「わからない」という「蓋」を外せるか?

今日の朝日新聞で、「15歳と語る沖縄」という座談会が掲載されていた。その中で、沖縄在住のライター、知念ウシさんが気になることを語っていた。

「気になるのは、みなさんから『難しい』『わからない』という言葉が出ることです。全部知って、初めて意見が言えるとか行動できるということではないと思う。『これっておかしい』だけでいい。おかしい、ショックだ、悲しい、逃げたくなった。まずそういう自分自身に気づく。そこから考える。伝える。全部わからないといけないなんて思っていたら、何もできません。」
僕はこの語りを、深く頷きながら読んでいた。
勤務先の大学の横には、系列の短大があり、その保育科で「地域福祉」の講義を担当して、4年目になる。法学部政治行政学科でも同様の講義をしているのだが、短大の保育科の学生と比較すると、大きく違う事がある。それは、短大の保育科の学生の方が、遙かに「正しいこと」を希求している、ということである。裏を返せば、「間違ってはいけない」という規範概念が強く、それゆえ、正しいかどうかわからないことについては、「難しい」「わからない」という言葉が比較的、多く出るということだ。
僕の講義では、できる限り双方向型にするために、毎回、あるトピックに関するビデオや新聞記事の素材に触れた後、そのトピックについて、どう考えるか、という設問をワークシートに書き込んでもらい、その書いた内容について、ランダムにマイクを向け、発表してもらうスタイルを取っている。これは大学でも短大でも同じなのだが、その際、マイクを向けると、大学よりも短大の方が、拒否反応が多い。最近でこそ、その理由がわかったので、オリエンテーションで「正しい意見ではなく、あなたの感じたことを話してほしい」「語ってくれたことについて、僕が『正しい』とか『間違っている』と査定するようなことはしない」と、繰り返し伝えるようになって、拒否反応がだいぶ消えた。それでも、授業の最初の方では、「当てられるとパニックになる」「『何で?』と突っ込まれるのが恐怖」「意見を言うのは怖い」などのコメントが、講義後のリアクションとして寄せられる。
僕は、その背後には、「正解幻想」という考えがあるような気がしている。これは以前ブログに書いたこともあるし、拙著『枠組み外しの旅』でも考えたことだが、「ちゃんとした正解があるはずだし、それに従わなければならない」という「思い込み」である。もちろん、センター試験に代表される高校までの勉強は、マルかバツか、の二項対立的な「正解」を求める思考様式に支配されている。高校生までは、比較的その考え方に親和的だ。だが、恋人や配偶者、仕事、居住地・・・を選ぶこと、あるいはどのような食事を取れば長生きするか、など、世の中の行動の大半には唯一で正しい「正解」はない。にもかかわらず、特に同調圧力の強い日本においては、空気を読み、世間にしがたいながら、「これをすれば正解だろう」という「正解幻想」に浸り、そこから抜け出せない雰囲気が蔓延している。そして、拙著ではこんな風に分析した。
「他人を治療・教育する、という医者や教員のエクリチュールそのものに、社会的に「望ましい」とされる「正しさ」や「正常」といった規範や社会通念がこびりついている。しかも、その「望ましさ」が、医師や教師はこうあるべし、という役割期待(=というエクリチュール)を作り上げている。」(竹端寛『枠組み外しの旅―「個性化」が変える福祉社会』青灯社、p38)
これは、僕自身が「正解幻想」に陥っていたことを分析したくだり、であるが、保育科の学生も、「ちゃんとした保育者にならなければ」という善意思が強ければ強いほど、僕が陥っていたのと同種の「正解幻想」に浸りやすいと思う。そして、社会的な役割期待に迎合しようと必死になって、その「望ましさ」や「社会的に評価される正しさ(Political correctness)」の範囲から逸脱するような内容については、「わからない」「難しい」と口にしやすいし、それ以上について伺うと、「頭が真っ白になる」というのである。
このことを以前から問題視していたのだが、今日の知念さんの意見を読んで、その前提というか、メカニズムがクリアになった。彼女は「わからない」「難しい」と口にする背後に、「全部知って、初めて意見が言えるとか行動できる」という規範意識を指摘している。つまり、「意見とは、一通りのことを全部知ってから、言うべきこと」「社会的な行動とは、一通りのことを全部知ってから、行うべきこと」という規範意識である。僕が接した学生たちが「意見を言うのが怖い」というとき、「一通りのことを全部知っていないのに、意見を言ってはいけない」という暗黙の前提があるような気がする。
それに対して、知念さんは「『これっておかしい』だけでいい」と言い切る。「おかしい、ショックだ、悲しい、逃げたくなった。まずそういう自分自身に気づく。そこから考える。伝える。全部わからないといけないなんて思っていたら、何もできません。」とも言う。これはどういうことか。
論理的な意見を構築する為には、その問題に関する多角的な情報を収集し、その正否を比較検討した上で、自分なりの筋道をつける事が求められる。これが「意見とは、一通りのことを全部知ってから、言うべきこと」という規範意識の前提にある。だが、知念さんが語ったのは、その論理的な意見構築以前に、『これっておかしい』という感情や感覚がわいたら、その感覚を大切にせよ、というメッセージである。「おかしい、ショックだ、悲しい、逃げたくなった。まずそういう自分自身に気づく」ことの重要性を指摘している。自分の魂がダイレクトに感じたことに蓋をせず、そう感じた「自分自身に気づくこと」が大切だ、という。その「気づき」をもとに、考えはじめたらいい、という。つまり、情報収集して正否の比較検討をした後に「意見」を持つのではなく、まず直感的に「意見」の元になる意思判断の感覚を持って、その感覚に基づいて情報収集して、自分なりに「意見」を育んだらいい、そう伝えてくれているように感じた。
こう書くと、もうひとりの、一応は科学的・学問的ルールを身につけたタケバタヒロシから、それって「科学的ではない」「最初から主観的なバイアスに左右された、一方的な議論や意見に偏る情報収集になるのではないか」という疑いの声が聞こえる。だが、僕は、先述の拙著の冒頭で、「蓋」概念を用いて、こんな風にも考えてみた。
「「どうせ」「しかたない」というフレーズは、自らの潜在能力の最大化にとって最大の「蓋」であり、「呪縛」の言葉である。「どうせ」「しかたない」と述べることで、自分の、社会の、世界の変容可能性を拒絶し、旧来の世界に閉じこもることを容認している。しかも、変えられない現実に対して文句や不満を持ちながら、「でも、しゃあないやん」と、呪詛のように、「諦め」の言葉を発して、自分に言い聞かせようとしている。あたかも自己洗脳のように。そうして、それ以外の世界に蓋をすることで、自分の中に澱のように「諦め」を沈殿させ、その「諦めの沈殿物」によって、自らの魂は毀損され、内側から腐り続けていく。気がつけば若い日に持っていた溌剌とした気持ちはすっかり萎え、日常生活はパターン化されたものになり、余計なことに手を出さず、ため息をつきながら与えられた仕事に我慢して堪え、様々な事も「見て見ぬ振り」をして、感覚や感情にも蓋をして、「つつがない日々」を送ろうとする・・・。」
「難しい」「わからない」というフレーズも、「どうせ」「しかたない」というフレーズも、「自らの潜在能力の最大化にとって最大の「蓋」であり、「呪縛」の言葉」であると感じる。つまり、それらの言葉を吐くことで、これ以上その問題にはコミットしたくない、という意思宣言になる。そして、僕が学生たちにマイクを向けたとき、ややこしい社会的問題について「あなたはどう思う」と伺った時ほど、この「難しい」「わからない」というフレーズを耳にする。つまり、どれを言えば「正しいか」という正解が見えにくい問題の場合、とにかく「難しい」「わからない」と言ってその場をスルーすることが出来ないか、という防御機制が働く。これは、「どうせ」「しかたない」という発言をするときの防御機制と全く同種の構造であると感じる。そして、これらのフレーズを言う時、「自分の、社会の、世界の変容可能性を拒絶し、旧来の世界に閉じこもることを容認している」ようにも受け取れる。
確かに、余計なことには関わらないことの方がスマートかも知れない。自分自身をコントロールしやすいかもしれない。だからこそ、沖縄の米軍基地の問題や、原発の是非、あるいは憲法改正の問題など、事が大きくなればなるほど、「難しい」「わからない」「どうせ」「しかたない」というフレーズになりやすい。そういう大きな問題について、「一通りのことを全部知って」いないのに、なんかの意見を言う立場にない、という考えだ。面倒なことには関わりたくない、という感覚もあるのかもしれない。
だが、「難しい」「わからない」「どうせ」「しかたない」という呪詛の言葉を多用する事で、「それ以外の世界に蓋をすることで、自分の中に澱のように「諦め」を沈殿させ、その「諦めの沈殿物」によって、自らの魂は毀損され、内側から腐り続けていく。」 これは、本を書きながら強く感じたことだし、そうやって「魂が既存された」た人の言葉のことを、安冨先生は「東大話法」と名付けていた。そのような魂の劣化を避けるために大切なのが、冒頭で引用した知念さんが言う、『これっておかしい』という感情や感覚なのである。論理の後に感情、ではない。直感的に感じたことを、本当にそうかどうか確かめるために、学び、考えていくのである。筋道が逆である。
教育や福祉など、「~すべし」という規範が強いところほど、直感や感覚的なものを抑圧する傾向もある。だが、大切なのは、まず自らの魂が蓋されることなく、しっかりと大地を踏みしめていることである。それがなしに、いくら知識を身につけたところで、それらは上滑りの知識であり、その知識を用いる者も、内側からの「溌剌さ」が抜けてしまう。
ある問題に接したとき、直感的に、「これっておかしい」という言霊がわき上がってきた。ならば、その感覚は「おかしくない」のである。その感覚を大切に育むことは、規範意識という名の蓋を突き破り、「自分の、社会の、世界の変容可能性」を信じ続け、実行に移すための、必要不可欠な要素である。
保育の現場に出る学生さんたちに、この真っ当な感覚を持ち付けてもらいたい、そう思いながら、教育現場でも「枠組み外し」にコミットしている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。