説得ではなく納得

私たちは、「常識的」「道徳的」な眼差しで判断すると、大きく問題の本質を取り逃がすときがある。とくに、「問題行動」とラベリングされる事象を前にしたとき、どのようにそれを捉えるか、で大きく異なる。ふつう、誰かが何かの「問題行動」を起こし、他者に迷惑をかけた時、それに対する反省と謝罪が求められる。だが、単なる反省や謝罪は、本質的に解決には結びつかない、とはっきり主張する本と出会った。

「反省させるだけだと、なぜ自分が問題を起こしたのかを考えることになりません。言い換えれば、反省は、自分の内面と向き合う機会(チャンス)を奪っているのです。問題を起こすに至るには、必ずその人なりの『理由』があります。その理由にじっくり耳を傾けることによって、その人は次第に自分の内面の問題に気づくことになるのです。この場合の『内面の問題に気づく』ための方法は、『相手のことを考えること』ではありません。」(岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』新潮新書 p76)
一見すると「反-常識・道徳」的な文章である。だが、実際に刑務所での矯正教育に携わり、受刑者たちの更正に成果を上げている著者の言うことには、重みがある。それだけでない、実はこのフレーズを読んで、これこそ僕自身も感じてきたことだ、と我が意を得た気持ちになった。
ブログを見返してみたら、2年ほど前に、レポートでコピーアンドペースト(コピペ)をしているのを発見した学生を指導したエピソードに基づいて、こんな文章を書いていた。
『先のコピペ学生の場合、たまたま僕が叱責型の限界を感じていて、また時間もあったので、コピペする背景には何があるか、を相手と共に探ることが出来た。だから、短時間で表面的理由(クラブが忙しい)の背後にある真の理由(どう書いていいのかわからない)という所に結びつき、それを変える為の支援(クラブの内容と似ている所に引きつけて書いてご覧)と言えば、じゃあ週末に書けますという解決策を導くことが出来た。
これを、例えば「問題行動」「反社会的行動」をする人の支援、に当てはめてみると、僕などより遙かに大変長いプロセスがあるが、ある種の共通性はあるのではないか、と思う。本人がその行為が悪い、ということが理解できていないかもしれない。あるいは「ダメだ」という言語的コミュニケーションを「叱責的解決」と理解できず、パニックになったり、暴れ出すかもしれない。言語的コミュニケーション自体が苦手な場合もあるかもしれない。でも、支援する側としては、探偵になって、何がその背景にあるのか、どういう場面でそういうことが起こるか、繰り返されるとしたら何が鍵となっているか、を探しながら、少しずつ本質に迫っていき、本人が「ダメな行為」をする事で表現したかった事を理解し、それをしないでも済む為の方策を探りだそうとする。これは、力量ある支援者なら、当たり前のようにやっている支援の王道でもある。』
そう、反省や謝罪を促す「叱責型」の「限界」とは、結局表面的な謝罪や反省に終始し、相手の行動変容に結びつかない、という点である。一方的なお説教をただ有り難く伺う、という「反-対話」的なやり方であれば、説教者の自己満足は満たせても、よもや相手の行動変容には結びつかない。それは、「説得」の論理だからである。一方、本当に相手の中に「反省」や「謝罪」の気持ちを芽生えさせたい、つまりは相手を変えたい、と思うなら、相手がまず「納得」する必要がある。そこには、一方通行ではなく、双方向の「対話」がないとはじまらない。
先に引用した岡本氏は「問題を起こすに至るには、必ずその人なりの『理由』があります」と述べる。また彼は、問題行動は「必要行動」だとも述べる。反社会的な、あるいは逸脱行動に、「必要行動」なんて書くと、また非常識だ、道徳的なセンスに欠ける、と言われるかもしれない。だが、そういう社会の常識に「反する」「逸脱」する行動を取らざるを得なかった本人側に、それなりの「理由」や「必要性」があるのだ。だからこそ、そういう行動に出るのである。それを、単に叱責したり、あるいは体罰を加えて、恐怖や脅しで「するな」と言っても、それなりの「理由」「必要性」を打ち消すことにはつながらない。本人でも、時として整理できないまま行った「問題行動」に対して、その「理由」や「必要性」を訊ね、相手と共に考えることで、「(本人が時には気づいていない)『自分自身の内面の問題に気づく』」ことが出来る。そして、この「自分自身の内面の問題に気づく」ことが出来て、初めて納得が生まれる。だからこそ、行動変容が始まるのである
僕の関わる障害者福祉の領域に引きつけて、以前のブログでは「支援という探偵業」と整理した。「問題行動」を叱責・糾弾するのは、道徳的・常識的には良いのかもしれない。そうやって、「悪いこと」が広まらないように、プロパガンダすることも、秩序形成には役に立つのかもしれない。だが、「問題行動」を実際に起こしている人に対して、その「行動」をしないような「支援」をしようとするのなら、その種のプロパガンダは百害あって一利なし、ということになる。なぜなら、それは、本人を「説得」することはあっても、本人が「納得」に基づいて行動変容する支援とは言えないからだ。逆に言えば、問題行動という「問題の顕在化」した事態(=危機)をチャンスと捉え、その背後にどのような「内面の問題」があるのかを、支援者と本人が共に掘り下げ、そこからそのような「行動」に至らない方法論を共に模索する必要があるのだ。
そのことを、以前拙著ではこんな風に書いていた。
『他人を「説得」する理論を構築する前に、お互いが「納得」する理由を「探求するプロセス」に身を投じ、変わる方が、支援目標にたどりつく上で、効率的で効果的である。』(竹端寛『枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会』青灯社、 p95)
「説得」の論理とは、自分自身が変わることなく、相手に「変われ!」と命令・指示する論理である。その論理で事が済むなら、そもそも「問題行動」は生じない。逆に言えば、「問題行動」が生じるのは、その「説得」の論理の破綻した結果である、ともいえる。であれば、その「問題行動」を減らす・なくす事に関わる支援者・教育者に求められるのは、まず相手を変える前に、自らの「説得」論理というアプローチそのものを変えることである。(これも拙著で散々検討したことでもある。例えば次のブログなど参照)
お互いが「納得」する理由を「探求するプロセス」に身を投じること。これこそ、支援者に求められる、寄り添う姿勢であろう。同じ事を、岡本氏も次のように整理している。
「真の反省は、自分の心のなかにつまっていた寂しさ、悲しみ、苦しみと言った感情を吐き出させると、自然と心の中から芽生えてくるものです。(略) 非行少年であれ受刑者であれ、問題行動を起こした者に対して支援するのであれば、反省をさせるのではなく、なぜ犯罪を起こすにいたったのかを探求していく姿勢で臨むことが、結果として彼らに真の立ち直りを促すのです。」(岡本、同上、p130)
認知症のお年寄りの徘徊、あるいは強度行動障害を持つ人の暴力、精神疾患を持つ人の自傷行為・・・それらにも共通するのは、心の中につまっていた寂しさ、悲しみ、苦しみが沸点を超えてわき出した「問題行動」である、という理解である。その時、「やってはいけない」と「説得」モードを振りかざしても、本人の切迫感には何も響かない。本人の切迫感の元にある、「寂しさ、悲しみ、苦しみ」という「内面の問題」をじっくり伺って、言語表現が出来ない相手なら共感的に受け止め、その本質を探求するプロセスに身を投じることからしか、「問題」の「解決」に向けた糸口は見つからない。説得ではなく、支援する側・される側の相互の納得でしか、人は変わらない。改めてその原則を噛みしめた一冊であった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。