1年ぶりの単著執筆プロセス

1ヶ月近くも、ブログに書く時間がとれなかった。

4月の後半は、講義やら学内委員会仕事やら、でドタバタ過ぎ去り、連休はうちの大学は幸運にも全部休みにしたので(近年15回授業必須の呪縛の影響でGW期間中も講義をしている大学も多い)、二冊目の単著となる予定の「権利擁護本」の序論を必死になって書いていた。
新たなテーマでまとまった何かを書くときは、深く自分の中に潜り込み、あるテーマに関して、これまで知っていること・考えてきたことを掘り下げて考え抜く中で、思いもよらなかった何か、に辿り着く。去年の連休も同じサイクルだったので、ちょうど1年前、人生初の単著となる原稿の初稿を書き終えた頃、ブログでこんなふうに書いていた。
『書いている自分自身にとって、「新鮮み」や「発見」のない原稿を書きたくない。でも、僕が持ち合わせている知識や元ネタには限界がある。それをないから、と新しい本を読むことに必死になったら、クイズ王的なトリビアとしての「新鮮な発見」はあるかもしれないが、内容的には面白くない。むしろ、「新たな発見」とは、これまで見えている景色を、どう新しく解釈できるか、ではないか。それは、新たな情報を探し続けるネットサーフィン的なものではなく、村上春樹流に言えば、「井戸を掘る」ように、所与の前提とされた世界観の奥底に潜む、誰もが知らない集合的無意識のような闇に潜り込み、その中から、自分でしかすくい取れない視点や考え方を掘り当てて、この世の光に照らし直すような営みでは無いか。そして、その営みこそ、内田樹さんは「前言撤回的」と言ったのではないか。』
これは、一冊の本を書き終えてみて、深く実感することである。
僕自身、「研究者」という肩書きに必死になって適応しようとしていた頃は、「クイズ王的なトリビア」に拘っていたのかもしれない。あるいは、「先行研究のレビュー」という「お作法」に雁字搦めになる、とか。実は、いままで権利擁護について書きためてきた論文集を出してもらえることになり、その序章を書こうと4月の後半から机の前に座っても、1週間ほど、固まっていた。その最大の理由が、この「お作法」や「トリビア」への無意識的こだわり、であった。まだまだ権利擁護について、Advocacyについて、知らないことは多いし、読むべき未読文献も少なくとも集めたものだけでも山ほどある。それを全部網羅して体系的に論述しないと何か言えないのではないか、と思い込んでいた。
ただ、ある時点で、「待てよ、読者はだれだ?」と問い直す自分がいた。
この本は、博士論文を取得するために書いているのではない。また、研究者向け、というより、ケアマネージャーや社会福祉士、PSWや行政職員など、権利擁護に日々関わる現場職員にこそ、読んでもらいたい、と思っている。であれば、そのような体系的な権利擁護やアドボカシーの理論的・概念的整理にエネルギーを注ぐ必要があるのか、を問い直した。確かに文献レビューをすることも、それはそれとして「新鮮さ」や「発見」があることは、僕も博論や査読論文を書く中で、多少なりとも経験している。だが、単著は、そのような厳密な科学的手続きの世界の枠組みに拘束されず、もう少し自由に、議論を展開できるはずだ。そして、権利擁護実践について伝えたいのは、現場を変えるための「武器となる知識」である。
また、前期のブログでも触れた、1年前に仲間に言われた次のフレーズも引っかかっていた。
『これまでの竹端論文を全て読んできたので、コアなファンの眼では「竹端論文ダイジェスト+新事例」という印象で、新鮮な発見が少なかったからかもしれません。もちろん、一般の読者にとっては、要旨明瞭で、竹端論文の美味しいとこ取りの論文だと思いました。』
実は上記の指摘は、とある原稿を書いた際に受けたコメントだったのだが、この時点で、「権利擁護」について、「縮小再生産になるくらいなら、原稿を書くのをやめよう!」、と決意した。そこで、これまで書きためてきた「権利擁護」についての原稿は一端横に置き、ここ数年続けてきた「魂の脱植民地化」研究を自分自身の実存にアクセスさせる中で、『枠組み外しの旅』という名の一冊に仕上がった。
で、結果的にこれまでの内容を捨てて、自らの「個性化」を先に探求してよかった、と、この連休、つくづく感じている。今年の連休に2万5千字ほど書き上げた、新たな単著用の「序章」では、「反-対話」から「対話」モードへの相互変容や、それを通じた「個性化」のプロセス、それを通じた「学びの渦」の形成などの『枠組み外しの旅』のコア概念を、権利擁護やアドボカシーの考察に注ぎ込むことが出来た。1年前に自分の中では「掘りきった井戸」は、これまで書きためて来たけれど、十分に掘り切れていなかった「別の井戸」を貫通させるために、非常に役立ったのだ。
「所与の前提とされた世界観の奥底に潜む、誰もが知らない集合的無意識のような闇に潜り込み、その中から、自分でしかすくい取れない視点や考え方を掘り当てて、この世の光に照らし直すような営み」までが出来たかどうか、は読者のご判断に任せるしかない。でも、自分の中では、近年地域包括ケア領域で盛んに「困難事例」と言われる「ゴミ屋敷」問題を主題として、その「ゴミ屋敷の主」がどのような内在的論理で世界を眺めているのか、をナラティブモードの知で再解釈する事から、「生きる苦悩に寄り添う支援」としての権利擁護課題を照らし出すことができた。その原稿を書く中で、「縮小再生産」ではなく、「前言撤回」的に、これまで考えてきたことを、別の新たな確度から光を入れて考え直すことができた。前回はユングの「個性化」論だったが、今回は木村敏氏の現象的人間学や臨床哲学を援用し、特に氏の初期作品から、大きな影響を受けながら、文章を書き進めた。
「枠組み外し」というのは現象学的還元だが、その現象学的還元の先にある人間理解、「病気」や「異常」な人という差別的見方ではなく「生きる苦悩」を抱えた人、という人間理解が、権利擁護の根本にある。今回の原稿を書く中で、深くそれを感じている。権利擁護は成年後見とイコールではない。成年後見は、権利擁護実践の大事な方法論の一つではあるが、その方法論が自己目的化している現実に、僕は違和感を持っている。なぜなら、あくまでも社会的弱者と言われる人の内在的論理や「生きる苦悩の最大化」に寄り添い、そこからエンパワメント支援を高めていくことこそ、権利擁護やアドボカシーの最大の醍醐味だからだ。その目的が薄れたところで、方法論が自己目的化することに、非常に大きな危惧を感じている。
・・・といったことも、新たに井戸を掘り直す中で、するすると言語化できた。
この連休で、何とか序論を書き終えた。あとは、掲載予定の原稿を、リライトする作業。これも時間がかかるだろうが、きちんと書き込み、訂正していかないと、リーダーフレンドリーではない。というわけで、まだしばらく原稿書きに没頭する日々だが、とにかく必死だった去年とは違い、このプロセスを「至福の時間」と思えるようになってきたのが、去年に比べての少しだけの進歩かも知れない。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。