神話化を超える「わかる」

 

お気づきであろうか。
ブログ管理人N氏のご協力のおかげもあり、このブログの文字はかなり大きくしてもらいました。今まで僕自身は文字を「最大」にして読んでいたのですが、普通の画面では(エクスプローラーの「文字サイズ中」であれば、実に読みにくい小ささ、だった。論考の稚拙さという読みにくさ、だけでなく、文字がそもそも小さくて、取っつきにくかったのだ。

ようやく形式面では整った。あとは、いつも書くように「内実」だけ。

で、今日は久方ぶりに本当のオフ、で、一日家に引きこもり。何もしなくて良い日、がこんなに開放的とは、忘れていた。野菜を買いに行くのもパートナーにお任せし、ジムも平日に回して、とにかく昼寝と読書。極楽である。で、そういう極楽読書をしていると、こないだの議論の続きに出会う。

「ブルデューの眼からすれば、社会学の任務とは社会的世界を脱自然化し脱運命化することであり、すなわち権力の行使を包み隠し、支配の永久化を包み隠している神話を破壊することである。しかしながら、そうした神話破壊は他者に罰を与えたり、他者の内に罪の感情を生じさせることを目的とするのではない。まったく反対に社会学の使命は、行為を規定している制約要因の世界を再構成することによって、行為がなぜなされたか、その『必然性を示す』ことであり、それらの行為を正当化することなく、恣意性から引き話すことである。」(ロイック・J・D・ヴァカン「社会的実践の理論に向けて」ブルデュー&ヴァカン『リフレクティブ・ソシオロジーへの招待』藤原書店、pp80-81)

こないだ紹介した竹内洋氏の社会学案内で一番興味を持った一冊。丸善で早速注文し、今日の極楽読書のお供にした。いやはや、面白い。「社会的世界を脱自然化し脱運命化すること」とは、僕の語彙で言えば、「しゃあない」を超えること、だと思う。福祉の現場で、あるいは学生と接していてもよく聞く「しぁあない」(「仕方ない」の関西弁)。ぼくはこの「しゃあない」とか「どうせ」という文言が、努力をしていない言い訳に使われる場合、生理的な嫌悪感と反感を抱く。そして、それは政策の放置、社会を良くしようという営みの放置、に思えるからである。(今、「しゃあない」とスルメコラムの検索窓にひっかけるだけでも、16ものコラムにこの「しゃあない」論考を書いている。例えば一年前も。我ながら執拗だ

そう、何が嫌いって、「どうせ」「しゃあない」にこびりついている「自然化」「運命化」、つまりは「神話化」路線が嫌いだったのだ。その嫌悪の理由が、神話作用によって、「権力の行使を包み隠し、支配の永久化を包み隠している」という事態に対する嫌悪だった、ということが、この文章を読んでいてようやくわかった。不勉強故の遅さ、である

そして、この後のヴァカンの整理もわかりやすい。

「行為を規定している制約要因の世界を再構成することによって、行為がなぜなされたか、その『必然性を示す』こと」

このフレーズの中に、最近ぼんやり考えていた事との接点が多数含まれている。まず、「再構成」と言えば、以前引いた橋本治氏もこんな事を書いていた。

「「『わかる』とは、自分の外側にあるものを、自分の基準に合わせて、もう一度自分オリジナルな再構成をすることである。」(橋本治「わからないという方法」集英社新書、p105

この再構成の作業の中で、「行為がなぜなされたか」ということが初めて再構成をする人間の内部で「わかる」ことが出来、だからこそ、その『必然性を示す』ことも出来うるのだ。そして、「行為を規定している制約要因」の「必然性」を解き明かすこと、このことも、以前引いた佐藤優氏が使う「内在的論理」という言葉で、最近ずっと考えている。彼はこんな風に言っている。

「ヘーゲルは、特定の出来事を分析する場合、まず当事者にとっての意味を明らかにする。対象の内在的論理をつかむことと言い換えてもよい。その上で、今度は、対象を突き放した上で、学術的素養があり、分析の訓練を積んだわれわれ(有識者)にとっての意味を明らかにする。更に有識者の学術的分析が当事者にどう見えるかを明らかにするといった手順で議論を進めていく。当事者と有識者の間で視座が往復するのだ。この方法が国際情勢を分析する上でも役に立つ。」(佐藤優『地球を斬る』角川学芸出版 p266-7)

そう、「対象の内在的論理」という名の「必然性」を「わか」った上で、「今度は、対象を突き放した上で」「われわれ(有識者)にとっての意味を明らにする」。その中から、「それらの行為を正当化することなく、恣意性から引き話すこと」が可能になる。そこから、対象の内在的論理を掴んだ上で、「どうせ」「しゃあない」を超えるための対案の可能性が生まれてくるのだ。そのためにも、まずは徹底的にその対象を「わかる」必要がある。そして、ようやく最近このような「わか」りかたを、僕自身も身につけ始めたのかもしれない。ふと、1年前に書いたある原稿を思い出す。少し長くなるが、引用する。

「確かにニイリエの1969年の原理は、施設環境を全否定するものではなく、施設環境を改善するための整理となっている。バンクミケルセンの3つの条件にしても然り、である。この点に関しては、『北欧のノーマライゼーションの初期概念は施設中心的なものである』と整理することは、間違いであるとはいえない。
 だが、それは明らかに二人の言説(=つまりは「図」)のみに焦点化したものである。これまでに整理してきたように、ゴッフマンやバートンの「補助線」を用いた際に見えてくるのは、北欧の二人は明確に、全制的施設の構造的問題を、批判の対象にしているのだ。そして、『常人としての自己を維持させる』、つまりは無力化されないための条件とは何かを明確な形にするために、ノーマライゼーションの理念を形成していくのである。そして、その条件を突き詰めていく中で、施設から地域へ、という北欧の実践が自ずから生み出されてくる。二人の理念創設時の「地」の理解からは、このような整理が導き出される。
 私たちは、単なる言葉(=図)だけではなく、その言葉が出てきた歴史的・社会的文脈(=地)を見なければならない。当然の事ながら、『ノーマライゼーション=善』という浅薄な理解も、自分の思いこみの言葉への投影、という点では図のみの理解そのものである。施設か地域か、善か悪か、という言説(=図)のみではなく、その理念や考えがどのような文脈(=地)から生まれ、変容していくのか、をじっくり眺めない二項対立的言説は、本当の意味でのラディカル(=根元的)とは言えない。」(ノーマライゼーションを『伝える』ということ」『季刊福祉労働』119号、2008年)

そう、「図」の背景にある「地」をじっくり眺め、解き明かすこと。その中から「社会的世界を脱自然化し脱運命化すること」が始まるのかもしれない。

少しずつ、自分の視座のようなものが、物事に対処する立ち位置が、定まって来た、と言えればよいのだが

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。