役割期待と心の余裕

 

気がつけば5月末。

先日、父の誕生日のお祝いの電話を実家にかけた際、両親から「ちゃんと休んでいるの?」と言われる。そう、実家にいた10代後半から落ち着きのなさに拍車がかかり、大学生以後、ずっとバタバタが代名詞だったのだ。そういう癖をよく知っているが故に、慶賀の電話でもご心配いただく。

いえ、最近は案外休める時もあります、と答える。

確かに昨年度は前期に東京の大学で非常勤(お世話になった先生のサバティカル期間の代講)を入れてしまったばっかりに、付随して東京で仕事が増えたり、後半には三重の仕事も入ったり、と本当に休みが少なかった。昨年からグーグルカレンダーに移行しているのでPCの前では日程チェックがすぐに可能だが、1年前を見てみて、空白の日がほとんどなかったことに、改めてあきれかえる。だが、それもよく考えてみれば「夢に見たこと」だったかもしれない、とも。

10代の頃から、少しませたガキで、同年代の話よりも、上の世代の話に加わろうとする子供だった。その延長線上で、早く大人になりたい、バリバリと働きたい、必要とされる人物になりたい、という内容なき形式への憧れがなかった、といえば嘘になる。声がかかればほいほいどこでも出かけたし、出かけた現場でわあわあわめきたてたのも、真っ当な正義感ゆえか、その衣にくるんだ自らのアイデンティティ保障か、と言われると、必ずしも前者だけであった、とは言い難い。何者でもない、という立場の不明確さを、行動力と発言力で補おう、という戦略。惜しむらくは、そこに「勉強と思考の積み重ね」をいれておかなかったことだ。それがあれば、今はこんなに苦労しないのだが

閑話休題。
立場が幸か不幸か定まってしまうと、その立場に合わせた役割期待がかぶさってくる、ということに、なってみて初めて気がつく。その役割期待は、千差万別。自分が感じているものも刻々と違うし、関わる現場でもマチマチだ。だが、何かの関わりをもつ様々な現場で、何らかの役割期待がかせられ、その内容が少しずつ大きくなるのも感じる。その上で、この役割期待と同化すべきか、拒否すべきか、是々非々なのか、がおそらく10年後の自分に大きな岐路として出てくるのだろうな、とも感じる。

この役割期待への対処の際、肝心なのは、当たり前の話だが、心の余裕である。判断に一貫性があり、柔軟ではあるが筋目を違えない判断をするためには、バランス感覚と落ち着きが必要だ。で、それらの力を持つためには、ある程度の時間的余裕、が必要である、ということが、去年、ある程度時間的に追い込んでみて、つくづく感じた。ちいさな事であれ、何らかの事をなすには、余裕がないと向き合えないのだ。こういう当然なことも、自分事でないと、体感出来ない。で、判断をまともにし続けるためには、休息という手段が最も効果的である、とも。

とまあ、ぐだぐだ書いてきたが、結果的に週末に料理をしたり、本を読んだり、のんびりする時間が昨年度より少しは増えた。だから、以前に比べたら歪みが多少は減っててきたのではないか、と思う。昨日は道の駅に出かけ、人が群がるトウモロコシも少しは買ったが、それよりニンニクも山ほど買い込んで、おうちでひたすらむきまくる。瓶一杯にニンニクを詰めたら、上からどぼどぼと酢を流し込んで、冷蔵庫に。1週間もすればドレッシングのベースであるニンニク酢に仕上がるはずだ。で、残りのニンニクは、みじん切りにしてフードプロセッサーにかけ、餃子の具に。今回はニラを買わずに、大根の葉っぱの「有効活用」。ついでに終わりかけのタケノコも水煮したり、今朝は下処理を終えて若竹煮をしこんだり、と久しぶりに台所に立ち続けた。

こうして料理に無心になって、すっきりと自分の「あく抜き」も出来た。さて、休みが少なくなる来月の戦略をボチボチ考えるとするか

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。