積ん読の効用!?

世の中には、買ってすぐ読める本と、寝かしておいた方が良い「積ん読」本がある。今回は、2014年に購入しているから、7年前に買い求めた、定評のある一冊なのだけれど、ぼくは最近まで「読めなかった」。でも、2022年の今だからこそ、読んですごく良かった。それが『その後の不自由』(上岡陽江・大嶋栄子著、医学書院)である。

「疲れたって言えばいいのに言えずに自殺未遂しちゃう人たちですが、『死ぬ』としか言えなくて本当に死んじゃうことが私は怖いんです。だから、グチも不満も何も言えなくて“いい人でしかいられない”人たちに、『少し日常的に困ってることを話そう』とか言ってあげてください。手首を切ってまで生き延びようとしている人たちなんだから、グチがないわけはありません。」(p103)

この記述の迫力というか、真の価値を、7年前のぼくが理解出来ていたか、というと、多分怪しい。それはちょうど1年前に読んだ、荒井裕樹さんの本に出てくる「苦しみ」と「苦しいこと」の違い、などを補助線にすると、やっと理解出来る世界である。

「疲れた」という「グチや不満」が言えない。だからこそ、リストカットしたり、本当に死んじゃう人がいる。そんなの普通じゃあり得ない、と、昔なら思っていた。でも「疲れた」「しんどい」という形で「苦しみ」を表現出来ないから、でも「苦しいこと」をわかってほしいから、自殺未遂しちゃうとか、手首を切るのである。これは「死にたい」のではなくて、「手首を切ってまで生き延びようとしている人」の、「苦しいこと」という自己表現なのだ。そのことを押さえた上で、上岡さんや大嶋さんの語る内容を読んでいくと、ほんとうに頷くことが多い。

「アルコールや薬などアディクションは止まらないままであっても、たしかによくなっていく。よくなっていくとは、仕事、お金、社会的地位など“何か”を手に入れるといった、上昇していくことではないと思います。
むしろ自分がさまざまなものへのめり込みながら逃れようとしたこと、忘れようとしたことを、なかったことにしないでほしいのです。嗜癖にのめり込んだ意味を消して生きることは、自分を否定しながら生きることです。人に迷惑をかけたことをきちんと償うことは大切ですし、病気のせいにして自分を正当化するのはそれこそビョーキです。
けれども、自分のなかにある、『そうでもしなければ生きられなかったなかで嗜癖が必要だった』というその“意味”を消してしまうと、等身大の自分と、表面に見せている自分の距離が少しずつ大きくなってしまいます。その距離の大きさはやがてバネのような反動となり、ふたたび本人を嗜癖の世界へと押し戻してしまうでしょう。」(p127-128)

「嗜癖」や「アディクション」を「仕事中毒」と入れ替えると、案外多くの人に当てはまる可能性の言葉ではないだろうか。ぼくはそれを、子育てをしながらの5年間の間に感じている。

子どもが産まれる前は、「馬車馬の論理」だった。業績をとにかく沢山出さなければ、そのためにはもっともっとインプットして、もっとアウトプットしなければ、と強迫観念的に思い込んでいた。読めるはずもないほどの大量の本を買い込み、研修や講演の依頼があればとにかく引き受けて全国各地を移動しまくり、予定表をみっちり詰める事をデフォルトにして、その中での効率性を高める為のライフハック本を読みまくっていた。それは、「もっともっと」という「上昇」志向そのもの、だった。

だからこそ、子育てを始めて仕事を極端に減らした時、身を切るように苦しかった。あれは、今から思うと、仕事中毒というアディクションから離脱する時の苦しみだったのかもしれない、と思う。自分の存在価値が否定されるような苦しみに、当時は感じられた。でもよく考えてみれば、それまでのぼくは、仕事中毒になることで、自分自身の自己肯定感を満たそうとしていた。忙しいほど評価されていると思い込んでいた。そして、忙殺されることで、「自分がさまざまなものへのめり込みながら逃れようとしたこと、忘れようとしたこと」を、「なかったこと」にしていた。

子どもが産まれた後、仕事の量を極端にセーブすると、その「なかったこと」が見えてきた。「等身大の自分と、表面に見せている自分の距離」というものが、クリアになってきた。それはぼく自身が仕事中毒という「嗜癖にのめり込んだ意味」を考え直すプロセスでもあった。前任校で准教授から教授になり、給与も上がり、講演や研修にもひっきりなしに呼ばれていた。でもそのなかで、ある種の虚像というか、「等身大の自分」から離れた何かになっていたのだと、今になっては思う。

「ケアと男性」で書き続けてきたが、子育てというのは、本当に思い通りにならない、想定外の、自分で選択も決定も出来ないことだらけだ。子どもの事で、親が振り回されまくっている。それは、腹が立ったり、トホホと思うことだらけだ。でも、そのプロセスがあるからこそ、娘や妻との関わりのなかで、ぼくは有り難いことに、「等身大の自分と、表面に見せている自分の距離が少しずつ大きくなって」いくことを食い止めることができた。娘と関わっていると、虚像のぼくを出そうとしても、等身大のぼくに引き戻してくれるのである。

嗜癖と仕事中毒を、それでもやっぱりごっちゃにされたくない、と感情的に反発する人はいるだろう。でも、『そうでもしなければ生きられなかったなかで嗜癖や仕事中毒が必要だった』という補助線は、沢山の気づきをもたらしてくれると思う。それは医師で、自分自身も仕事中毒でクラシック音楽CDの「買い物依存症」でもあったGabor MateのTED映像をみても、そう思う。彼はこう語っている。

「依存とは一時的な安らぎや喜びを与えながら、長期的には害になり悪影響をもららす行動のことで、その悪影響にも関わらずやめることができないもの」

この定義に照らすと、家族や他の社会関係、等身大の自分自身との関係もなおざりにして仕事に忙殺されるほど、のめり込むことは、明確な「依存」でありアディクションである。

そして、この本はそういったアディクションから距離を取った「その後の不自由」が描かれている。確かに、一度距離を取ったからといって、そう簡単に自由になれるわけではない。子どもが赤ちゃんの時代は仕事をかなり減らしていたが、今はこども園に行き、そのうち小学校に行くようになると、少しずつ仕事できる時間が増える。そして、放っておいたら、また以前と同じように仕事中毒になりかねない。だからこそ、等身大の自分、とか、向き合ってこなかった、逃げていた自分自身の実存と不自由ながらも向き合う事が出来るか、が「その後」の人生には問われているのだ。

「回復とはある地点に到達することではなく、むしろ変化し続ける過程そのものを指している」(p126)

アルコール依存でもリストカットでも仕事中毒でも、その地点に到達して無限ループに入っている限り、「回復」とは言わない。その悪循環から出る、ということは、何かに没頭・埋没・はまり込んだ状況から抜け出る、ということである。生きていると、様々なことが起こる。そのことに、柔軟に対応し続け、変化し続ける。その過程が「回復」というのだ。それは、子どもを育てながら、柔軟に対応し続け、今も変化をし続けている、というか、娘にそれを迫られている父としては、本当によくわかる。

・・・と書いてみて、単なる書評を書くつもりが、まさか自分語りをするとは思ってみなかった。でも、それほど、アディクションの問題って、すごく縁遠い、一部の人の困った・他人事の問題のように見えて、いま・ここ、の自分に近い、自分事の課題なのだと思う。そしてそれを実感として言葉にするためには、購入してから7年間、寝かせて置く必要があっとのだと思う。時間はかかったけれど、いい本を読めました。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。