同じ本を

 

二度買う阿呆は何度かやったことがある。しかしこの度、遂に3度買う愚行を犯してしまった

こないだのブログでも触れた木村敏氏の語りおこし「臨床哲学の知」(洋泉社)を読んで以来、別の氏の作品の理解がグッと上がってきた。とりあえず手元にすぐに見つかった「時間と自己」(中公新書)を読んでみるが、以前途中で挫折したこの新書も、今回はすんなり入ってくる。やはり彼のキー概念であるアクチュアリティとリアリティが自分の中にかなり浸透しているので、論理展開が「読める」のだ。

そういえば、ある人が、氏の「心の病理を考える」(岩波新書)を評価していた事を思い出し、「持っていたハズなのに」と書架を探す。でも見つからない。新刊は絶版になったが、幸いアマゾンでは廉価で古本が買える。で、届いた矢先、学生さんと研究室で話している際、ふと二冊目が見つかる。中を見たら、中にあれこれ書き込んでいる。あ、やっちゃった。

この「以前買っていたのにちゃんと探さずに二冊目を買ってしまう愚行」は、特にバタバタしている時期に買った書物で起こりやすい。在庫整理もままならず、書架にとにかく投げ入れていれば、気になる本が未購入と誤認され、同じ本を買う愚行に繋がる。ここ1,2年でそんな「ペア」が4,5回続いた。

それだけでも哀しいのだが、今回は何と一昨日のゼミ中、学生に本を紹介するつもりで何気なく書架をみていて、出てきたのだ、3冊目の「心の病理を考える」。しかも中をみたら、これはこれで書き込みがある。汚い筆跡はどう考えても僕自身だ。ということは一度読んだことを忘れ、二度目にまた同じ本を購入して読み、さらに今回三度目の購入。しかも興味深いのは、一冊目に線を引いた箇所と、二冊目のそれとが違うのである。超好意的に言えばよく学んでいる、でも普通に言えば、学びがきちんと実になっていない、とでもいえようか。

閑話休題。
しかし、木村敏氏の「あいだ」論が、今回ほどグッと胸に迫ってくることは、今までなかった。それは、全く別の本を読んでいて、木村氏と通底する議論を発見したからである。

「社会的世界のなかに存在するものは、関係です。行為者同士の相互行為でも間主観的な結びつきでもなく、マルクスがいったように『個人の意識や意志からは独立して』存在する客観的諸関係なのです」(ブルデュー「リフレクシヴ・ソシオロジーの目的」 ブルデュー&ヴァカン『リフレクティブ・ソシオロジーへの招待』藤原書店、p131)

「行為者同士の相互行為でも間主観的な結びつきでもな」い、「客観的諸関係」、について、ヴァイツゼッカーの議論を引きながら木村敏氏はこんな風に捉えている。(ちょうど二回の読書で線を引いておいた箇所に見つかった)

「主体が有機体の、とくに人間のような自己意識的行為者の-この場合にはこれを『主観』と訳し換えることもできるだろう-内部に備わったものでなく、有機体と環境のあいだで、あるいは両者の境界面で絶えず生成消滅を繰り替えしているというヴァイツゼッカーの見かたは、私たちにとってこの上なく重要である。有機体は、だからもちろん人間も、環境に適応して生きていく必要がある。そしてこの適応とは、有機体が絶えず変化する環境との相即関係を通じて、環境との接点でみずからの主体/主観を維持し続けているということなのである。主体とか主観とかいわれるものは、個々の個体が独自に内面化している固有の世界の中心点なのではない。個体が個体として存続するために当の個体の主体はつねに個体の「外部」で、個体を取り巻く『非自己』的な環境との『あいだ』に成立していなくてはならない、これがヴァイツゼッカーの考えなのである。」(木村敏「心の病理を考える」岩波新書、p59)

この木村敏氏の有名な「あいだ」論の核心部分で、特に「主体とか主観とかいわれるものは、個々の個体が独自に内面化している固有の世界の中心点なのではない」という点が、ブルデューの意見と非常に近い。ブルデューは先に引いた箇所の直前に、こうも述べているからだ。

「ハビトゥスについて語るということは、個人的なもの、個性的なもの、そして主観的なものさえもが、社会的、集合的だと主張することなのです。ハビトゥスは社会化された主観性です。」(ブルデュー、前掲、p167)

木村氏の言う「個体の『外部』で、個体を取り巻く『非自己』的な環境との『あいだ』に成立していなくてはならない」、つまりは「社会化された主観性」のことを、ブルデューは「ハビトゥス」と呼んだ。そして、この「あいだ」に成立している何かを統合失調症や躁鬱病者の症状の中から顕在化させた木村敏氏に対して、ブルデューは社会学的にハビトゥスを析出しようと試みてきた。

「ハビトゥスの最初の動きをあやつるのは難しいのです。けれども反省的分析によって、状況がわれわれにおよぼす力の一部分は、われわれ自身がその状況に与えたものなのだ、ということがわかります。つまりその状況に対する見方を変えたり、状況に対するわれわれの反応を変えたりできるようになります。反省的分析によってある程度まで、位置と性向のあいだにある直接の共犯関係を通じて働く決定作用のいくつかを支配できるようになります。」(ブルデュー、同上、pp179-180)

「環境との相即関係」はすでに始まってしまっている。その「最初の動きをあやつるのは難しい」。だが、精神病理学の得意とする精神分析に似た「反省的分析によって、状況がわれわれにおよぼす力の一部分は、われわれ自身がその状況に与えたものなのだ、ということがわか」る。

以前に触れたが、わかる、つまり「理解する」ということが、何らかの日常世界の再構成だとすれば、再構成が出来るようになるということは、その構成要素をいじり、その「あいだ」の関係性に意識的な変容を加えることが可能になる、ということである。木村氏の言葉を使うのなら、「個体を取り巻く『非自己』的な環境との『あいだ』」に着目することによって、『非自己』的な環境の変容が始まり、ひいては自己も含めた「決定作用のいくつかを支配できるようにな」るのである。

自分がテーマとする分野のいくつかで、このような「あいだ」や「ハビトゥス」がどのように作用しているのであろうか。両巨匠には並ぶべくもないけれど、自分の分野にもその切り口と視点を応用してみたい、と感じるきっかけとなった。そういう「もうけもん」があった木村氏の名著なのだから、3冊くらい買っても罰は当たらない、かしらん

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。