隔離収容とコロナ危機

7月31日に放映されたETV特集「ドキュメント 精神科病院×新型コロナ」を遅まきながら見る。日本の精神医療の構造的問題が1時間にぎゅっと詰まっていて、その悪循環がコロナ危機で高速度回転している様子が手に取るようにわかり、見ていて辛かった。

一番辛かったのが、民間精神病院の団体の長である山崎學氏の発言

「精神科医療っていうのは、僕はよく話をするんですけど、医療を提供しているだけじゃなくて、社会の秩序を担保しているんですよ。町で暴れている人とか、そういう人を全部ちゃんと引き受けているので、医療と社会秩序を両方精神医療に任せておいて、この(診療報酬)点数なんですか?って言っているわけ。一般医療は医療するだけじゃないですか。保安までも全部やっているわけでしょう、精神科医療って。(入院を)断ってたらどこもとらないし、一番困るのは警察だと思うよ。警察と保健所が困るだけだよね。」

彼は以前から「精神科医に拳銃を」と団体の機関誌に載せるような筋金入りの確信犯なので、正直想定外の発言ではなかった、残念ながら。だが、テレビカメラの前でもそういうことを堂々と言ってのけるのは、俺たちが「社会の秩序」なるものを担保しているのだ、という強烈な自負心があるからだ、と見ていて改めて感じた。その上で、「医療と社会秩序を両方精神医療に任せ」ていることが問題だ、と言うのではなく、「この(診療報酬)点数なんですか?」=つまり一般医療と違って保安も全部やっているのだから、もっとカネをよこせ、と堂々と述べているのは、本当に銭ゲバというか、あきれ果てた。それは、半世紀以上前に日本医師会の当時の会長である武見太郎が「精神科医は牧畜業者だ」と揶揄していたが、結局の所、警察と保健所の代わりに患者を隔離拘束して「社会の秩序を担保」するのが精神病院なのだから、カネをもっとよこせ、という帰結で、医療とは全くかけ離れた牧畜業者の論理が21世紀も続いていることを、まざまざと見せつけられた気分である。

そして、危機こそその人なり組織の本質が垣間見れる、というが、それは山崎発言だけではなかった。

この番組は、コロナ危機における精神科治療の受け入れ病院になっている東京都立松沢病院に密着取材していたのだが、都内の民間病院からのクラスター患者が転院してくて、そこには隔離収容の様々な縮図がてんこ盛りになっていた。褥瘡がひどいレベルであるお年寄りの話は、介護保険が始まる前ならいざ知らず、今はふつうの老人施設でもなるべく褥瘡を減らす努力をしている。あるいは、コロナで転院してきたけど、精神症状はほぼ喪失している、30年以上の入院患者。家族が帰っていてほしくない、というので、転院前の病院の病室しか居場所がない、ともいう。そういえば、この番組は原発事故で病院閉鎖した福島の精神病院に長期入院し、のちに退院した時男さんのドキュメンタリーを撮った青山さんが制作チームにおられたが、原発がコロナ危機に変わっただけで、構造は非常に共通していると感じる。つまり、普段は外からうかがい知ることが出来ず、外部の目が入ることない、がゆえに、「牧畜業者」に長い間飼い慣らされ、病状が消失しても、そこからでれない人がたくさんいて、コロナ危機や原発災害で、外に出ざるを得なくなって、そういう状況が初めて「発見」される、という構図である。

さらに、そこに保健所や行政も、結果的に加担している構図も見えてくる。

クラスタが発生したY病院では、大部屋に陽性患者を集め、急遽大工道具で鍵を設置し、外から南京錠をかけていた。ナースコールもなく、居室内の囲いのないポータブルトイレで用を足すことが求められ、水などを求めて患者が絶叫していたという。しかも、保健所が指導に来る日だけ、南京錠は外されたが、その居室の前は通り過ぎたので、閉じ込められた人の声は聴かれないまま、放置されていた。そして、保健所が帰った後、再び南京錠で閉じ込められたという。これは明確に精神保健福祉法違反であり、厚労省の担当者も一般論として指導を徹底する、と述べてるものの、保健所や東京都は具体的な回答を拒否し、病院も取材に応じなかった、という。

そして、残念ながら、このような杜撰な行政指導も、いまに始まったことではない。医療監視や実地指導の当日だけ、隔離拘束がとかれたり、施錠された部屋が開放されたり、ということは、コロナ以前からも、よろしくない病院あるある、であったのだ(この実地指導の問題は20年近く前の院生時代に論文に書いたが、本質的には変わっていない・・・)。そして、これは精神医療業界の「常識」で、であるがゆえに、このY病院に実際に訪問して、南京錠施錠を発見した松沢病院スタッフ達の会議の後で、一部の医師が「コロナを治療した後、その病院にそのまま帰すだけでいいのか?」と当時の院長であった斎藤医師に詰め寄った所、「そういう病院が潰れてしまったら、今の社会は受け入れないので、もっとひどい病院に行くだけだ」と苦渋の表情を浮かべていた。

この斎藤院長の煮え切らない発言にモヤモヤしたのだが、これはこの院長や松沢病院の責任ではない。結局のところ、医療だけでなく社会の秩序維持までも精神病院にお任せしてしまい、少ない予算でお願いするから中身については特に問わない、という形で戦後ずっと民間病院に強制入院をほぼ丸投げしてきた(9割の病床が民間病院)、日本の精神医療の宿痾が、コロナ危機に極大化しているのである。

そのことは、4年ほど前に記事(誰のため、何のための「改正」? 精神保健福祉法改正の構造的問題)を書いたのだが、その際に書いた論点は、残念ながらこの番組でも活用できてしまう。僕はこの記事の中で、「精神医療の目的は犯罪予防ではない」と書き、精神科医に治安の責任を負わせるべきではない、と書いたが、現状では先の山崎発言にあるように、犯罪予防や治安の責任を精神科医や精神病院に追わせているのである。だから、他科で見られる重大な人権侵害も、精神科病院ならずっと見過ごされてきたのだ。これは、神出病院など最近の虐待事件でも、繰り返し現れ続けていることでもある。

斎藤院長は番組の中で、こんなフレーズも述べていた。
「見たくないんだよ、自分が怖いものは」「ひずみは必ず脆弱な人に現れる」

精神病院に患者を閉じ込めて、そこで何が行われているのか、直視しない。これは、家族関係などの極端な悪化の中で生きる苦悩が最大化した人を、家族だけでなく支援者もうまく見る事が出来ないから、精神病院にお任せしてしまう、という現状である。「町で暴れている人」も、意味なく暴れているのではなく、暴れざるを得ないほど、生きる苦悩が最大化したのだが、そのときに、町の中でそれを鎮める術を日本ではうまく構築してこなかったから、そうなっているのである。一方、オープンダイアローグだとか、トリエステ方式だとか、世界の様々な地域では、急性期の人も、家族が丸抱えするのでも、病院に丸投げするのでもなく、地域の中で、医療者と家族と本人が共に、急性症状を鎮め、よりよい関係性を再構築するための支援をやりながら、隔離拘束を最小化している地域もある。

つまり「医療と社会秩序を両方精神医療に任せておいて、この(診療報酬)点数なんですか?」という「問い」に対するまっとうな答えとは、「社会秩序は警察に戻した上で、まともな医療をちゃんとやってください」ということに、尽きるのだ。それが出来ないなら、病院経営から退散してほしいのだが、厚労省はそういう病院の持続可能性には妙に配慮してしまう(僕は以前、それをワープロ業者への補助金と批判した)。

そこで、コロナ危機で改めて浮かび上がった、脆弱の人に直撃したひずみとしての現状をどうするべきなのか? 隔離収容での集団管理型一括処遇が、クラスタ感染をもたらした大きな要因であることは、まず間違いない。そして、その陽性患者に適切に対応出来ない古い病棟体質が、二次被害ももたらした。そういう意味で、結局の所、やっぱり社会的入院の患者さん達を、国の責任で退院させていく、強力な戦略が必要不可欠だ、という帰結に尽きる。そして、それをどうやったらいいのか、は10年前に関わった国の障がい者制度改革推進会議総合福祉部会で既に整理している(そのことはブログに以前書いた)。

こういうことを放置していたからこそ、今回の精神科病棟におけるクラスタ感染だとするならば、これは自然災害なのか? 人災の部分はないのか? 改めてこの番組を見ながら、モヤモヤが強まるばかりである。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。