断片化と関連づけ

ここ20日間ほど休みがないので、結構全身ぐったりしている。一昨日は東京、昨日は甲府、今日は長野、明日は茅ヶ崎。そしてようやく明後日がお休みで、大切な合気道のお稽古。毎日場所を変えていると、何だかエントロピーが増大して、頭の中がぐしゃぐしゃになりつつある。昨晩は早く寝て、今朝は5時に目が覚めてしまったので、バラバラになりかけた頭の中を少しだけ整理しておきたい。

情報の断片化やフラグメント。
パソコンは、昔はしばしばフラグメント化された中身を「最適化」する作業をしないと、作業が鈍くなった。最近のものであっても、たまにそういうPCの中身のお掃除をしないと、反応速度がのろくなる。あの最適化作業を眺めていて面白いのは、バラバラに散らばった、青や黄色や赤で象徴化されたデータが、徐々にまとまり毎に整理されていく様相だ。
最適化が必要なのは、現実社会においても同様ではないか、と思う。
特に今のように、情報が錯綜し、溢れすぎる情報が奔流していると、そう感じる。朝からツイッターで昨晩からのタイムラインをボンヤリ眺めているだけで、あっという間に時間が過ぎてしまう。Gメールに、大学とニフティからの転送されてきたメールも、一晩でごっそり溜まっている。ウェブもチェックしたいし、最近はキンドルでインターナショナル・ヘラルド・トリビューン(ヘラトリ)を読み出したら面白くてつい見てしまう。読みたい本もわんさか溜まっている。気がつけば、インプット過多、というか、溢れすぎているような気がする。その中で、多分ぐちゃぐちゃに脳の中で情報の断片化が起きているような気がする。ちなみに言えば、上述のように、2月は出張がめちゃくちゃおおいので、スケジュールの断片化、も激しい。
そういう時だからこそ、意識して情報と思考の「関連づけ」と「まとめ上げ」が大切なような気がしている。
最近、アクチュアルな関心を持つ内容については、外見的・表層的なタグとしては無限定に読み進めている。エジプトの革命、渋沢栄一の伝記、河合隼雄に昭和天皇の論考・・・一見したところ、あまりに無限定で雑学王的な読み方だ。でも、自分の中では、ここしばらくコミットしている仕事の背後にあるコンテキスト理解のために、大切な断片である、と感じている。
例えば昨日は地域包括支援センターの職員研修だった。山梨ではありがたい事に、東京や大阪で教員をしていては、普通は頂けないご縁を頂ける。障害者福祉の専門である僕が、高齢者分野で講師をさせてもらえることは、まずない。専門家が一杯いるからだ。更に、年長のエライ先生が多くいると、若輩の僕にチャンスなど回ってこない。でも、山梨では不思議とご縁を頂き、障害者分野にもみっちり4年ほど関わり、高齢者も主任ケアマネ研修から3年ほど関わり、芋づる式に昨日は包括の研修、来週は居宅ケアマネの研修に立ち会わせて頂く。そして高齢者分野の支援者の方々と関わって、問題は障害と非常に重なっている、と実感する。
その研修の中で、高齢障害問わず、今求められているのは、メゾレベルの課題である。個別支援というミクロと、制度改革や市町村レベルの福祉計画というマクロ、この二つの解離が激しい。どうやって、その地域における解決困難事例を、町の課題として計画や施策に反映するか。このメゾレベルでのギアチェンジに苦しんでいるのが、地域包括支援センターと地域自立支援協議会の共通課題であったりする。そして、そういうメゾレベルの課題については、その地域のコンテキストを読み込んだ上で、地域の物語の編み直しを、官官、官民、民民の壁を越えて共同編集し、物語の再構築をする必要があるため、マクドナルド的な全国一律の対応などはなからできっこない。で、そういう内容は「コミュニティーソーシャルワーク」とか、「地域福祉」というジャンルで呼ばれているようだが、個別地域の物語(ミクロ)を越えて、あるいは難しい理論の羅列(マクロ)でもなく、ミクロレベルでの困惑に寄り添うテキストもあまり見られない。そこで、こちらにお鉢が回ってくるのである。気がつけば、博論以来、ずっとメゾレベルの研究と実践をしているような気もする。
そして、メゾレベルの問題に取り組んでいて、かつ福祉領域であまり役立つ「先行研究」やノウハウがないと、ついつい目は他領域に向かってしまう。「学習する組織」や「非営利組織のマネジメント」などの組織論を囓っていったのも、現場で求められている事に応えるための、付け焼き刃的アプローチが最初だった。
だが、無理をしても周辺領域の本を読み漁っているうちに、どうやら福祉だけで閉じてしまうことの問題性も見えてきた。メゾレベルでの問題解決を志向している、という自分の視座さえ固まれば、表面的なジャンルが何であれ、その本とのご縁を感じる事が出来れば、内容から学べる物は少なくないのではないか、と。
例えばエジプトの革命が、今、凄く気になる。国内の新聞はようやく最近解説を始めたが、2週間前は、本当に報道が断片的だった。今までドメスティックな関心しか持てなかったが、今回はなぜか凄く気になって、ツイッターでエジプト人の英語ツイートでアルジャジーラーの内容をフォローし(そのアカウント自体もツイッターで知った)、そして忙しくてお蔵入りしていたキンドルを引っ張り出して、先述のヘラトリを読み始めた。我が家は未だに地デジ化してないアナログで、しかも数ヶ月後に引っ越す予定なので、衛星放送の対応も新居でいいや、と思いしていない。なのでBSも見れないので、意識しないと情報が本当に入ってこない。しかし、逆に言えば情報を意識して取り出すと、そこには自分の関心領域との関連性が、最近少し見えてきた。
それは、「政策の窓」に関するものだ。
キングタンは「政策の窓」モデルの中で、「問題の流れ」「政策の流れ」「政治の流れ」の三つの流れがある、という。そして、その流れがそれぞれ平行線を辿っている時は、どんなにエネルギーを傾けても、機が熟さず、物事は変わらない。しかし、問題の極大化に政策が気づき、それと政治家のアクションが同期したティッピングポイントを迎えた時、急に物事が反転し、大きな政策転換が起こるチャンスを迎える、という。エジプトの革命を、その前夜から眺めていると、3つの流れの押し合いへし合いが、大洪水のように奔流し、結果としてのムバラ
ク大統領の演説と、その直後の大きな抵抗、そして数時間後の政権崩壊へと進んでいった。そして、チュニジアからエジプト、そしてバーレーンなどに伝わりつつある流れの背景について、ヘラトリで興味深い記事も読んだ。ガンジーの流れを組むアメリカの政治学者、Gene Sharpの非暴力革命の考えは、セルビア経由でアラブの若者にも引き継がれた。それとネットによる国民へのメッセージ伝達の相乗効果が繋がった結果、というのだ。さらには、オバマ大統領のムバラク追放の容認の背景には、アルカイダへの対抗勢力を、今の若者達の民主化運動の中に見出している、とも。
事の正否はわからない。だが、コンテキストの転換点、ティッピングポイントを巡る物語、として眺めると、非常に他人事には思えない。
今、我が国の政治は、本当に混沌としている。そして、霞ヶ関の官主導も、非常に混沌としている。この前の、内閣府障害者制度改革推進会議、総合福祉法部会。私たち部会委員が出した中間まとめに関して、厚労省の「コメント」は、ほぼ全否定だった。きつく言うと、「出来ない言い訳のオンパレード」だった。国の審議会で、国自身がその委員の内容に全否定する、というのは、恐らく殆ど見られない光景だ。そのヒステリックにも見える厚労省のコメントと現状肯定の論調をみていても、それだけ、今、内務省以来続いている霞ヶ関の伝統も揺らいでいる、と感じている。
インド、セルビア、エジプト・・・、ではないが、「窓」が揺れている、開きつつあるのは、他国だけでなく、アクチュアルな日本の今の問題でもある、と感じている。そして、それは先ほどのメゾレベルの話にも繋がる。
地域包括支援センターと地域自立支援協議会に共通するのは、そのような中央の政策の歪みや限界が、現場の中で極大化しつつある、という現状だ。困難事例の高まり、地域力の低下、社会資源の少なさ・・・等の課題に、以前なら厚労省は輝かしい解決モデル案を示し、それを主管課長会議で示された都道府県が「伝達研修」をして、という上意下達型の中央集権的モデルで収斂できていた。だが、今は、国は膨大な資料を出してはいるけど、元を辿るとどこかの成功モデルを国モデル化しただけに過ぎない。つまり、中央集権的な政策主導に、かなりのかげりが見え始めている。一言で言うと、国の情報を待っていても、あんまり期待出来ない。
その中で、現場の疲弊感、待ったなしの現状を変えるためには、メゾレベルで何とかするプレイングマネージャー力が求められているのである。それは、コンテキストが開いた時に、瞬時に判断して、局面を切り開く力、とも言えるだろう。そして、それは幕末から明治の当初の混乱期を乗り越えた、渋沢栄一の内在的論理を読んでいても、非常に参考になるのだ。
話は右往左往した。
でも、そういうコンテキストを抱きながら、目の前の日々の仕事に取り組んでいると、複眼的・立体的に物事が見えてきて、忙しいけど、くたびれるけど、面白い。まだ、完全には関連づけ出来ていないが、自分の中では、ノーマライゼーション生成の議論も、あるいは1968年的な状況の変容局面も、その意味では「関係あり」とみている。だが、忙しくてなかなか文献を読み進める時間もなくて、それを確かめきれない。
しかし、渋沢栄一伝を書いている鹿島茂氏の言葉を借りれば、渋沢栄一が強みとして持っていた「帰納的能力」とは、ある種のメゾレベルの力なのかもしれない。現場の事象から、、その背後にあるシステムを見抜く能力。今日は児童・障害者・高齢者の施設での苦情を受け付ける担当者の研修がある(本当にあれこれしてますね)。でも、その現場で出てくるリアリティと、昨日の地域包括支援センターで出てきたリアリティ、それに国の改革の話など、システム的な課題として、共通している。問題は、一件断片的に見えるもの、氷山の下に隠れているものを、その断片を拾いながら、どうやってメゾレベルの共通性として整理し、現前化して見えるようにしていくか、ということである。それが出来た時には、政策提言としても、あるいは論文や著述としても、一つの説得力をもって、響く。あるいはそれが「政策の窓」が開いた瞬間であれば、コンテキストの変容にも役立つかもしれない。
そのタイミングはいつ来るかわからない。だが、そのタイミングに向けて、バタバタしながらも、「まとめ上げ」と「関連づけ」だけは、怠らないでいたい、そう思う。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。