精神病院をなくしたイタリアで、その改革を主導したのが、故フランコ・バザーリア医師。彼の足跡を辿った映画C’era una volta la citt dei mattiが公開され、そのDVDがAmazonでも販売されている。
師匠からそのDVDをお送りいただき、昨日見ていた。イタリア語のストーリーで英語の字幕、だが、十分に楽しめる内容だった。以前、「人生、ここにあり!」を見たときにも感動したが(こちらのDVDは日本語字幕入りで発売されました)、あの映画ほど明るくない。むしろ、精神病院から地域に出て行く中で、精神病者も、そして彼ら・彼女らを支える支援者達も、等しく同じ人間として抱える「生きる苦悩」の深さを掘り下げた作品だ。そして、バザーリア医師やトリエステの人々が何を目指したのか、その際、どんな苦労の中でもがき苦しみながら新たな何かを産み出そうとしたのか、が実によく描かれている作品である。
この映画の基底には、バザーリアが生前、イタリアの精神医療改革を取材したスイス人ジャーナリストに語った次の思想が重なっている。
「人間に苦悩がつきまとう。これは社会組織が立ち入ることが全くないためなくなることはない。ある人が調子が悪くなると、何かを求める。しかし、誰も答えてくれない。この要求、つまり要請はいろいろな形態をとりうる。様々な様式、例えばある人が自殺したり、他人を殺したりとか、公の秩序をそこなうとか。ある人が死んだりする時は、それは絶望的なアピールである。しかしこれらのアピールにどのように答えてきたか。いつも答えは決まって抑圧である。そしてこれを正当化するために精神医学はその症状論-これが苦悩の成文化である疾病である-を生み出す。」(ジル・シュミット『自由こそ治療だ』社会評論社、p65-66)
「人間には苦悩がつきまとう」。これは、実に普遍的な命題である。そして、精神を病む人、というのは、この苦悩が極大化し、時として自傷他害、あるいは錯乱や暴言、引きこもりなど「絶望的なアピール」をせざるを得ない状態に追い込まれた人のことをさす。これは、精神を病む経験があろうがなかろうが、時として誰でも起こりうる危機であるが、たまたま「絶望的なアピール」に至る以前で事態が収束したか、しなかったのか、の差に過ぎない部分もある。
だが、その「一線」を超えた時、私たちは一見すると「共感」や「想像」しにくいような、破滅的で破天荒に見える行動化という「絶望的アピール」の表現に目を奪われてしまう。そして、その「絶望的なアピール」という表現で伝えようとする「苦悩」の極大化そのものが、見えなくなってしまう。あまりの激しい表現に、見る者の恐怖や不安も極大化し、なんとかその「絶望的なアピール」の沈静化こそが目指される。そのための「抑圧」手段として、「縛る・閉じ込める・薬漬けにする」という方法論が開発され、「これを正当化するために精神医学はその症状論」としての「統合失調症」なり「うつ病」なりという「症状論」を展開する。あくまで、「絶望的なアピール」の沈静化の方法論に過ぎないものが、医学や客観性の装いをまとうと一人歩きをし、その「科学性」「客観性」が「抑圧」の本質を隠蔽し、世間に流布していく。
バザーリアの興味深いのは、その際、「抑圧」の本質から目を逸らさなかったことである。
「私はバドゥア大学医学部の助手として12年間働いた。このことは重大なことだ。というのは当時拷問人としての教育を、つまり抑圧の論理全体をともに身につけ、内在化したしたからだ。精神科医の教育とは拷問人としての教育に等しいのだ。大学へ足を踏み入れると、もちろん世界を改革しようという観念で行動する。だが、それから大学内の地位序列に汲々としていく。対抗心、競争心、名誉心、だんだんと大きくなる権力の獲得。いつも研究機関の長の厳しい監督下にあり、それは自らを承認させられるまで続く。しかも、知を継承させるのではなく、権力を行使していくのだ。」(同上、p66-67)
彼がフッサールの現象学やサルトルの実存哲学を大学時代から愛読していた、と前回のブログでも書いた。だが、彼の興味深いのは、その現象学的還元の視点を、自らの因って立つ医学部の精神医学システムそのものに対して差し向けた、という点である。自らが「内在化」している「医学部」教育という「抑圧の論理全体」そのもの、因って立つ地盤そのものを疑いの眼差しで眺めた、というラディカルさである。自らが精神病への治療と考えている「知」が、実は「権力行使」である、という事の気づき。その延長線上としての、医学部教育が「拷問人としての教育」であることへの気づき。自らの暗黙の前提とした価値前提そのものを問い直す営みである。これは、このブログで何度も引用した、あのメルロ=ポンティの思想を想起させる。
「哲学者というものは単に存在しようと望むだけではなく、おのれのなすことを理解しながら存在しようと望むわけですが、ただそれだけのためにも、哲学者は、その生活の事実的与件のうちにひとりでに含まれている全ての断定を一旦停止しなければなりません。しかし、さまざまな断定を停止するということはそうした断定の存することを否定することではありませんし、ましてやわれわれを物理的・社会的・文化的世界に結びつけている鎖を否認することではなく、逆にそうした結びつきを見ること、意識することです。これが『現象学的還元』というものであり、そしてその現象学的還元だけが、そうした絶えざる暗黙の断定、各瞬間のわれわれの思考の裏に隠れている『世界の定立』を露呈してくれるのです。」(メルロ=ポンティ「人間の科学と現象学」『眼と精神』みすず書房、p17)
バザーリアは、精神医学が「暗黙の断定」としている「抑圧の論理」の「物理的・社会的・文化的世界に結びつけている鎖」を、「見ること、意識すること」という「現象学的還元」を行い続けた。その中で、自らの知そのものが、実は本当は知ではなく権力行使である、という事実に気づいてしまった。権力行使や拷問人教育という実態を見えなくさせている「われわれの思考の裏に隠れている『世界の定立』を露呈」してしまった、のである。だが、そこからのバザーリアの展開が非常に面白い。
「知とは弁証法的なものであり、教えられるものではなく、管理されうるものでもない。知は対話の中でのみ練り上げられ、あらゆる瞬間に繰り返し問題にされ、吟味されなくてはならない。私は他の人々と共同してお互いの知識をもとに知を吟味することではじめて新たな知を得る。そうでない時は、純粋に権力の行使となる。」(シュミット、前掲書、p67)
「権力行使」とならない「知」とは何か。それをバザーリアは「弁証法的な対話」と言う。映画の中でも、バザーリアは元患者たちと、繰り返し繰り返し対話をしていく。病棟の中での騒動、家族の元に帰った際の衝動的な暴力、共同住居の中での諍い・・・病院から地域に戻り、そこで抑圧されていた蓋が開き、様々な「生きる苦悩」が吹き出す。その際、バザーリアやトリエステの医療者たちは、縛ることも閉じ込めることも、そして薬漬けにすることもなかった。だから、問題はより大きくなり、混乱も続く。その中にあっても、常にその渦中の人々に寄り添い、彼ら彼女らの声を聞き、対話をし続けていた。「絶望的なアピール」を前にしても、それを「疾病」とラベルを貼ってわかったフリをしようとしなかった。その「絶望的なアピール」で、対象者は何を表現しようとしているのか。本人も時には混乱してわからなくなっている、そのアピールの背後にある「人間的な苦悩」の実態そのものを、医療者である自分は未だ知らない。その「無知の知」に基づいて、「他の人々と共同してお互いの知識をもとに知を吟味することではじめて新たな知を得る」という動的な対話のプロセスに身を置こうとした。映画を描かれたバザーリアは、白衣を着た医師ではなく、寄り添うソーシャルワーカーのようなスタンスで描かれていた。これは、「医学部教育」というヒエラルキー体制とは真反対の姿である、ともいえる。
この弁証法的な知について、シュミットは次のように解説している。
「バザーリアとスタッフはこの考え方が西洋の学問的思考構造の全体を基礎づけている観念論的、実証主義的傾向と矛盾することを自覚している。観念論的、実証主義的思考は原因と結果の直接の鎖の中を動いている。それとは異なって、弁証法的思考はいわば三角形を跳躍するように現実を捉えようとする。それはあらゆる対象-「テーゼ」-「アンチテーゼ、つまりその対極」-を内包する。対立した両極を対立させることから『統合』が生じる。そこでまたしても新しい矛盾の入口となる。バザーリアとその仲間がこの思考方法をとる際、彼らは当然弁証法的概念のいくつかを操作する。例えば『異常』と言えば、さしあたって弁証法的に相互に条件づけている『異常』と『正常』がどのような関係にあるのか、を問題とする。そこで『異常』という概念の自明性を問題とする。『病気』が討論される時には、『健康』も明らかにされる。『個人的』苦悩が話し合われれば、すぐに『社会的苦悩』が問題とされる。というのは彼らにとって個人と社会の間に相互作用があることは光と影の相互的役割と同様、明らかなのだから。」(シュミット、p62-63)
「原因と結果の直接の鎖の中」とは、「絶望的なアピール」という「結果」を「統合失調症」「破瓜型」「幻聴支配」などという「原因」と結びつける思考である。確かに「病気」だからそうなるんだ、という理解は、「わかったつもり」にさせてくれる。でも、たまたまそういう疾患状態であって「絶望的なアピール」をしたとしても、病気が人間を支配している、というモデルをバザーリア達はとらない。「絶望的なアピール」という形で現れる「異常」という「テーゼ」に対するアンチテーゼとしての「正常」との関係性をも問題にする。どうしてこんな「異常」な表現をするのか。その背後にどのような「正常」世界での追い詰められた何かがあるのか。そういう「『異常』という概念の自明性を問題とする」ことで、「異常」だけでなく「正常」世界そのものを問い直そうとする。幻覚や妄想、うつ状態という「病気」が討論される時、そういう「病気」にならなかった時や、あるいはそういう「病」が減退した時は本当に「健康」だったのだろうか、が問われる。
この問いかけは、あのべてるの家の川村医師が短冊に書いた「病気で幸せ、治りませんように」という名言をも想起させる。病気が不幸せ、健康が幸せ、という二項対立は、そのような対立軸を作る事により、病気と健康の意味を単純化させていないか。病という形で表現されていることの中に、どのような「生きる苦悩」が現れているのか。それを「健康ではない」と薬と共に消し去ると、病の中に現れている、その人の実存的な課題や、あるいは別の形で生き始めようとする契機や種のようなものも見えなくさせてしまうのではないか。「病気」や「異常」とは、そのような本人の「生きる苦悩」の前景化であり、それは確かに辛いことだし、なるべく治めて楽になりたいけれど、強い薬で意識共々吹っ飛ばすのではなく、地域の中で、苦悩の中で、少しずつ溶解させていく何かではないのか。
こう展開させていくと、「個人的」苦悩のアンチテーゼとしての「社会的苦悩」が討論の対象になることもよくわかる。自己決定・自己責任社会において、自分で決めて、選んだ結果として、訪れた様々な不幸や苦悩。それは「自己責任」だから、努力が足りなかったから、運がなかったから、仕方ないという思考。これは社会問題を個人問題とすり替え、矮小化して「わかったつもり」になる思考ではないか。そしてそのような「理解」は、「知」ではなく、「権力行使」の内面化ではないか。社会の構造的な暴力を「世界の定立」「暗黙の断定」として受け入れ、仕方ないと諦め、その犠牲になった人を「個人的苦悩」の中に押し込めて、それ以上踏み込まない姿勢。実はこれこそが、医療者や私たち、精神病者といった垣根を越えて、人間世界を覆う「抑圧の論理体系」の正体ではないか。この部分を正視せず、目の前の「絶望的なアピール」を制止する精神医療の思想は、「患者を治す」ように見せかけて、正常-異常、健康-病気という枠組み自体を維持・強化する権力ではないか。そして、この権力行使という枠組みから自由になって、本当に「生きる苦悩」と向き合い、その苦悩を少しでも緩和する支援こそ、精神医療という存在に患者が求めている内容ではないか。
バザーリアが、病院病院という構造そのものが問題である、としたのは、この権力構造からの脱皮の最大の障壁としての病院機能への問いかけではなかったか。そんなことを感じながら、映画を見ていた。(つづく)