ずいぶん久しぶりのブログである。
海外に出かけている間は、エアポケットや真空状態のように、ぽこっと予定があき、開放的になり、楽になる。だが、直前まで仕事を根詰めたり、帰ってきてから溜まっている雑事に格闘するうちに、旅に出かける前の日常的世界に逆戻りする。それが、これまでのパターンだった。
だが、今回のイタリアの旅の後、もしかしたら少しだけ、それまでのパターンと変化が生じ始めているのかもしれない。それが、Io studio l’ italiano! そう、前回のブログで書いて以来、イタリア語の勉強が進んでいるのである。
正直、続くかどうか半信半疑だったので、自分自身が本当にびっくりしている。というのも、大学の第二外国語で、カントやヘーゲルやウェーバーを原書で読めたらかっこいいな、と、そもそも日本語でも読んだことがない哲学者・思想家への形だけの憧れでドイツ語をとって、本当に苦労した失敗の記憶が大きいからだ。そもそも、あのころは、やっと終わった受験勉強の反動で、しっかり勉強したい、という意気込みもなく、そしてドイツ語世界に対して具体的な願望もなかったから、まったくご縁がなかったのかもしれない。
さらにいうなら、今から8年前には、スウェーデンに半年も住んでいたのに、スウェーデン語は本当に挨拶程度しか出来ない。今から思えばイエテボリの語学学校もあるはずだし、そこに通っていたら、もっといろんなやり取りが現地の人とでき、そこからネットワークが広がったのかもしれない。だが、あの当時、とりあえず半年間で調査の成果をあげることに必死で、かつ「スウェーデン語が出来る日本人の福祉研究者はたくさんいるから、僕がスウェーデン語を学んだってしょせん・・・」と、思い込んで、語学学習に蓋をしていた。いや、そう思い込んで、怪しい英語(ブロークン・ぐろーびっしゅ?)でとにかく課題と向き合うことに必死だった。妻と二人、初めての海外生活で、サバイバルに必死だったと思う。
そういう苦い経験が重なるなかで、「英語を何とかこなすことは出来るかもしれないが、他の言語を僕は獲得するのは無理だ」と思い込んでいた。
だが、今回のイタリアでは、「Si puo fare! (やれば、できる!)」のアイデアをたくさんもらって帰ってきた。極端に言えば、ねじが一本、外れてしまった。
このブログで何度も書いてきたが、僕は「どうせ」「むりだ」「しかたない」という壁と向き合う機会が多い。たとえば、金曜は入所施設の職員労働組合に呼ばれて講演をしたが、そこでも「改革なくして改築なし」と仰る労組の方々に対して、「そもそも改築したら、入所施設をなくすことは出来ないのではないですか? もともと施設ありき、という発想そのものが、どうせ重度の知的障害者は地域生活は無理だ、しかたない、という思い込みに基づいていませんか?」と問いかけていた。
前回のブログでも述べたが、イタリアから帰国して感じるのは、日本はやはり、価値前提の問いかけに関しては「どうせ」「むりだ」「しかなたない」と、問いを発しない(=所与の前提とした)上で、その価値前提の上で、漸進的な変化をもたらそうとしているような気がしてならない。たとえば、入所施設の話でも、いかにそこでの待遇をよくしようか、という漸進的改善については、労働組合の皆さんは必死になって考えている。でも、それは「入所施設は今後も必要だ」という価値前提を所与の前提にしたうえでの考えである。この前提自体を疑い、「やればできる」精神で変えていこうとするのか、と言われると、しり込みする人が少なくない。そして、実は価値前提への問いとは、エネルギー問題や政治改革、社会保障改革など、私たちの生活全体に突きつけられている課題である。
にもかかわらず、価値前提については「どうせ」「むりだ」「しかたない」と蓋をして問わずに、小手先の技術論的課題だけで「国論を二分する」と言わしめる問題がどれほど多いか。消費税の増税、原発の再稼動、政界再編などの論点を巡っても、価値前提については問わずに事象や出来事だけを問うているので、そのときの気分や空気で流される議論が展開されている。だが、出来事の背後にあるパターンや構造、それを突き動かす価値前提をも見抜いて、「本当にそれでいいの?」という問いを発しないと、結果的に「井の中の蛙」のようなむなしい議論の枠の中から出れないのではないか。マスコミで報じる政治家や官僚の動向、だけでなく、「街の声」を聞いていても、あまりに空気に基づく小手先の感想が多く、またそれを選択的に取り上げるマスコミも少なくなく、うんざりしてしまう。
そして、それを「○○が悪い」と他責的にすごしたくもない。とはいえ、僕自身が大きな政治的課題に、他責的にではない形で今すぐにコミットするだけの準備も心構えも出来ていない。そんな中で、自分から出来る、自分の中での変容とは何か。それが、冒頭に戻ると、イタリア語の学習なのである。
他人に「どうせ」「むりだ」「しかたない」と諦めるな、と訴えている人間が、そもそも自らの第二外国語に関しては、その諦念を「しかたない」としていませんか、と。それって、自己矛盾ではありませんか、と。
もちろん、「バザーリアの実践をイタリア語で読みたい」というのが、最大の動機であることに間違いはない。でも、それだったら、ノーマライゼーションの原理について、スウェーデン語のニィリエの文献を読みたい、という気持ちはなぜ沸かなかったのか。あの時と今の違いはおそらく、知識としての学びと、実存に結びつく学びの違い、かもしれない。価値前提を問う現象学的精神医学を、トリエステ語と言われるバザーリアの論理を読み直す中で体得したい。それを通じて、自らの、支援枠組みの、そして日本社会の価値前提を問い直す論理を強固なものにしたい。そのためにも、まずはイタリア語の文法をきっちり身につけたい。
今回、そういう具体的な目的がはっきりしているから、語学学習の戦略もぶれない。イタリア語を学ぶ前に『外国語上達法』(千野栄一、岩波新書)『わたしの外国語学習法』(ロンブ・カトー、ちくま学芸新書)などを読んでみたが、これらの本に書かれていたのは、
・文法を、単に暗記するのではなく、法則性を理解し、日本語とどのように違うのか、を意識して学ぶと頭に入りやすい
・反復こそ、忘却に打ち勝つ最大にして古典的な方法
・週に10~12時間の学習時間を確保すべし
ということであった。
そこで、これらの原則に則って、イタリア語の文法書を7月末に終わらせる目標を立てて、取り組み始める。CDもipodに取り込んだ上で、出張する日は移動の電車内で、普段は朝に原則1コマ分、テキストと向き合っていく。男性名詞と女性名詞、あるいは冠詞の変化、と聞いただけでドイツ語の悪夢を思い出しそうになるが、上記のようなビジョンが明確なので、三日坊主にならずに、進んでいる。そして、こうやってブログに書くことで、ますますイタリア語学習が不退転になるように追い込んでいる。(なので、僕に今度あったら「続いている?」と尋ねてください(笑))
今のところ、規則動詞の変化あたりまでは、非常に順調に、楽しく学べている。これが時制の変化あたりで躓くのか、そのままスルッと文法書を越えられるのかは、わからない。でも、自分の潜在的な可能性が見開かれるような、そんなワクワク感が、現時点では僕の中で渦巻いている。その渦の勢いをとめてしまわないように、「やれば出来る!」の精神で、まず自分自身から変わることが出来ないか。そして、この一見すると非常に個人的で、デタッチメントに見られる内発的な穴掘りも、その穴を掘り下げ続けていくうちに、どこかで広い社会とのアクセスが出来る場面があるのではないか。他責的に陥ることなく、僕の中での閉塞感を越える突破口は、このイタリア語学習の中にあるのではないか。そんなことを夢見ながら、今日もこつこつ参考書に向かうのであった。