フィールドワークの方法論の本は色々読んで来たけど、類書とは一線を画する一冊が『人間と社会のうごきをとらえるフィールドワーク入門』(新原道信編著、ミネルヴァ書房)である。
何が圧倒されるって、中堅・若手のフィールドワーカーの葛藤やモヤモヤが、そのものとして書かれている。その泥臭さがいい。ぼく自身もフィールドワーク経験でモヤモヤしていたので、そのモヤモヤをシンクロさせるような、ほんまもんのモヤモヤで溢れている。
「その後もクアラルンプールでのフィールドワークは継続した。といっても、しばらくはインタビューはやめ、ただヨガ教室に参加するのみだった。時には、数ヶ月ひたすら一緒にエクササイズしただけで日本に帰るので、先生の方から『本当にこれが研究になっているのか』と心配されたこともある。私にはもはや何を聞けば良いのか、何を知りたいのかもわからなくなっていた。このとき、私自身がヨガの実践者であったことは、意味があったように思う。自分の関心や疑問を明確に言語化して相手に伝えることができなくても、私がヨガについて真剣に考えたいと思っていることは察してもらえていたようだった。」(栗原美紀さん、p238)
「研究をめぐる方法論には、おおまかな定石がある。たとえば、<公害を知りたいなら、何か具体的な事件・問題を対象とした事例研究から始めるべきである>。あるいは、<人物研究の対象は、亡くなってしばらく経過し、当該人物に関する社会的評価がある程度つかめてから取り組むべきである>。筆者は、こうした定石は耳にしながらも、呑込むことはできず、自らの立場を決めかねたままの時間が長かった。あなたの研究の方法は?と問われると答えに窮し、壁を感じた。いまも、その壁を乗り越えてきたとは言えない。」(友澤悠季さん、p79-80)
「なぜ、『からだひとつ』で生きる姿に反響したのか。それはひとえに、私の父が、祖父が、祖母が、おじが、みなそうやって生きてきたからである。私は修士課程の院生時代より、自分では明確に意識することなしに、フィールドに『ついて』分析するのではなく、フィールド『から』考える方法を模索していた。『からだひとつ』で食べていくことは困難である。からだを壊したら困窮へと一直線だ。そして貧しさは、他者に馬鹿にされる引き金にもなるだろう。貧困は、経済的問題であると同時に存在をめぐる問題である。けれども、そこにはまた、他者に身体を委ねないという自由の感覚もある。」(石岡丈昇さん、p115)
マレーシアのヨガ道場に通う、環境社会学者の飯島伸子の足跡を追う、マニラのボクシング・キャンプに入り込む・・・。一見すると全くバラバラなフィールドワークである。でも、ここで語られた三人のモヤモヤは、「それ、それ! 僕もおんなじ事を感じてきた!!!」というモヤモヤである。
栗原さんの語るように、フィールドワークに通いながら、「私にはもはや何を聞けば良いのか、何を知りたいのかもわからなくなっていた」というのは、ぼく自身にも何度もある。特に長期に通った精神科病院とか、スウェーデンでの知的障害者の当事者団体とか、しばしば通っているうちに、何のために通っているのか、わからなくなっていった。問いがなくなる、というより、それまでの事前調査や仮説で抱いた問が消失しながら、ではそれを越える問いが浮かんでこない。でも、とにかく通い続けながら考えるしかない、というじれったい思いを抱えた期間である。そして、後から考えると、そういう移行期混乱を経た上でないと、オリジナルな問いは浮かんでこないのだ、とも経験則として感じている。
また、友澤さんの語る「こうした定石は耳にしながらも、呑込むことはできず。自らの立場を決めかねたままの時間が長かった。あなたの研究の方法は?と問われると答えに窮し、壁を感じた。いまも、その壁を乗り越えてきたとは言えない」というのも、まさにぼく自身に当てはまるので、そうそう!と頷いていた。フィールドワークや先行研究の「定石」とは、これまでに刊行された、すでに行われた内容としての「定石」である。確かに、そうすれば手堅いのかもしれない。でも、なんだかよくわからないけど、すんなり鵜呑みに・呑み込むことができない。論理的には説明出来ないけど、何だか違うような気がする。
また、「研究方法」は?と聴かれて、○○法で、という枠組みをしっかり言えたらどれほどいいだろうと思う。でも、実際にオモロイと思う対象や現場に出会ってしまい、それをひたすら追いかけている間に、○○法という解釈枠組みへの当てはめばかり考えていると、せっかく肉薄したい現実が、するりと通り抜けてしまうような気もする。あるフレームを当てはめる、ということは、そのフレームからこぼれ落ちるものは「なかったことにする」となりかねない。それもモノグラフにまとめる時には必要かも知れないが、すくなくともその現場でオモロイと感じている現象や対象を追いかけている「いま・ここ」で、すぐに解釈してフレームに切り落としてしまうようなことはしたくない。だからこそ、僕だって「あなたの研究の方法は?と問われると答えに窮し、壁を感じた」し「いまも、その壁を乗り越えてきたとは言えない」のである。
そして、これは石岡さんの語るように、ぼく自身も「自分では明確に意識することなしに、フィールドに『ついて』分析するのではなく、フィールド『から』考える方法を模索していた」ということなのだと、改めて思う。フィールドを対象化して、その全体像を客観的に把握する。そのような形の、大量な情報処理をスマートにこなしながら一つの「客観的な物語」に仕上げるフィールドワークもあるだろう。でも、僕には無理だった。そうではなくて、フィールドで感じるモヤモヤをもとに、そこ「から」考えて、自分自身の個人史と交錯させながら、その現場「から」考え続けるしかないと思ってきたし、それをずっとつづけてきた。
そういう意味では、今回引用できなかった他の著者の方々のフィールドワークも含めて、この本に登場する方々は、みんな現場でオロオロしたり、モヤモヤしたり、悩み不全感を抱きながら、自分自身と向き合いながら、現場で感じた事を必死になって言語化されようとしてきた。そして、それこそぼく自身もフィールドワークでやってきたことだし、大学院の頃にこういう先輩のモヤモヤこそを知りたかった(のに知る機会がなかった)と改めて感じる。
その上で、この本の編著者である新原先生について。
僕は直接お目にかかったことはないのだが、新原先生のお弟子さんで、この本の著者の一人、鈴木鉄忠さんとは、フランコ・バザーリアやトリエステ方式に関する著作や通訳でお目にかかり、以後共同研究をさせて頂いている仲間である。今回はお二人からこの本を頂いた。そして、鈴木さんからは、研究会を通じて新原先生の誠実でひたむきなフィールドワークの姿勢を又聞きして学び続けてきた。
例えば、インタビューさせてもらった相手に、なるべく早くその日の感想や感じた事をお礼メールに添えてフィードバックとして返したほうがよい、というのは、鈴木さん経由で学んだことであり、僕もこの数年、しっかり実践していることだ。非対称な関係性での搾取を増やさないためにも、きちんとフィードバックをすることが、フィールドやインタビュー相手への最低限の敬意につながる、というのも、言われてみればその通りなのだが、それを実直にやっておられるからこそ、イタリアという異境の地で、多くの方々と信頼関係を切り結んで来られたのだと思う。そのあたり、新原先生の若い時代の試行錯誤については、以前『旅をして、出会い、ともに考える』という素敵な著作で学ばせて頂いたことでもある。
そして、今回新原先生が書かれた部分として、特に「いま・ここ」のぼく自身に繋がっている部分を、最後に触れておきたい。
「デイリーワークは、『勉強の時間に』というよりは、むしろ『オフ』の時間、ふつうの時間をフィールドとして、日常生活のあらゆる様々な場面で、素朴かつ率直に、感じ、考えたことを、“大量で詳細な記述法”によって“描き遺す”ことを基本とする。“大量で詳細な記述法”は、とりわけ、たいへんな時期、危機の瞬間、予想外のことや困ったことが起こっているとき、いままでのやり方ではうまくいかないときに、真価が問われ、深化していく方法だ。ゆっくりものを考え書くことなどできない状況で、たとえそれがつたないものでも、その日の社会と自分を観察し、その日に“描き遺す”という“不断/普段の営み”を続けると、自分の中に『洞察力』がつくられていく。」(p26)
実はこの「デイリーワーク」という言葉に、この5年ほど、どれほど救われただろう!
子どもが生まれて、家事育児をなるべく対等に分担しようとしたら、フィールドワークどころではなくなってしまった。すると、自分の存在価値というか「売り」のような部分がもぎ取られたようになり、アイデンティティ・クライシスのようになりかけた。そんな折に鈴木さんから「デイリーワーク」という言葉を聞き、そうか、フィールドワークしていなくても、「いま・ここ」で出来ることがあるんだ、とすごく救われた。
まさに仕事中心モードから子育て中心モードへの転換期こそ、「たいへんな時期、危機の瞬間、予想外のことや困ったことが起こっているとき、いままでのやり方ではうまくいかないとき」であったので、ぼくはデイリーワークにすがるしかなかった。だからこそ、ツイッタやブログで断片的に思うことを書き付けたり、それを現代書館のnoteで連載させて頂いてきた。ぼく自身は、子育てについて断片的に考え、書き続けることは、「ゆっくりものを考え書くことなどできない状況で、たとえそれがつたないものでも、その日の社会と自分を観察し、その日に“描き遺す”という“不断/普段の営み”」であったのだと思う。それは、フィールドワークが出来なくてもデイリーワークなら出来るのだ、という大いなる発見であり、希望や勇気を頂く視点だった。
そういう意味で、新原さんが序章の締めくくりに書かれたことが、見事に華開いた素晴らしい一冊だと感じたし、私の中では色々なことが鳴動し続けている。
「『生きられたフィールドワーク』と読者の間で、かすかな鳴動が産まれ、“対話的にふりかえり交わる”という“交感/交換/交歓”が生まれることを祈念しつつ」(p31)