ここしばらく、1冊の小説を読んでいる。文庫本で700ページもある大作。読めるのだろうか、と疑心暗鬼で読み始めたら、何だか不思議な魅力にとりつかれ、ずっと読み続けている。その作品世界の面白さもさることながら、登場人物の発言の中に、思わずハッとさせられる場面が度々あるのも惹きつけられている理由かも知れない。例えばこんなところ。
「頭のなかの理想(ねがい)は、すぐそのまま現実(まこと)の政治(まつりごと)になるわけはない。その理想(ねがい)が高ければ高いほど、実際に現れた姿は、みじめなものに見えることが多い。理想(ねがい)を追う者は、現状(いまのまま)を眼にして、一段といきり立つ。焦燥に駆られる。そして駄馬に鞭打つように、必死となって、動かぬ廷臣たちに苛酷な要求を押しつける。それがますます理想(ねがい)に背馳し、復古(むかし)への刷新とは逆に、徒らな行政(まつりごと)の遅滞(とどこおり)を生み出すようになると、頼長殿は一段と廷臣達の精励恪勤(しごとのはげみ)を要求するようになる。」(辻邦生『西行花伝』新潮文庫、p372)
保元の乱で失脚することになる藤原頼長が、権力の中枢に昇詰める段階のエピソード。今から800年以上前の出来事を眼前の物語のように展開させる辻邦生氏のストーリーテリングの確かさに深くはまる一方で、この頼長の発言にはハッとさせられる。「理想(ねがい)」と「現状(いまのまま)」を対置した際、前者のみに眼がくらむと、「現状(いまのまま)」がどうしても陳腐に見えてくる。で、権力者ほどその実態に我慢ならず、部下に「苛酷な要求を押しつけ」、結果として「それがますます理想(ねがい)に背馳」することになる。もちろん、「現状(いまのまま)」の絶対的肯定は何も産み出さないが、。「理想(ねがい)」の絶対的肯定も、それと表裏一体の関係に、結果的になってしまう。
このページを折りながら、真っ先に頭に浮かんだのが、どこぞやで知事職を勤める人。彼が何「への刷新」を狙っているのかはもう一つ見えないが、とにかく「徒らな行政(まつりごと)の遅滞(とどこおり)を生み出すようになる」とみているし、そういう噂はあれこれ聞こえてくる。あちこちでマスコミ受けする罵倒をし続けて、お茶の間有権者には聞こえがよくても、部下としては非常にやだろうなぁ、と思ってしまう。
トップダウンが喧伝されることが多いが、僕自身が心から納得出来るトップマネジメントは、伊丹先生のシンプルな三箇条である。
「・経営とは、個人の行動を管理することではない。人々に協働を促すことである。
・適切な状況設定さえできれば、人々は協働を自然に始める。
・経営の役割は、その状況設定を行うこと。あとは任せて大丈夫。」(伊丹敬之『場のマネジメント』NTT出版、p5)
「理想(ねがい)」と「現状(いまのまま)」の調和、というか、後者から前者を導き出すために、どうしたらよいだろうか? 本人が心からその通り、と思うこと(=納得すること)なしに、いくらがみがみと「廷臣達の精励恪勤(しごとのはげみ)を要求」(=説得)しても、物事は進まないのではないか。この前提に立って、「人々は協働を自然に始める」ような、「適切な状況設定」という納得環境をつくり出すことの方が大切、と伊丹氏は整理しているのだ。さらに、いったん人々が納得して動き始めたら、「あとは任せて大丈夫」という器量をもつことが、経営者側に求められている。これは、企業であっても、まつりごと(政治・行政)であっても、そして教育であっても同じ事。
教員をしていて、「現状(いまのまま)」をしっかりと認識して分析することのない、「理想(ねがい)」のみの妄想的追求が、如何に混乱をもたらすか、を我が事として認識してきた。そして、この伊丹先生の三原則に照らしてみた時、己が実践の反省をするだけでなく、他の人々のマネジメントもこの尺度で判断すると、実に興味深い診断結果として見えてくる。結果として、「行政(まつりごと)の遅滞(とどこおり)を生み出」している現場では、先述の三原則が見事に無視されている場が少なくない。他者への手放しの信用は問題だが、他者への絶対の不信感も、同様に問題なのだ。
経営者としてどのような枠組み設定と、その後の信頼関係を構築するか。説得してねじ込むのではなく、納得して自発的に協働がうまれる環境をどう構築するか。人々の「協働」から、「理想(ねがい)」をどう紡ぎ出すか。自らが関わるガバナンス現場でも、共通する課題として見えてくる。