いい加減な言葉を使わないために

 

ひさしぶりにパジャマな一日であった。
どれくらいぶりだろう、全く家から出ずにのんびり過ごせたのは。

元々貧乏性なのか落ち着きがないのか、休みの日でもちょこまかちょこまか、ジムだの買い物だのと出かけているうちに、結局休みの日なのにあんまり休めない、という笑うに笑えない日々を過ごしがちだった。さすがに最近スケジュールがきつい(なんせ2週間前から毎週大阪出張が入り、大阪に行かない週はサンフランシスコに行く、というえげつない日程な)ので、この週末は家で休もう、と予定を空けておいたのだ。

本当はとある締め切りを過ぎた原稿と向き合うはずだったのだが・・・それは書きあぐねていたら共同執筆者の方が一端引き取ってくださったので、奇跡的に「何もない週末」が生まれる。良きことである。昨日はプールで泳いだり、お買い物に行ったり、という典型的な週末を過ごしたので、今日は買い置きも一応あり、家から出なくて良い。しかも昨晩はよく寝て、キムチやニンニクも食べたし、エネルギーも充分。ということで、したかったけど出来なかったあれこれ、をこなしていく。

午前中に4ヶ月も出来なかった懸案仕事をこなして、少し肩の荷が下りる。なので、午後からは、前回の「てこ読書」でご紹介した「てこメモ」作り。「てこ読書」の本を含め、最近読んだ三冊の本を「てこメモ」化する。どれも大事な本なので、メモし出すだけで半日が過ぎていった。とくにメモしていて、印象に残ったものを、いくつかご紹介してみよう。

「反対意見に接した場合、できるだけ、『なるほどそういう考え方もあるのか』『私は反対だが、あなたの意見はわかった』という態度をとりたいものである。反対意見をあしざまに批判するのは、自信のなさの裏返しである。情報を集めるには、選り好みをしないことである。嫌いな人の話であっても、もたらす情報の価値がないわけではない。『何かの手がかりを得られるかもしれない』と考え、先入観をもたずに耳を傾けることが有用である。『反対意見』と受け取らず、『情報収集の一環』として聞く態度が必要である。批判に耳を貸すとき、思索は一段と深まる。反対意見を聞くのは、他人のデータ・ベースにアクセスするようなものである。」(「プロ弁護士の思考術」 矢部正秋著、PHP新書 p130-131

反対意見を「他人のデータ・ベースにアクセスする」とは、なるほど、その通りである。でも、どうしても論理より感情を先行させて、「あしざまに批判」していたタケバタがいた。でもこれって、「自信のなさの裏返し」なんだよねぇ。確かに自分と同意見よりも、反対意見の中にこそ、「何かの手がかり」の要素が詰まっている場合が多いはずである。というか、反対意見をひっくり返したい、と思うのであれば、なおのこと、相手の意見表明を感情的敵対視するのではなく、「『情報収集の一環』として聞く態度が必要」なんだよなぁ。そう思っていたら、同じようなことを、別の「てこメモ」でもメモしている。

「対話というプロセスが生産的に進むための重要で当たり前の条件は、相手が言っていることの内容、真意を正確に理解することである。(略)『まず相手のことを理解する』というスタンスの人が少なく、『自分の言いたいことを相手にぶつける』ために対話をしてしまう人が多いのである。そのために、正確に相手の言うことを理解するのができにくくなってしまっている。」(「創造的論文の書き方」 伊丹敬之著、有斐閣 p245

何度も繰り返しているが、対話とは、結論を留保して、相手側の意見への回路をきちんと開いておくことである。“I am right, you are wrong!”と決めつけないのはもちろんのこと、相手と反対の意見を持っていても、最初からそう宣言する事はせず(自分の判断を一端留保して)、まず「相手が言っていることの内容、真意を正確に理解する」ことが第一義的に大切なのだ。でも、僕自身は、ある後輩に指摘されたこともあるのだが、「『自分の言いたいことを相手にぶつける』ために対話をしてしまう」部分がある。インタビューをしょっちゅうしているもんだから、どんどん「なぜ?なぜ?」と聞いていくやり方をよくするのだが、でもそれって自分の枠組みの中での「なぜ」から抜け出せていない場合もある。「正確に相手の言うことを理解する」ことをする前から、途中で遮って、「なぜ」モードに入ることは、相手の意見の正しい理解を遠ざけ、自分の枠組みを相手にぶつける、という可能性があるのだ。もう少し落ち着いて、じっくり聴かねば。来週からまたインタビュー調査も再会するしね。と、てこメモで反省しきりである。

で、この伊丹氏の「創造的論文の書き方」はすごく今の自分にとって大切だったので、二読したら、メモだらけだった。当然てこメモも膨大に増え、気が付けば7ページに。でも、このメモは、てこメモ提唱者のいうように、なるべくなら身体化したい内容だ。

「いつも持ち歩いて繰り返し何度も読むと、その内容が、だんだん自分になじんできます。使い込んだ道具が手のひらになじむように、ものの考え方や行動習慣が自分自身のものになっていきます。」(「レバレッジ・リーディング」 本田直之著、東洋経済新報社 p156

僕はいい加減な人間なので、論文のお作法に関しても、現時点でも相当いい加減な部分がある。言葉の使い方にしてもしかり。だから、先人の叡智を学び、「ものの考え方や行動習慣が自分自身のもの」にしたいから、メモをとってみた。で、そういう自分のこれまでのいい加減さに関しては、先に挙げた「創造的論文の書き方」の最後で、伊丹氏は次のようにびしっと総括してくれている。

「言葉を大切に使うということは、考えるプロセスをきちんと行うということと同じ事なのである。的確な言語表現を考え、言葉を厳密に使うことは、じつは概念的思考力を鍛えることと同じである。だから私は、言葉を大切に使うことをことさらに強調する。言葉をおろそかにする人は、言葉の逆襲を必ず受ける。(「創造的論文の書き方」 伊丹敬之著、有斐閣 p269

こないだ査読論文にrejectされたのも、結局「言葉をおろそかに」した故に、「言葉の逆襲」を受けたのである。そういえば、大学院時代の師匠は、超一流のジャーナリストでいらっしゃるのだが、口を酸っぱくしていつも、「いい加減な言葉を使ってはいけない」と教えてくださっていた。でも、正直、それが自分の心の底に届いていたか、というと、怪しい。わかって、努力していた「つもり」でいたが、実はちゃんと身体化出来ていなかったのだ。正しい言葉を使うために苦悶すること、それは面倒なことではなく、「概念的思考力を鍛えること」そのものだったのだ。

自分自身が「概念的思考力」に弱さを感じていて、ここしばらく方法論の本を読みあさっていた。だが、「灯台もと暗し」。実はこの点はずいぶん前から指導教官に何度も指摘されていたのに、僕自身の「『まず相手のことを理解する』というスタンス」の欠如ゆえに、そのことに今まで気づけなかったのだ。ああ、ほんとに人の話をちゃんと聞く余裕が今までなかったんだなぁ、と情けない限り。せめて、この「無知の知」を、同じ過ちを繰り返さないために活用せねば。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。