メディアの同心円的閉鎖性

最近、手に取る本の「引き」がいい。

「読むべし」という本よりも、「読みたい」という本能や直感を大切にしている。ただ、その時に闇雲、というよりも、自分と本との距離感というか、今感じているテーマに引きつける、関連づけることを意識している。パラパラめくって関係のありそうなフレーズが飛び込んでくると、その「ご縁」をきっかけに読み進める。そういうシントピカルな読みの中で、今回も頷くことの多かった本のご紹介。
「キュレーション・ジャーナリズムという言葉も生まれてきています。一次情報を取材して書くという行為の価値はインターネット時代に入ってもなくなるわけではありません。しかしそうした一次取材を行うジャーナリストと同じくらいに、すでにある膨大な情報を仕分けして、それらの情報が持つ意味を読者にわかりやすく提示できるジャーナリストの価値も高まってきています。」(佐々木俊尚『キュレーションの時代』ちくま新書、p242)
これは情報の編集と提示、というと、松岡正剛的な発想であり、あるいは実際にそれを地でいくジャーナリストとしては、例えば田中宇氏の存在を思い起こす。中東の情勢をツイッターとヘラトリで追いかけているが、田中氏の読みは、それとは違う側面からのキュレーション(独自の視座の編集と提示)がしっかりしていて、面白い。ジャーナリストではないが、寺島実朗氏は間違いなく一級の政財界キュレーターであるだろう。佐藤優氏は、外務省にとってのロシア情勢のキュレーターだったが、ああいう形でパージされた後、著作活動を通じてキュレーション・ジャーナリストの一角を占めている、とも見ることができる。
そして、IT界のキュレーターとしての名前を何となく知っていた佐々木氏の本の中では、キュレーションに欠かせない視座について、示唆に富む指摘がなされている。
「視座とはすなわち、コンテキストを付与する人々の行為にほかなりません。そして私たちはその<視座=人>にチェックインすることによって、その人のコンテキストという窓から世界を見る。」(同上、p204)
ああ、と思い当たる。ツイッターを始めて丁度1年が立つが、この一年でものの見方が大きく変わった。日本のニュースやマスコミへの信頼度が下がった。確かにツイッターをを鵜呑みにしている危険性があるから、と、海外の新聞(インターナショナル・ヘラルド・トリビューン:ヘラトリ)も読んでいる。我が家は某A新聞も紙でとっている。地デジはないのでアナログテレビもある。だが、ここ最近の日本の大手各局の報道はすごく内向きで、見るに堪えない、と思うようになる。それより、ヘラトリやツイッターで流れてくる中東情勢の方が実に「世界を見る窓」としては有益なのだ。A新聞も、さすがに最近は中東のことについて日本語で分かりやすく書いてくれるようになったが、初期段階は報じる分量も少なく、がっくり来ていた。
なにも昔からそんなに日本の新聞・TVが嫌いだった訳ではない。小学生の頃なんて、全く自慢にもならないが休みの日など12時間テレビにかぶりついていたし、特に報道ステーションやNHK特集などが大好きなニュースっ子だった。久米さんみたいな人に憧れて、将来はジャーナリストになりたい、なんて夢想もしていた。大学院に行くことを決めたのも、指導教官がジャーナリストだったから、その弟子入りができる、という甘い期待を抱いていたのも事実である。それくらい、日本のメディアには憧れと尊敬を抱いていた。
しかし、ここ数年、日本のメディアと自分自身の間に、何だか解消しがたいズレのようなものを感じていた。それを佐々木氏は、自分にとっての有価値とする範囲や境界という意味である「セマンティック・ボーダー」という言葉を使って、こう整理している。
「自己完結的な閉鎖系は、情報の流れを固定させ、そしてまた情報が内部の法則によってコントロールされてしまうことで、硬直していきます。この硬直は、同心円的な戦後のムラ社会には都合がよかったとも言えるでしょう。(略) 一方でソーシャルメディアの不確定な情報流通は、外部から情報が流れ込み、セマンティック・ボーダーがつねに組み替えられて、それによてt内部の法則が次々と変わっていくことで、つねに情報に『ゆらぎ』が生じている。この『ゆらぎ』こそが、私たちの社会を健全に発展させていくための原動力になっていくのは間違いない。ゆらぎのない硬直化した同心円的閉鎖社会から、私たちは『ゆらぎ』をつねに生み出すダイナミックな多心円的オープン社会へと、いまや踏み込みつつあります。」(同上、p260)
そう、中東情勢よりもパンダ来日を大きく取り扱ったり、地震でも現地の被災者の様子は殆どなくて邦人保護の問題だけを主軸にしたり(もちろん邦人の方々の無事の救出を私自身も願っているが)、リビアの「市民戦争」状態についての解説で「日本の経済への影響は限定的」と言ってみたり・・・。このマスコミの口ぶり自体が、非常に「同心円的な戦後のムラ社会」的ありようそのものなのである。今の「小沢VS管VS野党」的な報道にも、その硬直性を感じてしまうのは気のせいだろうか。そういう記事ばかり読んでいる時に、自分の直感とのズレが激しくて、正直新聞を読むのが嫌になりつつある自分が居る。
その時、オルタナティブな情報、メディアと接してみると、なるほどこういう読みや見方もあったなぁ、とハッとさせられる。ヘラトリは、やはり文字数が日本の新聞より多い。1200語が平均で、エジプト革命の背景などを分析する時には、その倍の2500語くらいが割かれる。それくらいあると、ある程度深みのある記事が出てくる。一方、速報性はツイッターで、ガダフィ大佐の演説もライブで英訳して流してくれている。新聞を開く前にツイッターのTLで概略がわかる。だからこそ、新聞に求められるのは、140字の連投では見えてこない、「その背景」なのだが、未だにテレビと同じような同心円的硬直性に見舞われている限り、その閉鎖性から抜け出すことができない。その最たるものが「記者クラブ」制度だ、という批判に対して、真っ当な反論がどれだけできているだろうか。
膨大な情報が、速報的に流れてくる中で、良い目利き、である情報のキュレーターが、今ほど求められている局面はない。ツイッターも、本当に玉石混淆。こちらの目利きがわるいと、とんでも情報を掴まされる。だからこそ、ヘラトリ、だけでなく我が国のテレビも新聞も、その目利き力を発揮させ、もっと情報の「ゆらぎ」と対峙すべく、脱皮してほしいのだ。日本のテレビや新聞ジャーナリズムに憧れた人間として、深くそう思う。そして、恐らく確実にテレビ局にも新聞社にも、個人としてのキュレーション・ジャーナリズムの一翼を担える人材は沢山いるだろう。ただ、それが総体としてのテレビ局、新聞社として硬直化しているとするならば、それは霞ヶ関とのアナロジーを想起させる。官僚も、個人としては志高い人は沢山いるはずだ。だが、総体としての官僚制となると、情報も枠組みも「ゆらぎ」が生じている時ほど、結局省益を守ることが最優先課題となってしまい、内向きになってしまう。これはメディアの内向き報道と同根に感じる。そういう内向きの閉鎖性こそ、官僚離れ、メディア離れを加速させている。そのことの重要性に気づいて、内部から変わる力を、一ファンとしては強く熱望している。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。