異化と同化、アウフヘーベン

普段フォローさせて頂いている、支援現場の方のブログで、気になることが書かれていた。
『当事者」に向かって「声をあげろ」というのは、しばしば暴力的だ。本来は、声の大きさに関係なく「聞いてまわる」べきなのだ。ひとりひとり、丁寧に。できうる限り。』(1日250ページビューの無力感
まさに、その通りだよなぁ、と思う。ただ、一方で「ニーズ調査」に代表されるような、障害当事者に向かって丁寧に聴き取る努力をしようとしない中央集権的な構造の中で、それでも「代表者」の声を聞こうとする会議が開かれている。でも、この支援者が書いておられるように、「さまざまなアクションを起こせるのは、それを可能とする条件をいくつも整えられた人々であり、圧倒的な少数派」であることは間違いない。ゆえに、「自分の意見を表明するのが難しい人たちのことを当事者主体の中でどう考えるかについて、なぜ議論されないのか」という問いが、本来ならば真っ先に論じられてしかるべきだ。だが、2013年8月までに、自立支援法に変わる新たな法律を作ると国が宣言し、その為には来年の夏までに新法の骨格を作らなければならない、という待ったなしの現実を前にして、既に制度改変に向けた議論に突入してしまっている。そして、この動きに対する批判や揶揄、否定的な見方も沢山ある。
これまでの僕は、あくまでも外野の一員として、批判的に眺めていた。だが、気づけば内野のプレイヤーの一人に結果的になってしまった。55人という大所帯では目立たないけれど、間違いなく「代表者」の一人である。
そのフィールドプレイヤーの一人として、とにもかくにも「内輪もめ」を避けて、少しでも建設的な未来に向けた対話を始めるにはどうしたらいいのか、をいつも考えている。福祉学科ではない法学部で講義をしていて常に思うのだが、最初から障害者に興味のある一般学生は殆どいない。むしろ、毎年の講義の始めには、障害者は入所施設でハッピーに暮らせたらいいじゃないか、とか、自分も不可逆的な障害を負ったら死んだ方がましだ、という「一般常識」に縛られている学生たちの感想が、繰り返し出てくる。教員としては、そんな「一般常識」を、どうひっくり返して、学生が納得してくれるか、を考える為に必死になっている。
そんな「一般常識」の界に接する人間としては、「障害者支援」という「普通の人が興味を持たない特殊な眼鏡」を共有する関係者は、立場や位置づけが、障害別や当事者、家族、支援者、研究者、行政等で違っても、広い意味で同じ方向性にあるべきではないか、と捉えている。差別や偏見の眼鏡が少なくない一般社会のコンテキストを書き換えるために、眼鏡を共有する関係者が同じ方向で歩まなくては、何も変わらない、と思う。だが、現実はその逆で、小さい「界」の内部では、連帯ではなく「内ゲバ」状態が時折見られる。この現実に、大きな悲しみを覚える。そこには、政局というファクターが入るので余計にややこしいのだが、改正自立支援法案の問題も、その是非ではなく、連帯を妨げる分断的要素が大きすぎる、という点で、非常に残念な問題だった、と思う。
一人一人の声を聴き続けること、そして大同小異としてまとまっていくこと。この異化と同化のプロセスは、どちらかだけが大切なのではなく、常に両方が大切なのである。このことを見据えて、政策形成という場にどのようにコミットし続ければいいのだろうか。本来は、異化と同化のアウフヘーベンなのだろう、と頭ではわかる。でも、「自分の意見を表明するのが難しい人たち」の声が聴かれていないという不信感が現前として存在する。その差異にどうすればちゃんと耳を傾けられるのか。その上で、全体としてどのような方向性を持って、新たなコンテキストを創り出すことが出来るのか。それを、残り1年という厳しい日程の中で、どう現実的に編み上げていけるのか。日々、このことを考え続けている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。