サラ・アーメッドの『苦情はいつも聴かれない』(筑摩書房)を読んだ。560ページの大著は何を語っているのか。
「システムを変えようとする人たちを阻止することによってシステムは機能している」(p53)
深刻なハラスメント被害を受けた人々が、組織の苦情受付窓口を通じて、その被害を申し立てようとする。それは、現状を変えてほしい、という意味において、「システムを変えようとする」行為である。その行為は、全力で阻止されたり、受け付けられても遅々として進まなかったり、「あなたの昇進に響くよ」ともみ消されたりしている。そのような「阻止」によって「システムは機能している」という、恐ろしい話である。日本ではない。英米圏の大学でも全く同じような事が行われていたことに読んでいて、戦慄する。日本と同じじゃん、と。
「あるブラック・フェミニストの学生は、理性的ではないという言葉は我慢ならないと私に打ち明けた。身動きを取れなくする言葉はたくさんあるのだ。周囲から怒れる黒人女性として見られていると彼女はわかっていたが、その言葉は彼女を苛立たせ、疑問を抱かせた。『自分は理性的なのかとつねに問いかけています』。適切ではない言葉にも、自分は適切なのかと疑問に思わせる力がある。」(p34)
苦情を申し立てる側は、理不尽な目に遭って、我慢ならないから怒っている。だが、その怒りを表明する言語は「理性的ではない」という他者からの決めつけ的名指しによって、矮小化される。『自分は理性的なのかとつねに問いかけています』という彼女の発言は、自分の苦情が正当に受け入れられない事に対しての怒りだけではなく、そのような表明をする彼女自身が真っ当な主体ではないか、と自らの存立土台を揺らす問いを、彼女に埋め込ませているのだ。だからこそ、「適切ではない言葉にも、自分は適切なのかと疑問に思わせる力がある」という指摘は、本当に恐ろしい。
そしてこの本のキーワードの一つが、「ノンパフォーマティブ」である。
「「ノンパフォーマティブ」という言葉で私が表現するのは、名前を挙げたにもかかわらず、それを実行に移さない組織の発話行為だ。苦情についての調査をおこなうことで、新たな視点からノンパフォーマティビティの概念を再考し、何かを実行しないことが組織の生(ライフ)に及ぼす奇妙な影響を追求することになった。(略)それは、ポリシーや手続きに従えば起こるとされていることと、実際に起こることの間の差(ギャップ)だ。」(p56)
この大著を読書会で一緒に読んで議論した大谷大学の岡部茜さんが、「これって生活保護でしばしば言われていることですよね」と指摘してくれて、ハッとした。確かにその通り。日本国憲法第25条一項には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と書かれている。そして、それを保証するのが生活保護法であり、厚生労働省のホームページには「生活保護の申請は国民の権利です」と書かれている。にも関わらず、「水際作戦」と題して、申請をさせない様に「資格がないから」と対象者を追い返したり、関係が悪化している親族にも「扶養照会」をかけるぞと脅して申請者を脅したり、若いから・車を持っているからダメだ、と嘘をついて門前払いしたり、という違法自体が福祉事務所で繰り返し起き続けている。(例えばこの新聞記事とか、書籍なら『桐生市事件』とか)
これはアーメッドのいう「ポリシーや手続きに従えば起こるとされていることと、実際に起こることの間の差(ギャップ)」である。厚労省は繰り返し、福祉事務所に対して、生活保護申請は権利であり、申請受付を拒否しないように指導している。ただ、その「ポリシーや手続きに従えば起こるとされていること」が現に行われず、生活保護率が近隣自治体に比べて異様に低かったのが群馬県桐生市である。桐生市の「ノンパフォーマティビティ」については、以下の新聞記事による証言が生々しい。
◆息子が生活保護を受けていたが、職員から援助できないのか聞かれた。余裕がなく援助不可と伝えたが、何も援助できないのかとさらに聞いてきた。たまに弁当を持っていくことがあると伝えたところ、職員は「1日200円くらいにはなる」と言い、1カ月に6千円ほどの食品を息子に渡していることになってしまった。
◆単身の父親がホームレスのような生活状態(栄養失調、電気ガス水道が止まっている)だと知り、生活保護申請のために窓口に行ったが、家計簿をつけるように言われて申請とならず、再度窓口に出向いたが、「家族で支えあって」と言われて申請にいたらなかった。
◆保護係の職員による恫喝、罵声は日常茶飯事で、他課職員でさえ聞くに堪えない内容だった。しかし誰も注意せず、制止しなかった。
これらは「名前を挙げたにもかかわらず、それを実行に移さない組織の発話行為」である。生活保護を申請させない、受理しない、水際で申請を阻止することが、保護係という「組織の生(ライフ)」の最大の目的になり、その目的遂行のためには、申請に来た市民を侮辱してもかまわない、という言語道断の横暴が繰り返されていた。市役所職員というルールを護るべき常識人が何でこんなことを、と驚くかも知れないが、「システムを変えようとする人たちを阻止することによってシステムは機能している」というアーメッドの補助線があまりにも当てはまってしまう例でもある。
「さまざまなケースでポリシーや手続きが回避されていても、それらはどこかに存在する。これまでに述べたように、苦情を訴える者はしばしば苦労してそれらを探し当てなければならない。ポリシーですら埋葬される。あるいは、ヴァーチャルな生を持つことがある。ある研究者は「ポリシーはウェブサイトに居座ることができる」と言う。ポリシーはただ「そこに居座る」だけでも何らかの役割を果たしている。居座るというのが、その役割だ。存在するものと、活用されるものとのあいだのギャップは、苦情を訴える人が陥りかねないギャップのひとつだ。」(p87)
このフレーズから、精神病院への強制入院時での告知問題を思い出していた。精神保健福祉法においては、医療保護入院や措置入院など、患者の意思に反して(非自発的に)強制的に入院させる際には、患者の権利を告知する義務が医療機関にある。それはこの厚労省の見本文を見ればわかる。そこには、強制的に入院させる理由だけでなく、入院中の通信面会の権利や、弁護士などに相談する権利、そして苦情申し立てをする権利などが書かれていて、医療者は本人に渡さなければならないことになっている。形式合理性としても権利擁護ポリシーは存在している。
だが、NPO大阪精神医療人権センターの病院訪問などを通じて学んで来たのは、この患者への告知が極めて簡素だったり、紙切れを渡されるだけで十分な説明がなかったり、この告知文章自体がものすごく読みにくくて小さな字で印刷されていて、そもそも理解出来なかったり、ということが患者から語られていたことである。
これはまさに「ポリシーはウェブサイトに居座ることができる」という事態そのものである。病院側からすると、監査などで疑義が生じたときには、「告知文は渡しています」とポリシーをクリアすることができる。だが、実際にはそれが十分にわかりやすく説明されていないので、患者はそのポリシーを使えない。そもそも十分に理解していない。自らの現状に不満があっても、誰に・何を・どのように訴えてよいのかわからない。これもノンパフォ−マティビティの典型例である。
・・・と書いてきたが、この本の舞台は、福祉現場ではない。大学におけるハラスメント被害者の語りがその主軸になっている。そこでは、以下のような権力勾配がある。
“博士号取得を目指しているのに批判もまともに受け取れないようではそもそも博士課程に進むべきではない”(p210)
このフレーズに釘付けになってしまった。それは、僕自身が体験したことだからだ。
で、そのまめに少し回り道。こないだ出したちくまプリマー新書『福祉は誰のため?』において、批判と否定や非難は違うと整理した。ある人の経験や価値観、人格そのものを毀損するのは否定や非難である。その一方、別の可能性を想起するための営為が「批判」である。この基準で上記の言葉を読み解けば、上記の教授による大学院生への暴言は、ある人の経験や価値観、人格そのものを毀損するという意味において否定や非難であり、決して批判ではない。そして、僕自身も同様の否定や非難を受けたことがある。
「あなたのような弱い人間は、大学院を辞めてしまいなさい!」
これは、四半世紀前、所属する大学院の大講座の教員に言われたフレーズである。この言葉は本当に応えた。人生の中で、胃が痛くなり、食事も喉を通りづらくなったのは、後にも先にもこの時だけだ。自分の直接の指導教官ではなかったけど、博士論文の査定をする側の一人に、大学院を辞めろと言われたのである。しかも、その理由を、彼女は僕自身の「弱さ」にあると指摘した。確かに彼女の逆鱗に触れることを僕はした。でも、それは指導教官の指示に基づいてしたことだった。にも関わらず、怒りは指導教官という彼女より立場の上の人には向けられず、実行役である下っ端の院生である僕に向けられた。こちらが何度謝っても許してもらえず、ガン無視されるようになり、半泣き状態だったけれど、指導教官に「誠意を持って謝るように」と言われ、もう一度謝罪に言った時に、投げつけられたのが、先のフレーズである。
「ハラスメント(harassment)という言葉は、「疲弊させる」だとか「悩ませる」という意味のフランス語「haraser」からきている。初期の用法では、「つらい経験の継続や反復が原因で休む時間がとれず、疲弊の苦しみを味わう」という意味だった。構造は反復されるものに関わる。「つらい経験が繰り返される」とき、構造は消耗させるものであると同時に屈辱を与えたり侮辱したりするものとなる。一部の人を消耗させ侮辱する構造は一方でその他の人たちを「自由」にする。苦情は構造について多くを伝える。」(p235)
まず、四半世紀前の僕自身の大学院生時代、アカデミック・ハラスメントなるフレーズを知らなかった。大学にあるハラスメント窓口はなかったか、あったとしてもセクハラだけだった。僕自身のジェンダーバイアスも機能して、女性教官から男性院生が叱責される事態は、僕自身の弱さや至らなさ、愚かさが原因であり、権力勾配に基づく暴力的言説であるとは気づいていなかった。彼女にそれ以来無視され続け、彼女のトヨタカローラを大学駐車場で目撃すると大学構内に入れなかった経験が一度や二度ではない僕にとって、「つらい経験が繰り返される」ことであった。そして冒頭に引用した「適切ではない言葉にも、自分は適切なのかと疑問に思わせる力がある」というのはまさにその通りで、大学教員にそのような烙印を押されたのだから、僕自身が弱いのであり、大学院にいる資格はないのではないか、と真剣に落ち込んだ。その当時は、「構造は消耗させるものであると同時に屈辱を与えたり侮辱したりするものとなる」というフレーズ自体を理解していなかった。
だが、15年前に名著『ハラスメントは連鎖する』を読んで、自分自身の問題に矮小化していた問題が、アカデミック・ハラスメントであると、やっと認めざるを得なくなった。
「ハラスメントとは、『人格に対する攻撃』『人格に対する攻撃に気がついてはいけないという命令』の二つの合わせ技であり、情動反応の否定とラベル付けの強制によって実行される。そしてハラスメントにかかった状態、つまり呪縛された状態とは、『いわれなき劣等感』を押しつけられた上で、『劣等感に気づかないように設定した自己像』を守ろうとする状態である。」(「ハラスメントは連鎖する」、p185)
大学院生の僕自身は、「あなたのような弱い人間は、大学院を辞めてしまいなさい!」という形で直接的に『人格に対する攻撃』を受けた。これは批判ではなく、許されざる否定や非難である。だが、博士課程の学生に対して、大学教員という教える側の教員から「大学院にいる資格はない」と宣告されることは、『人格に対する攻撃に気がついてはいけないという命令』そのものである。僕自身はこの命令を真面目に信じてしまい、自分が通う場=大学院に行ってはいけないのだ、という深刻なダブルバインドに陥った。だから彼女を象徴するトヨタカローラを大学構内で見つけるたびに、「大学院に行ってはいけない」という「内なる命令」に従って、家に帰ったのである。そしてそれは「あなたのような弱い人間は」というフレーズを結果的に追認するようになる。大学院に来れないなら、来る資格はないのだ、と。それで僕自身は胃を痛めた。
その一方、「一部の人を消耗させ侮辱する構造は一方でその他の人たちを「自由」にする」。僕は所属校を逃げるように去ったが、僕以外にもハラスメント加害をし続けた本人は、未だにご自身の行為がとがめられていないからである。
「いじめの加害者は自分こそ被害者だと訴えることが多い」(「苦情はいつも聴かれない」p248)
「苦情を訴えるに当たって支援を求める人たちは、たいてい論文フェミニストのことをよく知っている。—それは、論文の中ではフェミニストなのに現実の実践が伴わない人たちのことだ。これはリベラル・ホワイト・フェミニズムと呼べるかも知れない。女性個人のキャリアの進展が、いかに積極的に組織の問題にかかわらないようにするかということにかかわっている状況を指す。沈黙は昇進なり。」(p419)
「あなたのような弱い人間は、大学院を辞めてしまいなさい!」と大学院生の私に投げつけた大学教員は、仄聞すると、私以外の院生にハラスメントを繰り返しながらも、自らを「自分こそ被害者だと訴える」ようである。「わたしはこんなにしてあげたのに、恩知らずだ」と。その「被害者」ポジションに居着くと、自らの加害性について反省的に振り返ることから構造的に逃れる「自由」を獲得できるのだ。
また、彼女は論文ではフェミニズムや民主主義を扱っている「論文フェミニスト」である。だが、「論文の中ではフェミニストなのに現実の実践が伴わない人たち」そのものでもあった。言っていることとやっていることがズレている。そういう意味では、安冨歩さんが喝破した立場主義者にも通底する。
立場主義三原則
1,「役」を果たすためには、なんでもしなくてはならない。
2,「立場」を守るためなら、なにをしても良い。
3,人の「立場」を脅かしてはならない。
被害者の「立場」に固執する彼女は、「「立場」を守るためなら、なにをしても良い」を内面化しているように、弱い院生へのハラスメントを繰り返しているようだ。だが、それは自らと同格や自らより上のポジションの教員集団に対しては、「人の「立場」を脅かしてはならない」からしない。あくまでも、権力勾配がキツく、自らの立場が絶対的な院生との「指導」関係の中で、行う。しかも、他人にとがめられても、「自分こそ被害者だと訴えること」によって、問題告発からすり抜ける事は可能なのだ。そして、ハラスメントを受ける側は、「『いわれなき劣等感』を押しつけられた上で、『劣等感に気づかないように設定した自己像』を守ろうとする状態」になり、苦情を口に出来なくなるのである。
なんだか出口のない文章になりそうなので、最後に希望の引用をして終わる。
「集合的な苦情は意識掲揚(コンシャスネス・レイジング)の一形式にもなる。私は第四章で、苦情は構造に対する感情から始まることがあると示唆した。感情は共有されるのだと。意識掲揚について考えるとき、ひとつの部屋に他人と集まって、共有された経験について振り返るという場面が思い浮かぶかもしれない。集合的な苦情を意識掲揚として理解する事は、実践的な課題を受け取るという行動において意識が獲得されることを示している。(略)苦情とは実践的な現象学だ。組織の機能に対する苦情を訴えるという実践的な労力から、私たちは組織がどのように機能するのかを知るようになる。」(p457)
意識掲揚(コンシャスネス・レイジング)とは、僕なりに言えば、自分がこれまで気づいていなかった・見えていなかった・盲点になっていたことに気づき、認識枠組みを変えることである。「枠組み外し」とか「当たり前をひっくり返す」とか、著作に用いてきたフレーズは、どれもコンシャスネス・レイジングそのものである。それは、社会構造の中で抑圧されてきた障害者たちが、社会運動の中で獲得してきたものであり、その障害者運動から学んだ僕自身が、少しずつ気づき始めたことでもある。
それまで、「あなたのような弱い人間は、大学院を辞めてしまいなさい!」ということばを真に受け、僕が弱いのだ、大学で学び続ける資格はないのだ、と自らを毀損した自分がいた。でも、なんとか大学院をサバイブし、大学教員になり時間が経つプロセスにおいて、この問題について色々な人に話をし、「ひとつの部屋に他人と集まって、共有された経験について振り返る」ような場面も過ごしてきた。その中で、僕自身が過度に自己責任化していた問題についても、大学のハラスメント窓口が当時なかったことや、僕と彼女の人間関係の個人的なこじれに矮小化されたことも含め、組織的な対応が当時なされていなかったことの構造的瑕疵に、大学教員になってようやく気づいた。
僕がこの経験を赤裸々に書くのは、今なおどこかで権力勾配の支配下において抑圧を受けている人に向けた、「意識掲揚(コンシャスネス・レイジング)」の意図がある。「自分が悪い・弱い・愚かだ」と思ってやり過ごそうとしていることのなかに、権力勾配や支配—服従関係を利用した悪質なハラスメントが紛れ込んでいないか? あなたが、『いわれなき劣等感』を押しつけられた上で、『劣等感に気づかないように設定した自己像』を守ろうとする状態にいるとしたら、それは呪縛された状態にあるし、ハラスメントそのものである。
それにたいして、「あかんもんはあかん」と異議申し立てすることが、「組織の機能に対する苦情を訴える」ことそのものである。あなた自身の問題に矮小化してはいけない。また、自分ひとりで抱えてはならない。「集合的な苦情を意識掲揚として理解する事」から、「実践的な現象学」は始まる。構造はそれをなかったことにする=ノンパフォーマティビティに溢れている。でも、集合的に=コレクティブに苦情を言い続けることで、実践的な現象学のダイナミズムは動き始めるのである。泣き寝入りせず、構造的暴力に対して、連帯して「あかんもんはあかん」と言い続けることが、必要不可欠なのだ。
「システムを変えようとする人たちを阻止することによってシステムは機能している」からこそ、「あかんもんはあかん」と集合的に言い続けることによって、そのシステムの悪循環に楔を打ち込み、別の機能をさせるようにシステムを変えていく必要があるのだ。これがノンパフォーマティビティへの反旗であり、「実践的な現象学」の入り口なのである。