Si può fare 連作その3

「旅をするたびに私は、まるで空井戸に落ち込んだ子供みたいに、行く先々の現実にすっぽり溶け込んだようになって、それまでいた場所を忘れ去る。そればかりか、そのつぎに自分が行く、あるいは帰るはずの場所についても、まったく思考が働かなくなるのだ。ウラシマタロウ症候群とでもいえばいいのか、落ち込んでいる井戸の底でオトヒメサマやタイやヒラメを相手に、完璧に充足してしまう。飛行機あるいは鉄道の切符や、手帳に記した予定表があるから、いついつの日に、じぶんがどこそこにいるはずだとはわかっていても、私の中には、まえもって思考をつぎの場所に移すのを拒否する依怙地な虫が棲みついているようなのだ。」(須賀敦子『トリエステの坂道』新潮文庫、p174)
昨日、イタリアの研修旅行から帰国した。トレントとトリエステの二つの街で、精神病院抜きの地域精神保健福祉システムがどう展開されているか、を学びに出かけた。間を挟んだ土日には、その中間点に位置するヴェネチアにも立ち寄り、イタリアの風土や歴史、文化の断片を満喫した。旅先では、イタリアで長く暮らした須賀敦子の文章を、染み入るように読んでいた。
あっという間の旅程が終わり、日本に帰国した翌日、時差ぼけでまどろむ中に読み続けた本の一節に語りかけられたのかもしれない。
「もうまもなく、『落ち込んでいる井戸の底』での『完璧に充足』した日々のアクチュアリティは消え去るかもしれませんよ。書くなら、『依怙地な虫』が死に絶えていないうちにね」
日本に帰ってきて、メールやらツイッター、FBなどの「つながり」の輪に、別に拒否してもいいのに自発的に埋没していくと、確かに急速に陸に戻ったウラシマタロウのように「オトヒメサマやタイやヒラメを相手」にした記憶がすり抜けていく。それとともに、かの地でつかの間に解き放たれた「しがらみ」の鎖に、自らつながれていくのを感じる。その違和感を表明し、出来れば解き放たれていた時期のアクチュアリティを、まだ記憶が薄れぬうちに、備忘録的に記しておきたい。
イタリアで最も学んだこと、それは一言で表せば、”Si può fare”、日本語に訳せば「やれば出来る!」だ。
精神病院を本当に閉鎖し、総合病院の精神科病棟も最小化できる。その実践を、先進地のトリエステだけでなく、別の形で展開しているトレントでも見てきた。イタリアに出かける前のブログで二回ほど書いたが、統合失調症やうつ病、などの疾患別の分類と診断にエネルギーを注ぐのではなく、その人が抱えている、病を発病するまでに至った、極大化した「生きる苦悩」に寄り添い、時には薬を使い、あるいは薬を使わなくても、その苦悩を本人と共に縮減していくなかで、病と共に生きる術を取り戻す支援。それが、本当に二つの街で実践されていた。トリエステではこの考え方を、移民や高齢者支援など、他のマージナルな存在とされた人々の地域福祉の実践にも応用していた・・・。
このあたりの事実は、僕もそのうち文章でまとめるだろうし、あるいは今回の研修に参加された他の精神科医や研究者が書いてくれるかもしれない。そしてその大半の事実は、研修団長を務めた大熊さんの本に書かれている内容でもある。にもかかわらず、現地に行って良かったと思うことであり、まだウラシマタロウ症候群の間に書いておきたいのは、日本的な同調圧力のネジが緩んだイタリアで感じた開放感と、「やれば出来る!」のアクチュアリティである。
「空井戸に落ち込んだ子供」状態の僕が、その異世界で眺めたのは・実感したのは、人間の可能性をとことん信じ、その可能性にかけた人々の具体的な姿だった。
「精神病院は必要悪だ」「日本ではトリエステの光のみが紹介されるが、影があるにちがいない。どこかに重症患者が隠されているはずだ」「隔離拘束や電気ショックは、暴れる患者には必要不可欠だ」
こういった概念は、精神病院の経営者だけでなく、日本の精神科医療の現実という強固な枠組みの中で精一杯頑張っている人にとっても、変えることの出来ない所与の前提となっている。その自らの眼鏡「のみ」が真実であると信じ込んでいるからこそ、そうではない現実には「何か裏がある」「絶対できっこない」と思い込んでいる。だが、これが単なる「思い込み」に過ぎないことが、旅の中で明らかになってきた。
これは、非医療者の僕だけが感じたことではない。ご一緒した、日本の精神科救急やACTの現場で働く6人の精神科医も同感したことであり、旅先でもそのことは繰り返し議論し続けた。「精神病院・隔離拘束・○○はなくせない」というのは、「出来ない100の理由を考える」ことである。でも、イタリアで垣間見たのは、同じ「○○」をなくすための「出来る一つの方法論」を考え続け、それを実践に移した姿だった。
だからといって、日本人がサボっていて、イタリア人だけが偉大だ、とは思わない。これは入所施設をゼロにしたスウェーデンの実践を、半年間に渡ってフィールド調査で調べていたときに感じたことと同じである。どこの国にだって、いい人もいれば悪い人もいる。そして、スウェーデン人よりも、イタリア人よりも、日本人の方が遥かに長時間働いている。それぞれの現場で、個別的課題に寄り添おうとしている日本人も沢山いる。
ただ、厳しい言い方をすると、せっかくのその努力が「漸進的な努力」である場合が少なくない。ある枠組みを変えられない所与の前提として、その前提枠組みの中で現前化している問題を、出来る限り何とか解決できないか、と考える思考であるといえる。既存の枠組みや体系のバージョンアップやモデルチェンジを果てしなく続け、洗練させていく姿、ともいえる。これは福祉や医療だけでなく、日本のものづくりのお家芸的な部分であるかもしれない。
これがなぜ「厳しい言い方」なのか。それは、漸進的努力は、あくまで既存の枠組みや体系のバージョンアップであり、結果的にはその枠組み・体系の延命につながるからである。その枠組みや体系が依拠する前提自身が問題であっても、その前提自身を問い直し、変えることは、その漸進的努力の対象外となる。イノベーションとは漸進的努力ではなく、革新的な創発の中から生まれるが、日本ではイノベーションより、バージョンアップか、よくいってもモデルチェンジどまりである場合が多い。自立支援法だって、介護保険法と支援費制度を合体させた形でのモデルチェンジどまりで、革新的な総合福祉法の骨格提言は、障害者総合支援法という自立支援法のバージョンアップに矮小化されたことは、以前のブログで何度も書いたとおりである。
そして、残念ながら日本では、創発や革新を喜ばない風潮がある。出る杭は打たれる、ではないが、まだ見ぬ何かを語り・想起すると、「そんなのできっこない」「現実を無視している」「理想論だ」と片付けられる。確かに漸進的なバージョンアップやモデルチェンジのほうが、明らかに「現実的」であり「出来る可能性」が高い。だって、以前の枠組みや体系の枠内での移行であるので、前提は崩さなくてもよいからだ。
ただ、その前提が「精神病者は了解不能である・隔離拘束しないと対処できない」「精神病院は必要悪である」という価値前提である場合は、どうだろうか? これは事実ではなく、価値前提であり、思い込みである。しかし、日本という同調圧力の強い国では、他国にいると考えられないほど、この圧が強い。所与の前提として、絶対変えられない枠組みとして機能する。だが、それが事実ではなく、事実と誤認した価値前提であれば、話は全く別になる。以前のブログでオースティンの行為遂行的言語についてメモをしていたが、そう語ることによってその価値が事実認識され、一層強固な価値となるような言葉遣いがある。「○○は必要悪だ」という論理は、事実確認的言語ではなく、明らかに行為遂行的言語である。これは精神病院を入所施設だとか原発とかに入れ替えても、全く同じ論理である。
そう考えると、「出来ない理由を100考える」のではなく、「出来る一つの方法論」を模索する創発的な論理が非常に大切になる。それが、「やれば出来る!」の思考であり、イタリアで眺め続けたのは、その”Si può fare”の精神が結晶化した形での、地域精神保健福祉システムであった。
そう感じた僕自身、イタリアから帰って、自分自身の中で新たな”Si può fare”に挑戦しようとしている。イタリアの精神医療改革の精神的支柱を担ったバザーリアの本が原書で読みたい。そう思って、イタリアで何冊か買ってきた。もちろん、まったくイタリア語は未知の世界。でも、他人を批判する前に、自らの”Si può fare”に挑戦しようとしている。三日坊主にならないためにも、ここに宣言しておく。(大丈夫か、おい・・・)

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。