも、自分で試行錯誤しながら楽しみを見つけ出し何かを創り出す、そしてそのプロセスを楽しむ方が、よほどワクワク出来るのではないか。
彼のメッセージを僕はこう受け取ったが、そこには深く納得する。僕は工作をしないから、ものづくりそのものの楽しさは分からないけれど、似た体験として、料理を思い浮かべる。最初から「○○をつくる」と決めて、料理本に書かれた通りの具材を全て用意して、調味料をグラム単位で計り、レシピ本を再現する、というのは、僕には全く向いていない。その日の冷蔵庫にある物で、時には奥さんの要望も聞きながら、昨日の食事とアレンジを変え、飲む酒に合わせる形で何かを作り上げる。そのプロセスに没頭すること自体が楽しいし、それが見事美味しく出来上がって、楽しんで食べてもらえたら、尚更楽しい。そこには、他者からの押しつけではなく、自分で選び取り、試行錯誤した楽しさがある。もちろん、レシピ本は参考にする場合もある。その場合でも、徐々に自家薬籠中のものとし、自分の中で血肉化して、記号論的消費ではなく、生きた経験としての料理の可能性が拡がる、ということが、楽しいのかも知れない。
そして、森氏の意見とこれも全く同意見だったのが、他人と比べるのではなく、比べるなら昨日の自分と比べる、という視点。僕も未だに他者の成果を見て、自己卑下することも、もちろんある。でも、そういう時って、眠いかお腹空いているか、疲れているか、あるいはそのどれか(全部)が重なる時である。つまり、まともな思考能力が減退している時に限って、他人と比較するという悪弊がゾンビのように蘇ってくる。しかし、私よりも良くできた奥さんは、僕がそうグチグチ言い始めると、「はよ寝たら?」と一喝。事実、翌朝にはそのぐちぐちした気分がすっかり消えているのだから、全く彼女の言うとおりである。
生きているのは、あなたでも、かれでもなく、僕自身。僕が死んだら、僕を巡る世界はオシマイとなる。しかも、そのオシマイの日付は、自分では全く予想が出来ない。ならば、生きている日々を、昨日よりも今日、今日よりも明日、楽しめたら、これほどハッピーなことはない。毎日すべきことは勿論あるけれど、森氏は「それって本当に断れないの?」と指摘する。断れないと拘っている限り、楽しみを制限しているだけではないか、と僕は受け取った。
やりたいこと、できること、そして求められていること。この三つの調和が大切、という福田和也氏の著作を以前にご紹介したが、結局のところ、できることと求められていることがある程度増えてくる中で、ある時点から「やりたいこと」は意識しないと完遂する時間的、精神的余裕が無くなってくる。世間ではそれを「忙殺」と言う。何という言葉だろう。忙しさに、殺されるとは。とはいえ、以前の僕は、正直に告白すると、「できること」「求められていること」を「やりたいこと」と錯覚して、忙殺=自己実現、と錯覚していた。忙しいことが、スキルがあがる、だけでなく、充実している事と錯覚していたのだ。だが、合気道という純粋な(=仕事と全く関係のない)「楽しさ」と出会ったあと、どうも忙殺されていては、練習時間が取れない、ということがわかってきた。3月に今度は3級の昇級試験があるが、今日を入れてあと4回しか練習時間はとれない。本当は5回のはずだったのだが、優先順位の極めて高い「求められていること」にまで、流石に無碍には出来なかった。
もちろん社会貢献として、他人にお役に立てる事をしたい、と思う僕が一方ではいる。だが、昨年あたりのコペルニクス的転回で気付き始めたのは、自分の「やりたい」「楽しい」を一方で充実させないと、本業も煮詰まってしまい、充実感とは対極の、虚しさが充満してしまう、ということだ。ワークライフバランス、なんて言葉を使わなくても、自分の魂にとって良い事とは、今のところ、仕事が凝集性の高い物になっていけばいくほど、対極にある「楽しさ」も試行錯誤しながら、うまい塩梅のバランスをとることだ、と気付き始めたのである。
あと、さすが工学博士だな、と思った森氏のフレーズで興味深かったこと。「自分が楽しい・やりがいがあると思う事は、どういう時に、どんなことをしているか、を抽象的に考えていくと、他の事をする際の楽しさにも応用出来る」といったようなフレーズもあった(今日は敢えて原典を見ずに書いているので、気になる方は新書を買ってください)。
そう、楽しみややりがいの「エッセンス(=本質)」を掴み出すことは、自分の癖の本質を知る事でもあり、自分がそれを他分野にどう応用出来るか、の展開可能性も模索できるチャンスでもある。つまらない人間関係や悪口的批評に毒されているより、こういう楽しい事をちゃんと自分の頭で考えたい、ともつくづく感じた。
なになに?
 「合気道だけでは楽しみが足らんなぁ」
 「もうちょっと楽しめるんとちゃう?」
こんな悪魔のささやきが、心の何処かから聞こえてきた。さて、何を楽しもうかしらん。明日からまた仕事モードに戻るので、今日はそれをのんびり考えてワクワクしよう。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。