書評依頼をされている本を通常ブログに取り上げない。でも、この本はどうしても読んだ時点でのフレッシュな感想をブログに書いておきたくて、取り上げる。それが山根純佳さんと平山亮さんによる『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか :見えないケア責任を語る言葉を紡ぐために』(勁草書房)である。
書評は規定演技で本の魅力をしっかり伝える事なのに対して、ブログは自分がどう感じたか、そこからどんな妄想が浮かんだか、をジャンプしていくことだと思っているので、今回は思いっきりジャンプして書いてみる。
この本のキーワードが、イギリスの社会学者ジェニファー・メイソンによるsentient activityである。聞き慣れない単語だが、sentient beingとは「感情を持つ存在」とか「知的生命体」と訳されるので、sentientは知覚や感覚を指す。ということはsentient activityとは「感覚的活動」なのだが、それをケアに結びつけた時、「感覚を働かせた活動」だと言い換えてみたくなる。それは一体、どういうことか?
先週になってきてめちゃくちゃ寒くなってきたが、そうすると子どもが風邪を引かないように衣替えをしたり、暖かい服を着させる。胃腸も冷えないように、味噌汁を多めに作って朝晩食べさせるようにする。あるいは、グズっていたら調子が悪いのか、眠たいのか、お腹がすいたのか、退屈なのか、どういう背景があるのかを想像したり本人にたずねたり、文脈を把握しながら類推して、早く寝かせてみたり、ご飯を与えたり、楽しいおしゃべりに誘ったりしてみる。これらは、ケアする側がケア対象者がどんな風に感じているかを類推しながら、具体的な次の一手を打ってみる、という意味において、「感覚を働かせた活動」であり、sentient activityなのである。
そして、この本は、そういうケア能力は女性に生得的にあるものではなく、男性にだって、別の対象に対してそういう「感覚を働かせた活動」をしているよね!と喝破しているところが、実に面白い。
「いや、実際には私たちは、他者が求め、必要としていることを「察し、気を回し、手を回す」男性達の姿をいくらでも目の当たりにしているはずなのです。
たとえば、忖度という言葉を思い出しましょう。忖度という言葉は、まさに相手の求めていること、必要としているものを推察し、それを実現できるように気を回し、手を回す様子を指して使われてきたはずですが、そういう忖度は、社会化の過程でそうしたスキルを嫌が負うにも身につけさせられてきた、女性たちにしかできないことだったんでしょうか。
いえ、そんなことはないでしょう。なぜならこの忖度という言葉が人口に膾炙したのは、典型的な男社会である政治の世界で、そういうことをやっている男性たちの姿が報じられてのことだったはずです。その意味で私たちは、男性が「察し、気を回し、手を回す」ことなどいくらでもできることを「知っている」はずですし、そうする男性たちの様子を報道によって知っても、「ありそうなこと」と違和感なく受け入れられるくらいには、男性がそういうことをすること・できることを「普通のこと」と思っているのです。」(p70-71)
確かに政局報道などを見聞きしていると、政治家達は「義理と人情」の世界で、様々な「貸し借り」をしている。また政治家と付き合う官僚も、同じように「忖度」している。書類を偽造したり、あるはずの書類がないと言ってみたりして、「察し、気を回し、手を回す」ことを、男性の政治家や官僚はたくさんしている。つまり、「感覚を働かせた活動」としてのsentient activityを男性も実はたくさんしているし、出来るのである。
にもかかわらず、家事や育児はなぜ女性のものとされ、男性はそれが苦手だ、という言い訳が生得的な、あるいは性差のように語られるのか? 「察し、気を回し、手を回す」ことを、仕事現場であれほど男性も出来るなら、それをケアの領域でもすればいいだけではないか? それが本書の主張だと受け取ったし、僕もそうおもう。会社や仕事で忖度する=「察し、気を回し、手を回す」ことが出来るなら、そのリソースを家事や育児にも割いたら良いじゃん、と。
そして、この本の著者、平山さんは男性への追及の手を緩めない。
「ついでにいえば、時間がないことをケアに携われないエクスキューズにできるのは、男性にのみ許された特権的行為であることも、おさえておく必要があるでしょう。女性の場合、どんなに仕事の時間が長くなろうとも、ケアの責任を減免されることはないからです。その意味で、ケア責任のジェンダー不均衡とは、単に女性が担うケアの負担が重いことをだけをいうわけではありません。男性であれば認められるはずの、仕事とケアをトレードオフにできる権利、それが女性に認められないという不均衡も含めての、ケア責任のジェンダー不均衡なのです。」(p81)
この「男性にのみ許された特権的行為」についても、身に覚えがある。子どもが生まれたての時、子育ての先輩ママである大学院の後輩から、こんなことを言われた。
「イクメンとかいうけど、男性ってちょっと育児するだけで、加点方式なのですよね。だからこそ、休日はフットサルとかに平気で行ったりする。一方で育児をする女性は減点方式。休日に遊びに行った、とかすると、「子どもを放り出して」とか非難される!」
つまり、基本的にケアは女性がするもの、という前提があるがゆえに、「女もすなるケアというものを男もしてみん」とすると、それだけ加点されるし、要求水準が高い家事をしない女性は批判される。だからこそ、男性は「時間がないことをケアに携われないエクスキューズにできる」のに、女性は「どんなに仕事の時間が長くなろうとも、ケアの責任を減免されることはない」という「ケア責任のジェンダー不均衡」があるのだ。
それに先ほどの「忖度」議論を重ね合わせると、夫は仕事で上司に「忖度」するのだから、妻は家庭で夫に「忖度」せよ、という論理になる。でも、それは典型的な家父長的な抑圧委譲の考え方であり、夫が会社で抑圧されてきたから、夫は妻を家庭で抑圧してよいし、妻は長時間労働と単身赴任で家にいない夫への苛立ちを子ども(娘)に抑圧していく、という悪循環構造そのものである。
でもこれは昭和的な働き方、労働のあり方の残滓である。こういう抑圧委譲が良くないと思うなら、 パートナー同士で「察し、気を回し、手を回す」という行為を同じように行って、その負荷を下げた方がよい。そのために「複数の行為者で協働するという意味でのケアの社会化」を行えるかどうか、が大きく問われている(p132)。
それは、仕事の世界でも、同じである。組織内で上司にばかり「察し、気を回し、手を回す」社員がいる一方で、同僚や部下、出入の関係機関も含めて、関わる多くの人々に対して「察し、気を回し、手を回す」ことが出来る人もいる。ただ、旧態依然とした組織であればあるほど、出世をしやすい、優秀だと言われる社員は「上司にばかり「察し、気を回し、手を回す」社員」だったりする。その一方で、「同僚や部下、出入の関係機関も含めて、関わる多くの人々に対して「察し、気を回し、手を回す」こと」が出来る人は、上司だけを忖度してくれる訳ではないの、上司にとってはそれほど立派な社員に移らず、下手したら評価が低かったりする。この点が、めっちゃ問題だと感じる。
つまり、本当は仕事場においても、「複数の行為者で協働するという意味でのケアの社会化」が必要なのに、変に能力主義が導入されてしまったことによって、協働作業における「忖度」以外の「察し、気を回し、手を回す」への評価が後回しになっているのではないか、とすら思えるのだ。そして、これは能力主義について多くの事を学ばせてもらっている勅使川原真衣さんの論考に、沢山書かれている点でもある。
あと、「ママ友付き合いは、やめちゃえばいい? 男たちには見えていない、繋がることの意味」(p15)も本当にその通りだなと感じた。正直、この点については、妻に本当に感謝している。
子どもが1才の時、僕の仕事の都合で、我が家は山梨から兵庫に引っ越した。妻は仕事をやめて引っ越して来てくれて、最初は意図的にすぐに仕事に復帰せず、子育て支援センターに通い続けた。そこで、ママ友のネットワークを作っていく。元々そんなに人付き合いは得意ではない、というか、面倒くさがることもあるタイプだったが、誰も知り合いのいない新たな土地で、医者はどこがよい、とか、保育園情報とか、同級生の親と繋がっておくことが、何かと死活問題だった。これは、直接的な子どものケアではないが、同級生のお母さんと沢山繋がることによって、何かあったときに相談出来る、頼れるネットワークを形成することだ。だから、彼女はこども園でも役員を引き受け、おかげでこの7年間で沢山の知り合いができた。小学校の運動会の時とか、ずっと色々なママ友と声を掛け合い、情報交換している。そういうおしゃべり自体が、娘が小学校で楽しく過ごすための、「察し、気を回し、手を回す」という、「感覚を働かせた活動」であると、この本を読みながら、改めて感じた。
まだまだ語りたい事はいろいろあるが、それは6000字書評にとっておこうと思う。ケアが気になる人に必読の一冊である、とは、きっとその書評原稿でも書くことになるだろう。