サイロを破壊せよ

文化人類学者が新聞記者になれば、先進国での「おかしな振る舞い」をこのように普遍化して描いてみせることが出来る。これが、『サイロエフェクト』を読み進める中で感じたワクワクであり、読後は「僕もこういう仕事が出来ればなぁ」と思いを新たにさせられた。サイロとは、あの牛舎の側にある、干し草を溜めておく塔のこと。日本語で言えば、組織における「タコツボ化」の弊害を説いた本、と言える。

「サイロには弊害もある。専門家チームに分けられると互いに敵対し、リソースを浪費することもある。互いに断絶した部署や専門家チームがコミュニケーションできず、高い代償をともなう危険なリスクを見逃すこともある。組織の細分化は情報のボトルネックを生み出し、イノベーションを抑制しかねない。何よりサイロは心理的な視野を狭め、周りが見えなくなるような状況を引き起こし、人を愚かな行動に走らせる。」(ジリアン・テッド著 『サイロ・エフェクト-高度専門家社会の罠』文藝春秋、p28)
これは、イヴァン・イリイチが半世紀前から警告していたことであるが、現実にこの専門職支配が広がる中で、弊害が増えている。ipod一つに絞ってデジタル音楽端末で勝利したアップルと、タコツボ化した事業部門間の競争ゆえに3つもデバイスを作って自滅したソニーの対比。あるいは「手堅い銀行」と言われたUSB銀行やJPモルガン銀行が、サイロ化した目立たない周辺部局による複雑な金融取引で大損する一方、そのサイロの弊害を冷静に分析し、儲けたヘッジファンドがいたこと。フェースブックはソニーやマイクロソフトのサイロ化を「他山の石」として警戒し、常にサイロ化を突き破るような組織的な仕掛けをし続けていること。また、医療技術が優れても「共感がない」と批判されたことに端を発し、脱サイロ化に向けて患者のニーズに基づく組織改編を成しとげたクリーブランド・クリニック。それぞれのエピソードも、十分に面白い。だが、それよりも興味深いのが、この文化人類学的記者の視点である。
「ブルデューは異文化に身を投じることで、人生に対する新たな視点を手に入れた。新たな世界に身を投じることは、異なる社会の理解を可能にしただけでなく、自らの文化を新たな視点で見直すことにつながった。そこから引き出せる重要な教訓は、ブルデューのような境界を越える勇気を持ったインサイダー兼アウトサイダーになると、無自覚のまま継承していた分類システムのくびきから逃れることができるということだ。それは視野を広げ、普段はその存在すら意識しないような自らを形成する文化的パターンについて、目の覚めるような理解をもたらしてくれる。
これは人類学者に限った話ではない。自らのサイロから飛び出す意欲を持ち、思いもよらない形で人生を形作っていたサイロを破壊しようとすれば、必ず新たな気づきが得られる。」(同上、p188-189)
ブルデューといえば、以前ブログにも書いたが、この文化人類学者で社会学の大家は「必然性という囚われからの自由」を、自身のライフワークとしていた。サイロとは、その専門性に裏打ちされた目の前の世界を「これしかない」「これは絶対大丈夫・間違いない」と信じ込む「必然性という囚われ」によって、作り上げられていく。この時、インサイダーだけでは、その「必然性」を自明なものとするし、アウトサイダーだけであれば、インサイダーにはその批判は届かない。「境界を越える勇気を持ったインサイダー兼アウトサイダー」というのは、インサイダーから「仲間」と見なされる範囲に踏みとどまりながら、自身の頭の中身は「境界を越える勇気」を持ち、自分自身が「無自覚のまま継承していた分類システムのくびきから逃れ」るだけでなく、組織の「分類システム」そのものの問題に向き合おうとする人のことを指す。
それは、「自らの文化を新たな視点で見直す」ことになるのだが、「普段はその存在すら意識しないような自らを形成する文化的パターン」を炙り出すゆえに、その文化の人々にとっては、異端扱いされる。非常識だと言われたり、わかっていないと断罪されるかもしれない。そのような文化的障壁を越えて、扉を開け、風を入れ、組織的な澱みを新たな視点で問い直すことが出来るかどうか、が「サイロの弊害」を超えてイノベーションを加速化させる上で不可欠な要素である、と著者は指摘する。それは僕自身も多いに賛同する視点である。
「報道機関が(記者ではなく)読者のモノの考え方に応じて仕事の方法を見直したら、メディアはどう変わるだろうか。メーカーが(営業マンやデザイナーではなく)消費者の価値観に応じて組織体制を見直したら、今と同じ商品を売るだろうか。要するに、重要なのはビジネスプロセスやサービスの見方を上下左右にひっくり返してみると、組織のモノの考え方が変わるかもしれない、ということだ。あるいは、どのような成果が生まれるかわからなくてもリスクを取ろうという姿勢が組織に浸透していれば、同じ効果が期待できる。」(同上、p280)
外科と内科、政治部と社会部、企画と営業、企画総務課と福祉課、などの「分類システム」は、病院や新聞社、メーカー、自治体などの組織が、その仕事を効率化・専門化するために作った「サイロ」である。それは、一つの案件のみに専心するのであれば、十分に役立つサイロであった。だが、人々のニーズは複雑・複合化している。従来は、サービスの対象者に分類を当てはめていたが、一人一人の対象者の立ち位置から、分類システムそのものの有効性を問い直すことが、サイロ・分類システムの弊害や煮詰まりを超える上で、必要不可欠なのだ。大学で言うなら、文科省の中央集権的な分類変更に振り回されるのではなく、学生一人一人のパフォーマンスの最大化の為に、教職員組織や学部変成、シラバスがどう変容すべきか、を現場レベルから問い直すことである。それは、自分に関わりのある組織を思い浮かべると、もちろん容易ではないことがわかる。
でも、地域包括ケアシステムの構築で、僕自身がいくつかの自治体からアドバイザーとして呼ばれる時に、僕に求められる役割とは、結局の所、「インサイダー兼アウトサイダー」なんだろうな、とこれを読みながら、強く思う。役所の、包括支援センターの中だけでは、何かが変だ、と思っても、その「分類システム」に疑いをもつことさえ、できない。だから、僕のようなアウトサイダーが、インサイダーから呼ばれ、イン
サイダーの話をじっくりうかがう中で、「普段はその存在すら意識しないような自らを形成する文化的パターン」を指摘したり、自分で気付いてもらう支援が大切なのだと思う。その上で、「プロセスやサービスの見方を上下左右にひっくり返してみると、組織のモノの考え方が変わるかもしれない」という体験をしてもらい、そこから、自分たちで創り上げる組織体制や組織改編のお手伝いをしているのかもしれない。僕が呼ばれる時って、何らかの部分で「情報のボトルネックを生み出し、イノベーションを抑制しかねない」状況が生み出されている。だから僕がすべきなのは、下手に空気を読まず、分類システムに順応せず、「上下左右にひっくり返して」、変なものは変と言い続けることなのだと思う。
そういう意味で、僕は昔も今も変わらないサイロ破壊者的アドバイザーなのだな、とずっと思う。結局現場の職員のみなさんにずっと伝え続けていること。それは「自らのサイロから飛び出す意欲を持ち、思いもよらない形で人生を形作っていたサイロを破壊しようとすれば、必ず新たな気づきが得られる」よ、という「枠組みはずしの旅」のススメ、なのであった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。