変なエントリーで、すいません。
実は、この春、当スルメHPをブログを除いて閉鎖したのでありますが、その際、自己紹介ページも省いてしまいました。なので、たまたま覗かれた方は、いったい誰だよ、とお考えかも知れません。じきに最低限の自己紹介を掲載する予定ですが、名無しであれこれ無責任に書くのはいやなので、とりあえず最低限のご挨拶を。
タケバタと申します。大学教員をしております。くわしくは、こちらを。
で、こういう自己紹介、つまり「私は誰か」を規定するにあたって、実に興味深い二つのブログ記事を拝読した。
ひとつはたまに引用させて頂く、大阪のとみたさんのここ何回かのブログ。中途半端な研究者の姿勢を鋭く斬っていく筆力にいつも自分の身を切られる思いをしながらも、欠かさずに読ませて頂いているのだが、気がつけば己のブログがまな板にのっておりました。で、そのまな板のうえで、もう一つの調理材料にされていたのが、こちらはお会いしたことは無いのだが、ブログを拝読させて頂いているlessorさんの記事。とみたさんが「まな板」に載せられたことを受けて、大変興味深いことを書いておられる。普段、一方的な読者のつもりだったブログに自分の書いた何かが載っけられていると、何だかこそばゆい。
このなかで、lessorさんが私の紹介を、「スルメコラムの作者さん(過去に名乗っておられたこともあったと思いますが、一応伏せときます)」と書かれて頂いたので、一応、最初に名を名乗ってみたのだ。ただ、この自己規定の段階で、先にご紹介したお二人のブログから、大きく問いかけられている(と自分で勝手に議論を引き継いでしまう)。「あんたは、誰なん?何してくれんのん?」(→いや、こんなガラのわるい言い方は、私しかしないでしょうね…)
とみたさんは、福祉現場の要役をしながら、研究者としての視点もきっちりお持ちなので、こういう視点で問いかけられる。
「私の中では、現場から求められる研究者像というのを実はいまだに捨てきれず、模索し続けている。
いわゆる基礎的研究=現場に即にはやくにはたたないけれども、絶対に必要となる研究。(実は社会福祉にはこれがとても少ない と思っている)
と、もう一つは、現場の実践を吸い上げて、現場とは違う視点で切ってくれる研究。
いまの研究は、現場の紹介でしかない なんていうと、また叱られるだろうが、中途半端だと思う。」
(「事件は現場で起きているんだ!」 では・・・)
片腹痛し、とはこのこと。自分自身がここ数年、疑問に感じ、また自分自身がそうなのではないか、と反省してきたのは、この「中途半端」さである。とみたさんの分類で、価値ある研究をしている方を障害者福祉の分野で考えてみると、前者の代表格としては立岩真也氏などが、後者の代表格としては北野誠一氏や、我が師、大熊一夫氏、大熊由紀子氏などが思い浮かぶ。で、この対比をしながら、立岩氏が大熊一夫氏に関して、実に興味深いことを書いていたことを思い出した。
「さて「学者」は何をするか。大熊は前記のインタヴューで、学者の作品は「味も素っ気もないものになっている。つまらない文章ばかりだし、こんな研究して何で障害者のためになっているのかわからないようなものばかり目立つ。」と言う。そうかもしれない。
もちろん、統計的な調査がこうしたルポルタージュと並存し互いに補って意味があることはあるだろう。では、前回取り上げたゴッフマンの著作のような質的調査、フィールドワーク、エスノグラフィー、エスノメソドロジー…、などど呼ばれたりするものはどうだろう。私は、ジャーナリズムの作品とこれらの間になにが違うというほどはっきりした違いはないし、またある必要もないと考える。ただ、大熊の批判を肯定しながら居直るような妙な言い方になってしまうのだが、衝撃・感動・・・をとりあえず与えなくてもよいという自由が「研究」にはあって、それがうまくいった場合には利点になるとも思っている。」
(立岩真也「大熊一夫の本 」)
私は大学院時代、前述の二人の師から、そして最近ではアメリカ調査にご一緒させて頂く北野さんからも、「障害者のためになっているのか」という視点を徹底的にたたき込まれた。だが、「障害者のためにな」る議論を本質的に掘りさげていくと、「現場の実践を吸い上げて、現場とは違う視点で切ってくれる」という事の深みと難しさに突き当たる。それは、フィールドワークやエスノグラフィーの「まがいもの」は、下手をしたら「現場の紹介でしかない」ものになるからだ。そしてそういう「研究」は、「ジャーナリズムの作品とこれらの間になにが違うというほどはっきりした違いはない」だけでなく、すぐれた「ジャーナリズムの作品」よりも遙かにレベルの低いものになってしまうのである。そういえば、こないだ「にわか読書」をしたブルデューもこう書いていた。
「一部のエスノメソトロジー研究者達は、一次経験を記述するだけで満足しており、そうした経験を可能にしている社会的条件、すなわち社会構造と思考構造との一致、世界の客観的構造とその構造を把握している認知構造との一致について自問することがありません。したがってこの研究者たちは、現実の現実性(実在性)について、もっとも伝統的な哲学のもっとも伝統的な問いかけを繰り返す以上のことは何もしていないのです。」(ブルデュー「リフレクシヴ・ソシオロジーの実践」ブルデュー&ヴァカン『リフレクティブソシオロジーに向けて』藤原書店 p301)
このブルデューのいう「一次経験を記述するだけで満足しており」という事態に対して、とみたさんは同じ点から、次のように書いている。
「人類学的な調査手法がひろがり、参与観察や質的調査法がいろいろな場面で利用されるようになった。しかし研究者が研究の方法として使うときいくら参与観察者として現場にいても、その人は現場の人ではない。その逆もしかり。こんなあたりまえのことが当たり前になっていない気もする。」(「事件は現場で起きている」では 研究者は?)
もちろん参与観察や人類学的手法そのものが問題、というのではない。方法論の中途半端な理解と応用が、百害あって一利無し、の可能性となっているのだ。この点、エスノグラフィーの大家、佐藤郁哉氏も、次のように警告している。
「ご都合主義的引用型、天下り式のキーワード偏重型、要因関連図型の場合には、いずれも一般的・抽象的な概念の世界に重きをおくあまり、対象となった人々の意味を読み取っていく作業がおろそかになってしまったものだと言える。また、これらの場合は、対象者たちの思いや考え方に対する研究自身のコミットメントは非常に浅いものになるため、研究者個人の体験や思いが研究者コミュニティと対象者たちの意味世界を媒介する上で果たす役割は、非常に小さなものとなる。
それとは逆に(略)、ディテール偏重型と引用過多型およびたたき上げ式のキーワード偏重型の場合には、対象者たちの個別具体的な意味の世界に対する研究者のコミットメントは、やや過剰気味のものとなっている。その結果として、対象者達の言葉や行為の意味を一般的・抽象的な学問の言葉へと翻訳していく作業は、中途半端なままにとどまってしまうことになる。」(佐藤郁哉『質的データ分析法』新曜社、p28-29)
佐藤氏は「現場の言葉」と「理論の言葉」の「文化の翻訳」こそが、質的研究の成否を裏付ける最大の鍵だ、と主張している。さきにご紹介した現場のお二人は、「理論の言葉」にも精通しながら、「現場の言葉」の世界に生きる、「翻訳者的存在」であるからこそ、中途半端な研究(翻訳になっていない駄作)に憤っておられるのではないだろうか。次のlessorさんの指摘に、そのあたりが端的に表れている、と僕は感じる。
「研究者が中途半端に現場に入り、現場で既に自明視されているようなことをさも自分が発見した「新しい事実」であるかのように示して自己満足するぐらいならば、「現場のものの見方」に擦り寄ろうとするのではなく、徹底的に「研究者としてのものの見方」を押し通すことで見えてくるものに期待をかけたほうがずっと有意義だと思う。」(現場と学問の距離)
このlessorさんの言う「「研究者としてのものの見方」を押し通すことで見えてくるもの」という指摘こそ、ブルデューの「そうした経験を可能にしている社会的条件、すなわち社会構造と思考構造との一致、世界の客観的構造とその構造を把握している認知構造との一致について自問」と重なってくるし、佐藤氏の言う「現場の言葉」を「研究の言葉」へ翻訳する作業なのだと思う。そして、それこそとみたさんの言う「現場とは違う視点で切ってくれる研究」であり、そうした研究は、「衝撃・感動・・・をとりあえず与えなくてもよいという自由が「研究」にはあって、それがうまくいった場合」となる。繰り返して言うが、「うまくい」かない研究は、衝撃も感動も、そして「現場とは違う視点」もない、「既に自明視されているようなことをさも自分が発見した」「自己満足」にしかすぎないのである。
こううねうね書いてきて、ようやくタイトルに突き当たる。(よく大阪のMさんに、もう少し短くなんないかなか、とお叱りを受けるが、本当に長い…)
「私は誰なのか?」
誰、というのは個人タケバタという意味で指しているのではない。そうではなくて、研究者という肩書きを標榜して、糊口を凌がせていただいている者として、そう名乗るだけの充分な視点や力量を兼ね備えた誰か、になりえているか、という問いである。「一次経験を記述するだけで満足して」いないか、「徹底的に「研究者としてのものの見方」を押し通すこと」が出来ているか、その上で、「こんな研究して何で障害者のためになっているのかわからないようなもの」でごまかしてない、誰かになれているか、である。
もし、研究者という立ち位置で、それが出来ないのであれば、とみたさんやlessorさんのような優れた「翻訳者」が大学で教えられた方が、よほど福祉政策に実りある展開となる。lessorさんは謙遜されて、「現場のプレイヤーとして研究を深めることに徹する研究者もまた存在してよいはずなのだ」と仰っておられるが、「よい」だけでなく、むしろそういう本物の「翻訳者的研究者」こそ、今の中途半端な社会福祉“学界“の閉塞性を切り開く役割をして頂けるのであろう。
で、だからこそ、タイトルの問いが、もう一度胸に突き刺さる。
僕自身は、誰なんだ? 「現場のプレイヤーとして研究を深めることに徹する研究者」と対比しても、多少なりとも役立てる何かがあるのか。本当に研究者などと名乗っていいのか。
鋭いお二人の分析から、崖っぷちでしがみついている自分自身が見えてくる。