やりたいこと、できること、そして求められていること

ここしばらく、日程的にキツイ日々が続いている。

6月末〆切の原稿が終わらず、今週末にある程度固めておかないと、来週は海外出張も入っている。こんなに忙しくなるなんて先のことまで考えずに学会発表のエントリーをしてしまったわが身を恨んでも、後の祭り。あと、何だか今日は研究室にかかってくる電話も多くて、しかも断れない筋からの依頼ごとで、二つの研修を引き受けてしまった・・・。
ああいう研修に際して、今日電話がかかってきた方からも聞かれたのだが、「○○円くらいしか出せないのですが、それでも来て頂けるでしょうか?」という形でのおたずねが時々ある。世の中では研究者でもビジネスライクな方もおられ、こないだとある研究者のHPを見ていたら「講演は30万円から」等と書かれていた。すごいですね。僕はそんな値段を付けられるはずもないし、もちろんそんな多額を貰ったこともない。いつも言うのは「障害者福祉制度と同じで応能負担で結構です」と原則的に申し上げている。
あと、率直に言うと、対価は確かに有り難いが、あくまでも金銭はメディア(媒介物)だと思っている。高額な謝金を頂いても、あんまり気持ちの良い仕事が出来なければ、うんざりする。逆に、謝金自体はどうであれ、その現場の方々の熱意やこちらへの配慮が伝わり、その現場に貢献したい、という気持ちになれば、万難を排して引き受ける。今日の依頼も、後者の依頼であったので、謝金の話に関係なく、引き受けた。これは各人の仕事観に基づくものなので、他人のアプローチに口を挟むつもりはないが、自分自身は、僕自身のミッションに添う形での上記の原則を大切にしている。
そのことを改めて意識化・先鋭化させてくれるフレーズに、ちょうどこないだ読んでいた本を通じて出会った。
「意義のある人生を送るためには、三つのことを串刺しにしなければならない。
まず、君のやりたいこと。次に、君の出来ること。そして、世間が求めること。
この三つを貫く立場をもてれば、君は自分のやりたいことを、存分にやりながら、なおかつ世間から存在をゆるされて、そのできる、やりたいことで生活をしていくことができる。(略)
本当に意義のある人生は、この三つのところにしかない。だから、それは本当に難しいことなんだよ。にもかかわらず、何とかそれを実現しようとするならば、この三つが何とかなるように努力をしなければならない。志望と能力が一致するように、能力を充実させること、世間の都合と志望や能力が一致するように、世間への働きかけ方、その方向性を吟味すること。
その三つを一致させるという視点に立って、自分の仕事と世間を見渡すということ。それが大事なことなんだ。」(福田和也『岐路に立つ君へ』小学館文庫p132-135)
やりたいこと(志望)と、出来ること(能力)、そして世間が求めること(世間の都合)の三つを「串刺し」することが、「意義のある人生を送るために」大切なこと。この筆者の語りは、今の自分には本当にストンと落ちる。20代は、「やりたいこと」を大声で叫んでいたが、「出来ること」は(今でも限られているが、当時はもっと)限定されていて、世間どころか誰にも求められていない、という感覚が強かった。なので、師匠に弟子入りして、現場の「父」「母」に鍛えられ、「出来ること」を少しずつ伸ばしていった日々だった。そして、博論を書き終えた後の二年間という兼業主夫兼半フリーター的日々には、「出来ること」があると鼻高々になっていたのに、どこにも就職出来ず、「世間が求めること」に合わない自分に悶々としていた。
それが、山梨で職を得て、働き始めることによって、状況が一変する。肩書きがついてしまうと、「世間が求めること」が増え始め、それに対応するなかで、「出来ること」も少しずつ増えていく。だが、そうやって漫然と「世間の都合」に従っていると、「やりたいこと」から埋没してしまう。なので、このブログを書き始めた事もその一環なのだが、かならずどんなに忙しくても、「出来ること」「世間が求めること」以外の事にアクセスするように心がけている。来週の学会発表だって、確かに誰もそんな発表を求めていないかも知れない。海外学会の発表は、この2年で三回ほど発表し、どの時も正直言って満足な成果を出せていなかった。その度にとほほ、とする。少なくとも「世間の都合」に合う現場に呼ばれて行った方がちやほやもされる。
だが、それでは牙が抜かれた狼のようになってしまう。自分なりの「やりたいこと」という牙は、なかなか理解されず、着地しない。でも、それはその牙の見せ方・伝え方(=出来ること)に限りがあったり、煮詰められていないため、「世間が求めること」と一致していないだけなのだ。であるのに、「世間が求めていない」から、と安易にその「やりたいこと」を放棄して、「できること」「世間の都合」に迎合しているうちに、すっかり魂が抜かれた「御用学者」に仕上がる。誰の御用になるにせよ、誰かの都合に迎合すること、それだけは、絶対に嫌だ、と思う。
その為には、「求められていること」や「できること」が多い日々であっても、少しでもいいから、「やりたいこと」を入れていきたい。これは、仕事だけじゃない。遊びだって、合気道だって同じ。そう言えば、再来週は5級の昇級試験もある。これも本当に「やりたいこと」。こういう事を、仕事が忙しいからと断るようでは、結果的に牙が抜かれていくような気がする。だから、どんなに忙しくても、いや忙しいからこそ、「出来ること」という能力開発にどん欲になり、「世間の都合」には原則に合う範囲で応え、その合間を縫って「やりたいこと」をし続けなければならない、と思う。
さて、あと45分でゼミが始まるので、その前に「やりたいこと」モードに入るとしよう。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。