参与的客観化

 

連休の最終日に、以前からしたかったファイルメーカーによる研究メモの構築がようやく完成。で、その第一号として、こないだ読んだブルデューの著作を読み返しながら、抜き書きとバタメモ、という形で30弱ほどメモしていく。そして、その最後の「抜き書き」を前に、考え込んでしまった。

「社会学者とその対象のあいだの関係を客観化することは、今のケースからはっきりわかるように社会学者がその対象に思い入れをする(投資する)という、対象への「利害=関心」の根源の傾向を断ち切るために必要な条件です。ゲームの中にいて他のプレイヤーに対して抱くことのできる、単純な、還元主義的で一面的な見方ではなくて、ゲームからリタイアしているがゆえに把握することのできる、ゲーム全体についての包括的な見方という意味での客観化がおこなえるためには、対象に介入する目的で科学(社会学)を利用する誘惑をあらかじめ捨てていなければなりません。社会学の社会学、そして社会学者についての社会学だけが、科学的目的を直接追求することを通じてねらえるような社会的目標をある意味でコントロール出来るのです。参与的客観化は、社会学の技法のうちでおそらく最高の形式です。この客観化は、参加という事実の中に刻み込まれた客観化のもたらす利益をできるだけ完全に客観化し、その利益とそれがもたらすあらゆる表現とを停止させることを足場としなければ、わずかでも達成する見込みはありません。」(ブルデュー「リフレクシヴ・ソシオロジーの実践」ブルデュー&ヴァカン『リフレクティブソシオロジーに向けて』藤原書店 p318-319

この「参与的客観化」が、現時点で一番難しい。なぜなら、現時点で僕自身、「対象に思い入れをする(投資する)」行為に突入していないか、と言われたら、多いにしている自分を発見してしまったからである。つまり、ある種のゲームプレーヤーになっているから、「単純な、還元主義的で一面的な見方」に終わってしまうのだ。この間、アドバイザーや様々な現地調査で失敗した多くの事例は、いつの間にか自分がゲームプレーヤーになる愚を犯すが故の問題である。彼の言葉が、グッと胸に刺さって痛い。

恥ずかしながら、少し前まで自分自身が、世の中の為になるのならプレーヤーでないと、という「単純な、還元主義的で一面的な見方」に終始していた。しかし、それなら研究者をやめ、実践家なり政治家なり、プレイヤーに転向する必要がある。実際、前回のブログで紹介した西水さんは世界銀行における実践家に転向したし、熊本県知事の蒲島郁夫氏は、政治を「参与的客観化」する立場から、文字通りのプレイヤーに転向した。そういう生き方もある。

ただ、現時点での僕は転向していない。その段階で、「プレイヤー気取り」をしても、実は真のプレイヤーではないのである。なのに、プレイヤーのように「科学的目的を直接追求する」行いそのものが、実は問題があり、誤った結論を導くだけなのだ。この位相のズレの無理解がもたらす行為の失敗の構図に、今ようやく、少しずつ気がつき始めた。遅すぎる、というおしかりを受けそうだが

「ゲームからリタイアしている」というか、プレイヤー気取りでも、実は本当は現時点ではプレイヤーではないのである。であれば、その立ち位置をきちんとわきまえてゲームを眺める「がゆえに把握することのできる、ゲーム全体についての包括的な見方という意味での客観化がおこなえる」のである。そして、それはプレイヤーでないからこそ出来る、ゲーム全体への貢献なのかもしれない。

色々な現場に、今年度も関わる。だが、その現場への関わりが、プレイヤーとしてなのか、参与的客観化が求められる研究者としてなのか、で、そこから出てくるアウトプットが大きく異なる。連休以後、いよいよ本格化する今年度の関わりに対して、「参加という事実の中に刻み込まれた客観化のもたらす利益をできるだけ完全に客観化し、その利益とそれがもたらすあらゆる表現とを停止させること」がどれだけ出来るか。

隘路を抜けられるかどうか、の瀬戸際である。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。