繭とたこ焼き、そしてゼミ合宿

河口湖でのゼミ合宿から帰ってきた。
甲府は今日も過酷な熱波だが、河口湖では夜はふとんをかぶって眠らないと寒かった。たった1時間弱で、全くの別世界。そりゃあ、河口湖の近所に住んでいる某先生が、「甲府にはいられない」という理由はわかります。まあ、冬の雪かきは大変そうだけれど。
実はゼミ合宿というものは、僕は学生時代、経験したことがない。学部生の頃は、「放し飼い」の社会学専攻だったので、指導教官の先生のご自宅や近所の喫茶店で卒論指導を受けていたし、大学院生の頃は、師匠に弟子入りしていたので、師匠のご自宅や近所の飲み屋でご馳走になっていた。(食べてばかり?) つまり、幸か不幸か、僕自身は1:1の指導というものを、ずっと受け続けてきた。
だが、自分が教員になると、事情が変わる。うちの大学では、教員の少なくない数が、自らもゼミ合宿を学生時代に経験され、そして今では主催しておられる。確かに僕が指導を受け持つ学生の数も、僕が指導を受けた大学と比較すると、格段に多い。よって、1:1のお付き合いは物理的に厳しくなる。でも、個々の学生達との関わりの濃度を落としたくない。すると、ゼミ合宿という機会は、実は結構大切な場になりそうだ。そういう事に、赴任して2、3年するうちに気づき始めた。
そこで、確か5年前くらいから始めたゼミ合宿。回を重ねるごとに、その面白さがわかってくる。今年の合宿では、その醍醐味のようなものが、やっと言語化できるようになってきた。
僕のゼミは、テーマを全くの自由としている。以前はそれでも福祉や社会問題、あるいはボランティアやNPOに関するもの、という限定をつけていたが、昨年あたりから、それも放棄した。というのも、こちらがテーマを限定しようとしても、学生たちがそれで「トキメキ」を感じない限り、卒論はうまく仕上がらないからである。これは一体どういうことか?
僕が卒論指導において大切にすることは、実は狭義の意味での「学術性」の担保ではない。こういうことを書くと同業者から怒られるかもしれないけれど、研究者に今のところなる予定のない学生たちに、狭義の意味での学術的方法論を身につけることを第一義的な目的にする卒論は、彼ら彼女らのトキメキと一致しない。もちろん、コピペをしない、とか、引用のルールを守る、とか、先行研究についてはできれば調べてレビューをする、とか、ある程度のお作法は学んでもらう。でも、それが自己目的化したら、学生たちのテーマとのつながりが薄れてしまい、結局のところ、わくわくできない卒論となってしまうのだ。
では、なにを卒論指導で大切にしているのか。それは、学生の自らの実存と直結する、内的なワクワクやドキドキを感じられるテーマを探求すること、である。それは、僕自身の枠組みや守備範囲の中での卒論指導をすることを放棄し、学生たちのテーマに寄り添った、産婆役としての卒論指導に徹する、ということへの方針転換でもある。結構大胆な方針転換だが、ここ二、三年で、気づいたらそうなっていた。その最大のきっかけを作ってくれたのが、四年生のMくんである。
彼は、昨年から「教育をテーマにしたい」と言っていたものの、なかなかそれで自分の中でトキメかなかったらしく、探索が進まなかった。また、ゼミも来たり来れなかったり、というスナフキン的な感じであった。こういうパターンの学生は毎年のようにいるのだが、こちらが鋳型をはめようとすると、一応僕に敬意を払ってくれて、その鋳型にはまろうと涙ぐましい努力はしてくれるのだが、結局うまくいかない事例が多かった。それでもこれまでは、他の方法論を知らなかったので、やいやい口うるさく「ああしたら」「こうしたら」と指導してきたが、なんだかそれもいらぬお節介のような気がして、「まあ、そのうち芽吹くだろう」と放ったらかしておいた。すると、今年度がスタートしてからのゼミで、急に宣言したのである。
「僕のトキメくテーマは、たこ焼き、です」
と。
た、たこ焼き、ですか?
お話を伺えば、築地銀だこが大好きなのだけれど、どうもネット上では、あれは邪道だとか、本流ではない、という悪口がかかれていて、それが悲しい、と。でも、僕は銀だこが大好きで、そういう悪口を言われるのは悲しい、と。そして、銀だこを食べながら卒論をどうしようか、と考えていて、トキメくテーマなら、このたこ焼きこそ、僕がトキメくテーマである、と気づいた、と。
もちろん、それを聞いたとき、一瞬唖然としましたよ、そりゃ。
でも、よく考えてみたら、彼の実存とたこ焼きが深く関係しているなら、そこから内的探求を始めた方が、ぜったいにうまくいくはず、である。そういえば、僕が大学生だった頃、一学年下の後輩たちが「浪速文化研究会」をやっていて、たこ焼きカルチャーの研究もしていたな。粉もん研究ってあったような・・・。そういう古い記憶がよみがえってきたので、これはご縁、とばかりにOKを出した。
で、今日のゼミ合宿での発表は、ある意味ですごかった。
「たこ焼きと世界平和の関係を調べたい」
す、すごいです。でも、よくよく伺ってみると、人種差別はたわいのないことで、人々を差別している。肌の色の違い自体に問題がある訳ではない。人間が、それを問題化しているのだ、と。同じように、銀だこと大阪のたこ焼きのどちらかが優れているか、も人為的ではないか。たこ焼き自体が悪いのではなく、そこに優劣を付ける人間の考え方に問題があるのではないか。
確かにそういわれてみれば、エスノセントリズムやナショナリズムの問題も、国境や民族間で線を引いて差違を際だたせている人間の方に問題があるわけで、この差違の問題をきちんと考えたら、たこ焼き論争にも応用できるの、かもしれない。そう思えば、このたこ焼き研究は結構深いのかもしれない。合宿の中で、こんな議論が深まっていった。
そして、おもしろいのは、そういう風に殻を破ってトキメキを表明する学生が現れると、その学生に背中を押されて、自らのトキメキや実存と結びつく話をし出す後輩たちが出てくる、ということだ。今回の合宿では、つりと哲学、とか、関ジャニと私、とか、そういう議論が展開されていく。もちろん、つりも関ジャニもたこ焼きも、僕の専門ではない。でも、自分の専門で区切りをつける、というのは、あくまでも僕自身がコントロールしようという、管理や支配型の思考だ。そう、今日のゼミ合宿をしていて気づいたのは、実は僕自身が、管理や支配的なゼミ運営を放棄した、ということなのかもしれない。僕が専門として指導できる範囲の内容に無理して学生たちを押さえ込もうとしたら、どうしてもその鋳型にはまらない学生たちが出てくる。そのとき、僕の考えを押しつけるのではなく、彼ら彼女らのトキメキに正直であってもらう。その結果、僕がぜんぜん専門外のテーマになったとしても、そこから出たとこ勝負で応援するしかない、そう踏ん切りができたのかもしれない。
こうなると、ゼミ合宿の意義は大きくなってくる。
僕がある程度予想や予見可能性が高いテーマであれば、合宿をしなくても、ゼミという限られた時間内でもコントロール可能だ。だが、学生たちの主体性や自主性、トキメキやワクワクを大切にする、ということは、彼ら彼女らの本音や想い、願いにじっくり耳を傾けなければならない。3年生は8人、4年生は4人いて、毎回のゼミで何名かに発表してもらい、全員から質疑応答してもらうスタイルでゼミを進めているのだが、このじっくり聴く、ということは、どうしても限られたゼミ内では限度がある。すると、どこかで一度根を詰めて、時間を気にせず、ゆっくり語り尽くす場面が必要になる。
すると、木曜午後の1時間半〜3時間、僕の研究室で、という限られた枠組み、時間内、のスタイルが、その彼ら彼女らのトキメキやワクワクを表明する上で、限定条件となる。もっと本気で自らも語り、仲間の語りに耳を傾ける、というある程度の時間とゆとりをもった集中的な議論の場がないと、その個々人の実存と向き合うことはできない。よって、ゼミ合宿は、そのような殻を破る場、となるのである。
今年のゼミ合宿も、多くの学生たちが、普段のゼミより何歩も自らの内側に入り込んで、内面に切り込んだ、自らの実存に密接に関連するテーマで発表をしてくれた。その後、議論もずいぶん深まった。土曜の午後の4時間半、そして日曜の午前の3時間半、と合計8時間の、実に濃密な時間。それは、あたかも蛹が繭の中で、孵化する時間のような、24時間寝食を共にする、濃度の濃い、かつゼミ内で閉ざされた時間と空間。だが、そういう共振の場の中で、共有化がはかられ、やがてその中から、一人一人のゼミ生のオリジナリティが生まれてくる。それが、非常に興味深い内容として発展し、他のゼミ生に伝播する。
このような間主観的な相互作用が現れる場として、ゼミ合宿は非常に効果的だな。
5回目にして、ようやくその効能が少しは言語化できたような気がした。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。